LiSA、BiSH等のギターを担いながらも、SixTONESや関ジャニ∞の楽曲を手掛け、幅広く活躍する高慶"CO-K"卓史。そのキャリアに迫る【インタビュー連載・匠の人】

インタビュー
音楽
2021.7.30
高慶"CO-K"卓史

高慶"CO-K"卓史

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その“道”のプロフェッショナルとして活躍を続けるアーティストに登場してもらう連載「匠の人」。今回のゲストは、ギタリスト/作曲家・編曲家の高慶"CO-K"卓史だ。
アニソン系イベントのバックバンドのギタリストとして業界デビューを飾った髙慶は、その後、LiSA、BiSHをはじめ、家入レオ、エレファントカシマシ、亀梨和也(KAT-TUN)、関ジャニ∞、スキマスイッチ、田所あずさなど、ジャンルの壁を越え、きわめて幅広いアーティストのライブやレコーディングに参加。さらにSixTONESの「NAVIGATOR」(作曲・編曲)、関ジャニ∞の「友よ」(編曲)の制作に関わるなど、クリエイターとしても才能を発揮している。
ここ数年は音楽スクール“慶音塾”の運営にも力を入れている高慶。地元・高知県で中学3年のときにギターを弾き始めた彼は、いかにして数多いアーティストに信頼される音楽家になったのか。その過程を語ってもらった。

――高慶さんがギターを弾き始めたきっかけから教えてもらえますか?

ギターを弾きだしたのは、中学3年のときですね。友達の家に遊びにいったら、そいつがアコギで弾き語りしてたんです。その姿があまりにもカッコ良くて、「俺もやったらモテるかも?!」と思ったのがきっかけですね(笑)。僕の兄貴がエレキをやってたので、最初からエレキを弾いてました。

――どんな曲をコピーしてたんですか?

そこがひとつめの分岐点なんですよ。それまではJ-POPばっかり聴いてて、当時大人気だったSPEEDのファンクラブに入ってたんですよ(笑)。バンドの音楽はほとんど知らなかったんですけど、兄貴がジャパメタが好きで。自分のギタリストとしての入り口も完全にメタルですね。X JAPANから入って、あとはGLAYの曲を弾いてみたり。そこからさらにメタルにハマって、LOUDNESSやジャーマンメタルも大好きになって。

――当然、速弾きも練習した?

そうですね。高校生の頃は、1秒に何個音符を詰められるか?がすべてだったので(笑)。その頃は様式美のヘビィメタルが大好きで、北欧のストラトヴァリウスだったり、イタリアのシンフォニック・メタル・バンドのラプソディー・オブ・ファイアなどをよく聴いてました。「クラシック・速弾き・ハイトーンボーカル」の3拍子が揃ったバンドに惹かれてたんですよね。

――そういう趣向だと、一緒に演奏するメンバーを探すのが大変そうですね……。

ホントに大変でした(笑)。僕が高校生の頃は空前のメロコア・ブームで、まわりにはハイスタやBRAHMANのコピーバンドばかりで。メタルはまったく流行ってなかったので、全然話が合わなかったですね。心の友は、40代、50代くらいの、ずっと皮パン、ロン毛のおじさんたちでした(笑)。一応、学校の友達とメタルのコピーバンドはやってたんですけどね。昔からドラムをやってる上手いヤツを見つけて、軽音楽部に誘って、無理矢理メタルを聴かせてコピーしてもらって。自分でオリジナル曲も作ってました。Aメロ、Bメロ、サビにすべて速弾きが入ってるインストなんですけど(笑)、かなり独創的なことをやってたと思います。あと、入り浸っていた楽器屋の店長とセッションしたり、自分なりに勉強もしてましたね。

■「日本でギターを練習したランキング」があったら5本の指に入ってる自信がある(笑)

――当時から「将来はプロになりたい」と思ってたんですか?

漠然とは思ってました。ただ、スタジオミュージシャンという職業を知らなかったので、「憧れてるバンドみたいになりたい」というだけで。僕が通ってた高校は高1の終わりに文系か理系かにわかれるんですけど、音楽をやる時間をできるだけ作りたくて、受験科目が少ない私立文系コースを選んだんです。親と「理系にいく」って約束してたんですけど、内緒で私文にしちゃって。卒業するとき、初めて息子が理系じゃなかったことを知るっていう(笑)。しかも進路は東京の音楽の専門学校ですからね。

――親御さん、ビックリされたでしょうね……。

そうですね(笑)。高校を卒業した時点では、「将来、絶対にプロになる」って相当のめりこんでたので。自分では“高知県・最速ギタリスト”だと思ってたし、メアドも“ハヤビキング(hayabiking@~)”でしたから(笑)。完全にテングになってたんですけど、東京の専門学校に通い始めて、一気に鼻をへし折られ。上手いヤツがめちゃくちゃいたし、「俺、ぜんぜんダメやん。どうしよう……」みたいな感じになっちゃって。ただ、僕は退路を断つ人生が好きみたいで、「何も成果を残さないままでは帰れない」と強烈に思ったんです。とにかく上手くなるしかないので、あとはもう練習ですよね。実際、専門学校時代まったく遊ばなかったし、「日本でギターを練習したランキング」があったら、たぶん5本の指に入ってる自信があります(笑)。あの2年間がギタリストとしての土台になったし、すごく大きかったと思います。

――専門学校に入って、音楽性の幅も広がったのでは?

すごく広がりましたね。プロのギタリストを本気で目指している同志みたいな奴と仲良くなったんですけど、彼がマイケル・ランドウとかマイケル・トンプソンなどのLA系のスタジオミュージシャンを教えてくれて。その頃はリンキン・パークとかKORNばっかり聴いてたので、「初めて聞く名前だけど、それ誰?」みたいな状態だったんですよ(笑)。で、いろいろとCDを貸してもらって聴いてるうちに、海外のセッションミュージシャンのすごさを知るようになって、さらに「J-POPにも同じような仕事をしているギタリストがいるんだ」と初めて認識して。スタジオミュージシャン、セッションミュージシャンを意識するようになったのはそこからですね。聴く音楽の幅も自然と広がりました。プロのギタリストでも得意なジャンルがあって、「この人はロック系」「この人はジャズ・フュージョン系」と分かれるんですけど、僕はわりとオールジャンルで。ジャズ以外はほとんど網羅してるんですけど、それも専門学校の時代に培ったものでしょうね。

――プロフィールには、「ギタリストオーディションに合格。横浜アリーナのステージを踏み、プロとしてのキャリアをスタート」とありますが、どんなオーディションだったんですか?

オーディションは2回受けてるんです。プロフィールに書いてあるのは最初のオーディションで、専門学校1年目のとき。Key of Lifeというユニットのリーダー・坂本裕介さんが講師をなさっていて、坂本さんが音楽監修をしていたアニメフェスのバンドのオーディションを学内でやることになったんです。初めての仕事のチャンスだし、しかも会場は横浜アリーナ。これは参加するしかないなと。オーディションでは課題の楽曲を演奏したんですけど、目立ってナンボと言いますか(笑)、上手く弾くよりもインパクトを残したいと思って、頼まれてもないのにパフォーマンス込みで演奏したんです。運よく合格したんですけど、後から聞いたら、「おまえより上手いヤツはいっぱいいたけど、弾きっぷりがよかった」と。

――パフォーマンス重視は正しい判断だったわけですね。

そうですね(笑)。2つ目のオーデイションは、専門学校を卒業した後。バンドをやりながらアルバイトしてた時期なんですが、JAM Projectのきただにひろしさんのバックバンドのオーディションを受けて合格しました。そのときのドラムが、この“匠の人”シリーズにも登場した青山英樹なんです(https://spice.eplus.jp/articles/279192)。当時はまだ10代でしたね。

――そのときからのつながりなんですね! プロのギタリストとしての活動は、まずライブがメインだったんですか?

最初の頃はほぼライブですね。この業界ではよくある話なんですけど、共演したミュージシャンが別の現場で「この前のライブでいいギタリストがいたよ」という感じで紹介してくれて、どんどん広がって。やっぱり人と人のつながりが大事というか、それのみと言ってもいいかも。今の時代はなおさらそうじゃないですかね。

■いちばんいろんな経験をさせてもらったのはLiSAさんの現場です

――その後も様々なアーティストに関わっていらっしゃいますが、これまでのキャリアのなかで転機になった仕事は?

すべてにおいて転機はあるんですが、いちばんたくさんのことを学んで、いろんな経験をさせてもらったのは、LiSAさんの現場ですね。最初の出会いは、彼女のソロデビュー作の『Letters to U』(2011年)のレコーディングなので、10年以上前です。最初に録ったのは「妄想コントローラー」。UNISON SQUARE GARDENの田淵智也くんが作曲なんですけど、彼にとって初めての楽曲提供で。田淵さんはどんどんキャリアを積み重ねてますけど、今思うとあの頃は初々しかった(笑)。

――(笑)「妄想コントローラー」はファンの間で根強い人気がある曲ですよね。当時のLiSAさんの印象は?

今と変わらないですね。いちばん最初は「初めまして。よろしくお願いします!」という感じでしたけど(笑)、当時から「やってやるぞ!精神」みたいなものがあったというか。これは僕自身もそうなので愛を込めて言うんですけど、地方出身のバンドマンの「負けるわけにはいかない」という感じがあったんじゃないかな。実際にそういう話をしたことはないですけどね。

――その後、高慶さんはLiSAさんのサポートバンド・らーメンズに参加。ライブでも重要な役割を果たすようになります。

マネージメントの方から、「ライブが決まってるので、よかったらやりませんか?」と声をかけてもらって。最初のライブは確か、『Letters to U』のインストアライブですね。そのときはアコースティックで、僕はアコギを弾きました。バンドでのライブは大阪BIGCATかな。

――2011年のツアー「LiVE is Smile Always~Letters to U~」の初日公演ですね。当時からLiSAさんは、バンドのボーカリストの雰囲気があって。バンドのとの関係も密接だったのでは?

もう言ってもいいと思うんですけど、サポートととして入ることが決まったときから、「このプロジェクトは“LiSAとバックバンド”ではなくバンドとして見せたい」と言われたんです。リハもしっかり時間をかけて、全員が暗譜(楽譜を用いず演奏すること)して。本番でも出るときはしっかり前に出てたし、ライブの組み立て方も完全にバンドでした。僕自身も、もちろんプロとしての技術は大事なんですが、どちらかというと勢いを重視して。当時、アニソンというジャンルでそういう見せ方をしているアーティストはいなかったし、それはしっかり狙っていたんだと思います。

――ロックフェスでも支持を得て、ロックシンガーとしての評価を獲得するのも必然だったんでしょうね。

そうですね。もちろん、今みたいな状況を作ったのは、彼女自身の魅力がいちばんだと思いますけどね。

――LiSAさんはその後、Zepp Tokyo、日比谷野外音楽堂、日本武道館、幕張メッセとステップアップしていきます。そのプロセスを一緒に体感しているわけですね。

まさに。これもずっと変わってないんですけど、LiSAさんは常に「どうやったらみんなが喜んでくれるか」を考えているんですよね。ライブの組み立てや演出もそうですけど、そこは本当に徹底しているし、すごいなと思います。「紅蓮華」でさらにとんでもないことになって、いい意味で背負うものが増えたとは思いますけど、この先も本当に楽しみですね。僕自身もめちゃくちゃ影響を受けてるんですよ。ギターを始めたときは、ただ弾くのが楽しいってだけだったんですけど、LiSAさんの現場に関わるようになって、エンターテインメント性の大切さとか、それに付随するストーリーを一緒に体験することで、物事をいろんな角度から見るようになって……そう考えると、自分の人生めっちゃ変わってますね(笑)。得るものだらけです。

■BiSHの現場ではただ楽器を弾いてるだけでは飲み込まれそうになる

――BiSHとの関わりについても聞かせてもらえますか?

BiSHの現場に関わるようになったのは、ここ2~3年ですね。バンドマスターの西村奈央さんとは以前からよく仕事をさせてもらっていて、彼女に声をかけてもらったのがきっかけでした。

――ここ2~3年のBiSH、めちゃくちゃ刺激的ですよね。

いやあ、僕は運がいいんですかね。メンバーはもちろん、チーム全体からマグマが噴火するような熱量を感じるし、ギタリストとしても好きなようにやらせてもらっていて。“楽器を持たないパンクバンド”を謳ってるだけあって、メンバーのキャラも強いですし、ただ楽器を弾いてるだけではのみ込まれそうになるんです。それに負けないくらいの気合いを入れてやってますね。彼女たち、普段は本当に普通の女の子なんですよ。でも、ライブになるとガッとスイッチが入って。

――ギタリストとして関わるときも、BiSHのコンセプトやテンションを理解して、それにふさわしいパフォーマンスが求められる?

そこがおもしろいところなんですよね。自分では「チャンネルを合わせる」という言葉を使ってるんですけど、アーティストに合わせて、カメレオンみたいに変化するのが大事というか。何が正解かはわからないし、あくまでも自分の判断なんですけど、それがバチン!と合ったときはめちゃくちゃ楽しくて。もちろんミュージシャンによってもスタンスは違うでしょうが、僕はダイレクトに影響を受けるし、無意識のうちに合わせにいくタイプだと思います。上手くハマらないときもあるんですけど、そこはこっちがアップデートすればいいことなので。

■しっかり目標を定めてプランを組み立てていけば海外に出るのも不可能じゃない。それを自分たちもやってみたい

――作曲家、編曲家としての活動についても聞かせてください。

曲を作りたいと思ったのも、LiSAさんの活動に参加させてもらったことがきっかけになっていて。さっき「いろんな角度から物事を見るようになった」と言いましたけど、それが「作曲や編曲をやりたい」というところにつながったんです。いろいろなアーティストのライブやレコーディングに関わる中で、自然と「こうしたらもっと良くなるのに」とか「このほうがおもしろくないかな?」というアイデアが出てくるようになって。アーティストの現場ではそこまで主張しませんが、自分の中でアイデアが蓄積されてきて、「じゃあ、自分で作れよ」と思うようになったんです。自分で曲を作れば、アーティストに対しても、「こういうのはどうですか?」と提案できる。まずはそこに100%注ぎ込んで、相手からのレスをもらって、少しずつ作り上げていくというか。

――なるほど。SixTONESの「NAVIGATOR」(作詞:髙木誠司、作曲:髙木誠司・高慶“CO-K”卓史、編曲:高慶“CO-K”卓史)は、現時点におけるクリエイターとしての高慶さんの代表曲だと思います。

SixTONESさんのコンペに参加して、採用していただいたのが「NAVIGATOR」だったんです。ライブの場合は、始まりと終わりがはっきりしているので、それを目がけて全力でやるだけなんですけど、楽曲のコンペはそうじゃなくて、やってみないとわからない。決まったときはご褒美をもらった感覚というか(笑)、達成感は確かにありますね。特に「NAVIGATOR」はたくさんの方に聴いてもらえて、作曲家、編曲家として大きな転機になりました。「『NAVIGATOR』を作った人」として知ってもらえることも増えたし、ギタリストのCO-Kだけではなく、作曲や編曲をする人としても認知してもらえたので。

――関ジャニ∞「友よ」の編曲も印象的でした。5人体制となって最初のシングルというタイミングをしっかり汲み取った、めちゃくちゃエモーショナルなサウンドだなと。

思いを込めて制作した曲なので、そう言ってもれると嬉しいです。もちろん楽曲の内容も汲んでるんですが、ジャニーズの楽曲の場合、規模的に大きい会場で鳴らされることが多いじゃないですか。これも僕の持論なんですけど、デカい会場でやる場合、あまりテクニカルことを詰め込んでも伝わりづらいし、ノリが出なないんじゃないかなと。「友よ」も、そういうことも想定しながらアレンジしてましたね。

――高慶さんは音楽活動と並行して、音楽スクール「慶音塾」を主宰しています。

「慶音塾」を立ち上げて8年くらいですが、これからはもっと力を入れたいと思ってますね。きっかけは「自分のチームを作りたい」ということだったんですよ。20代の頃はずっとひとりで活動していて、お金の話なども自分でやっていて。そのなかでいろいろな経験をさせてもらいましたが、ふと周りを見ると、チームを作って活動している人たちも結構いて。そこで思い付いたのが、「レッスンを通して、自分の活動に興味を持ってくれる人を見つけたい」ということだったんです。もちろん自分の知識は全部教えますし、そのうえで「一緒にやってみたい」と思ってくれる人がいたらいいなと。

――もちろん、下の世代のミュージシャンを育成するという狙いも?

はい。日本の音楽業界はすごくペースが速いし、一つの作品がその瞬間に判断され、結果を求められる。長期的なスパンで人材を育てるのがきついところもあるんですよね。実際、「慶音塾」でいろんなミュージシャンと接していて、「ここを磨けばおもしろくなる」という人も多くて。そういう人たちとつながり、育てながら、チームとしてのビジョンも実現していきたいですね。

――ビジョンというと?

海外に進出したいんですよね。僕は流行りものも大好きで、海外のチャートもチェックしているんですけど、今はコライト(ビートメイカー、トップライナーなど、複数のクリエイターが共同で楽曲を制作するスタイル)が主流だし、自分もその中に入っていきたいなと。

――BTSの世界的な成功以降、アジア圏のアーティストにも注目が集まってますからね。

そうですね。BTSもかなり初期から追いかけてたんですが、アプリやコンテンツがめちゃくちゃ充実していて、ずっと衝撃を受けていて。世間的には「Dynamite」で急にブレイクしたように見えるかもしれないけど、実は長い期間をかけて作戦を練ってきて、点と点をつなぎ、ストーリーを作ってきた。しっかり目標を定めてプランを組み立てていけば、海外に出るのも不可能じゃないんだなと。それを自分たちもやってみたいんですよ。

――素晴らしい。ギタリストとしてスタートしたわけですが、活動のビジョンはどんどん広がり続けていて。

嬉しいですね、ホントに。年々新しい可能性が見つかるし、そのぶん、やるべきこともいっぱいあって。ひとつひとつ形にしていきたいです。

取材・文=森朋之

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