熊倉一雄さんのお別れ会
祭壇に立てられた熊倉一雄さんの遺影。恵比寿・エコー劇場。
フルートを吹く芝居好き
2015年12月1日、東京の恵比寿・エコー劇場で、熊倉一雄のお別れ会がとりおこなわれた。
お別れ会はたいてい哀しいものであるが、熊倉のお別れ会は、どこかユーモラスで、懐かしい雰囲気の集まりだった。
篠崎秀樹とスウィート・ファンタジア・オーケストラによる『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌をジャズ風にアレンジした生演奏とともに始まった。奇しくも『ゲゲゲの鬼太郎』の作者である水木しげるさんは、前日に亡くなったばかりだ。熊倉は『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌をリクエストされると、なぜか3番だけを歌ったそうである。
そして司会をつとめるテアトル・エコーの永井寛孝が、熊倉さんの生い立ちを紹介する。そこで意外だったのは、バイオリンを弾く少年であり、旧制高校に進学してからはフルート奏者として研鑽を積んでいたという音楽好きな一面である。学生時代はオーケストラにも入っていた。
初舞台は大学祭で演じたゴーゴリの『検察官』で、ちびの地主役だった。舞台に立った感動が忘れられず、劇団感覚座を旗揚げするが、3回の公演で劇団は解散。それから東京演劇アカデミーに入学して、基礎から稽古をやり直す。モダンダンスなどを習いながら、進駐軍のショーにも出たこともあった。そして、写譜のアルバイトをしながら生活費を稼いだそうである。
1953年に劇団東芸に入団するが、しばらくして退団して、日本テレビに大道具係の班長として入社。しかし、その後、どうしても演劇がしたくて東芸に復団する。
1955 年にテアトル・エコーのキノトール作『スパイの技術』を見て感動し、解散寸前だった劇団に合流。その翌年の1956年9月1日に、現在のテアトル・エコーを結成する。毎年公演を重ねて、誰もが認める老舗の喜劇劇団になった。そして2015年10月21日、熊倉一雄は永眠した。
笑いに満ちた型破りな弔辞の数々
生い立ちのあとは、熊倉がばくさんとして出演したNHKのテレビ番組『ばくさんのかばん』(1980年~87年)に登場する、なんでも出てくる不思議なカバンから、舞台やテレビの仕事が飛び出してくるかたちで、その膨大な仕事が紹介された。このような紹介の仕方が、テアトル・エコーのやりかたであり、楽しい趣向である。
まず、『ひょっこりひょうたん島』のディレクターだった武井博氏から、当時の熊倉の横顔が紹介された。熊倉は「教養があって面白い人で、いつも新しい本を読んでいる」という印象だったという。
ひょうたん島の大統領ドン・ガバチョが藤村有弘が強い個性の持ち主だったため、バランスをとるようにして、海賊トラヒゲに熊倉が抜擢された。熊倉が技をもっているだけでなく、人格者であり、真面目な人柄を評価した人選だったようだ。そのようにして藤村・熊倉の名コンビが誕生した。トラヒゲは人格者で真面目な海賊なのだ。
『ひょっこりひょうたん島』では、登場人物全員が歌をうたうが、これも音楽に造詣の深い熊倉の歌唱指導のたまものだった。
あるとき、ふだんから遅れ気味の台本原稿が、さらに遅れはじめたことがあり、その原因を問い質したところ、熊倉が井上ひさし氏に戯曲をお願いしていたことが判明した。テアトル・エコーに『表裏源内蛙合戦』を執筆していたためである。
つづいて、作曲家の服部公一氏が、熊倉の音楽と『日本人のへそ』の成立過程について、指揮者の籾山和明氏が、熊倉と山形フィルハーモニー交響楽団の長年の交流について紹介した。日本テレビ時代の同僚でもあり、フルート仲間でもあった照明家の吉井澄雄氏は、熊倉の人柄を「緻密で誠実で一生懸命」と語った。音楽やオペラの話ができる唯一の友人だったという。
ディズニーの原画と『ひょっこりひょうたん島』の歌声
ここで会場の上手と下手の壁に飾られた4枚の原画についての紹介があった。ディズニーのアメリカ本社のアニメーターがお別れの会のために描いて送ってくれた『白雪姫』の先生、『ピノキオ』のゼペット、『ピーターパン』のスミー、『美女と野獣』のコックスワースである。どれも熊倉が声の出演をした役である。
それから、『ひょっこりひょうたん島』の主題歌を歌った前川陽子氏が、アカペラでその曲を披露。当時、中学生だった前川氏は、ミカン箱の上に載って歌ったそうである。元気のよい歌声を聴くうちに、悲しい気持ちがどんどん吹き飛んでいく。熊倉とは『忍者ハットリくん』でデュエットもしたそうだ。
テレビのインタビューに答えて、熊倉一雄の思い出を語る野沢雅子。
元気な歌のあとは、熊倉の妻・正子氏からご挨拶があり、8月に入院してからの様子が説明された。熊倉を「くまたん」と呼び、尊敬する先輩であり敬愛する夫の約2カ月間の闘病生活について語った。一度、自宅に帰ったときの熊倉の嬉しそうな顔が忘れられないという。
熊倉がいちばん好きな曲は、ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章であり、10月に出演予定だった山形フィルハーモニー交響楽団がその曲をコンサートで演奏し、黙祷してくれたことに感謝を述べた。
最後にテアトル・エコーの戸部信一がお礼の挨拶を述べたあと、『ヒッチコック劇場』のテーマ音楽が流され、熊倉が好きだったベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が流れるなか、献花がおこなわれた。
生演奏と音楽、そしてお別れの会にもかかわらず「笑い」にこだわった熊倉らしいものでいっぱいの集まりだった。
『ひょっこりひょうたん島』がテレビで放映されたのは、わたしがまだ小学校に入学する前で、『ゲゲゲの鬼太郎』のときは小学生だったと記憶しているが、自分が大好きだったものや世界を、当時、苦労は見せないで、いろんな工夫をして生み出してくれていた方々に初めて出会う時間でもあった。だから熊倉一雄のお別れ会は、わたしにとっては出会いの会でもあった。
「終わりは始まり」でもある。人生の最後に、誰もできない洒落た心づくしの舞台を演出して見せてくれた熊倉とテアトル・エコーに、ありがとうを伝えたい。熊倉の人生そのものが演劇であり、音楽であり、コメディであり、人を楽しませることだったのだ。