ダンサーからドラマーへ転向し、Nissy、BoA、EXILE TAKAHIRO、ORANGE RANGE、Mrs. GREEN APPLE、織田哲郎、GReeeeN、aiko等のサポートで活躍する神田リョウ。異色のキャリアに迫る【インタビュー連載・匠の人】

インタビュー
音楽
2022.7.9
神田リョウ

神田リョウ

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“ダンサーとしてのキャリアを経て、高校でジャズビッグ・バンドへの入部をきっかけにドラマーへと転向”という経歴を持つドラマー、神田リョウ。2014年にBoAのツアーに参加したことをきっかけに、Nissy、EXILE TAKAHIRO、ORANGE RANGE、織田哲郎、GReeeeN、aiko、JUJU、Mrs. GREEN APPLEなどのレコーディングやステージをサポート。また、SNSで配信している演奏動画シリーズ“#一日一グルーヴ”、後進育成のために「神田式ゆるふわドラム塾」を主催している彼に、個性的なキャリアを振り返りつつ、ドラマーとしてのスタンスを語ってもらった。

――まずは“ダンサーからドラマーへ”という経歴について聞かせてもらえますか?

僕は一人っ子というのもあって、自分で楽しいことを見つけて、ある程度満足できるまで極めたい性格なんです。小学生のときに最初にハマったのはヨーヨー。90年代後半のハイパーヨーヨー第一世代で、バンダイが定めていた技をすべてクリアしたら“プロスピナー”の称号がもらえるんですけど、それを取ったんです。さらに上のレベルの資格もあって、それを取るとプロとして人前に出られるんですけど、だんだんとブームが落ち着いて、大会自体がなくなってきたんですよ。あと2つ技をクリアしたら最高レベルだったんですが、とりあえずやれるところまでやったという感じがあって。次に何をやろうかなと思ったときに、興味を持ったのはダンスだったんです。小6から地元(兵庫県三田市)のダンススクールに通い始めて、そのまま中学生になって。……実は僕、もともとジャニーズ事務所に所属してたんです。

――アイドルを目指していたんですか?

中学のときに「ダンスの道でプロになるのはどうしたらいいだろう?」と思い始めて。インターネットもない時代だし、情報は少なかったんですけど、「ジャニーズじゃない?」と思って試しに履歴書を送ってみたら、通ったんです。面接やダンス審査を受けて、社長のジャニーさんから「明日からレッスンに来てください」と電話をもらって。すぐにバックダンサーとして活動しはじめたんですよね。KinKi Kids、タッキー&翼、TOKIO、関ジャニ∞などの後ろで踊らせてもらって。負けず嫌いで極めたい性格だから、ステージで踊るのは楽しかったんですけど、アイドルの世界の厳しさをなんとなく感じて幼心に「この世界はしんどいな」と思ったんですよね。「このままやってきたいか?」と言われると、二つ返事で答えられないなって。ダンスに関してある程度やれたという満足感もあったので、高校受験のタイミングで辞めました。 

――そしてドラムを叩き始めた、と。既にすごい人生ですね。

はい(笑)。TOKIOの松岡(昌宏)くんの横で踊ってるときに、「この楽器、カッケーな」と思って、「俺もやってみたいな」と思って。なので「ドラムをはじめたきっかけは松岡くんです」って言ってるんですよ(笑)。最初にドラムを叩いたのは、高校の部活ですね。中学からバンドをやってる友達がいて、「楽器ができたらコミュニケーションの幅が広がりそうだな」と思い、「ドラムが叩ける部活がある」って聞いて、行ってみたらジャズのビッグバンドだったんです。「2拍目、4拍目でハイハットを踏む」みたいなことを教えられて、松岡くんのドラムしか知らなかったから、最初は“自分が思っていたドラムとは違う感”がすごかったですけどね(笑)。ふだん聴いていたロックともだいぶ違いましたけど、これもドラムの表現の一つなんだなと。とにかく上手くなりたくて、部活で練習しはじめたのがキャリアのスタートです。

――生まれながらの「極めたい」という気持ちが、ドラムに対しても出たと。 

めちゃくちゃ出ましたね(笑)。最近はキャンプや料理に凝ってるんですけど、興味を持ったことに対して、自分が知らないこと、足りないことがあるのがイヤなんですよ。努力でカバーできることは全部やりたいというか。平たく言うと凝り性なんですね(笑)。

■中学生のときに「人前で好きなことをやって、お金をいただく」ということを経験したのが大きかった

――高校時代の活動はどんな感じでした?

ジャズのビッグバンドは、正直自分がやりたい音楽ではなかったんですよね(笑)。ディズニー音楽やオシャレなカフェ、ドラマのなかで聴いたことがある、という感じで。その頃はJ-ROCKに興味があって、Hi-STANDARD、SHAKALABBITSなどが好きで。Dragon Ash、ACIDMAN、BUMP OF CHICKENとかも聴いていたし、仲間内でコピバンを組んで文化祭に出たりしてました。ドラムって垣根がないんですよ。高校の頃はドラマーが貴重な人材で、「ドラム叩けるんだったら、こっちも手伝ってよ」という感じで、いろんなジャンルの音楽を演奏してましたね。学校外でもバンドを組んでたし、練習もがんばってました。もともとは大学に行こうと思ってたんですけど、「ドラムを続けたい」と思って、地元の甲陽音楽学院に進学しました。親も理解してくれて、「音楽やりたいんだったら専門学校に行け」って言ってくれたんです。

――その時点でプロのドラマーとして活動したいと思っていた?

そうですね。「どうやらこの国では、仕事をしないと生きていけないらしい」というのが出発点なんですが、中学生のときに「人前で好きなことをやって、お金をいただく」ということを経験したのも大きくて。上手くいくかどうかは別にして、好きなことを仕事にしたいと思ったとき、自分が持っていた手札がドラムだったんです。そこからはプロとして活動すること以外は考えてなかったかな。

――専門学校に進んだことも意味があった? 

行ってよかったですね。2年のカリキュラムなんですが、知識や技術、情報を効率よく得れたと思うので。専門に行かず、自力でやってたら、めっちゃ時間がかかったでしょうし、今みたいな活動はできてなかったかもしれないなと。でも、じつはここだけの話、卒業してないんですけどね(笑)。

――在学中にプロになったということですか?

いえ、単位が足りなかったんですよ(笑)。学校には真面目にちゃんと行ってたんですけど、講義を受けるよりも、練習したり友達や先生たちと話すほうが楽しくて。何度か甲陽音楽学院のセミナーに呼んでいただいたんですが、「卒業生の神田リョウさん」と紹介されて、「俺、卒業できたんや?」って(笑)。 あ、学生の皆はちゃんと講義受けましょうね‼(笑)。

――(笑)プロとして活動しはじめたきっかけは何だったんですか?

プロの定義が曖昧なので何とも言えないんですが、いちばん最初は社会人ビッグバンドのサポートですね。僕の師匠の多田明日香さんは関西の大御所なんですが、後進育成にも力を入れていて、僕も目をかけてもらってました。いろんな現場に連れていってもらったし、ビッグバンドのサポートとして紹介してくれたんです。何とかやりきって、ギャラをいただいたのが最初の仕事でした。ただ、僕としては関西で活動する意思がなくて、20歳で上京したんですよ。

――当然、仕事のツテなどはないですよね?

ないですね(笑)。あると言えば、在学中に熱帯JAZZ楽団と一緒にステージに立てるという機会に恵まれて、バストロンボーン奏者の西田幹さんとのご縁を頂いたんです。右も左もわからない上京当初から色々とラテンコンサートなどのステージでご一緒させて頂いたり、とてもお世話になりました。あと当時はミクシィが流行っていたので、ドラマー募集のコミュニティをチェックして、いろんな人とセッションしたり。とにかく横のつながりを作ろうと思っていました。メジャーアーティストに関わるようになったのは、2014年のBoAさんのツアーなんですが、そのきっかけもバンマスの守尾崇さんと知り合いだったからなんです。上京して初めて行ったジャムセッションで知り合った同い年のベーシストの森田悠介を通じてクラブで知り合ったDJの方に守尾さんを紹介してもらって仲良くさせてもらったんですけど、「BoAのツアーバンドのオーディションがあるから、よかったら受けてみない?」と声をかけてくれて。一緒に上京して、ルームシェアもしていたベーシストの堀井慶一と一緒にエントリーしたら受かったんですよ。それが上京して5年目くらいかな。決まったときは「マジかよ?」って思いました。

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