モデル、ジャズピアニスト、女優、異色のキャリアのシンガーソングライター・甲田まひる、21歳の現在地
甲田まひる 撮影=高田梓
SPICEへの初登場は、18歳の頃。草彅剛、MEGUMIと共演した映画『台風家族』(2019年)での豪華3ショットインタビューだった甲田まひる。女優業をする前は、小学6年生でインスタグラムのファッションインフルエンサーとして注目されモデルとしても活動。さらには弱冠16歳でジャズピアニストとしてメジャーデビューしたという異色のキャリアの持ち主だ。その彼女が2021年、20歳で今度はシンガーソングライターに転身。さまざまな分野に活躍の場を広げる甲田まひる、21歳の現在地を探る。
※SPICE初登場時の映画『台風家族』インタビューはこちら:http://spice.eplus.jp/articles/253735
――アーティストとしては初登場ということで、これまでの音楽ヒストリーを核に、甲田まひるさんがどういう人なのかを探っていきたいと思います。まずは、子ども時代からのお話を伺っていきましょう。
すごくYES、NOがはっきりしている子どもでした。注目を集めることが好きで、リーダーをやりたがったり、大人と喋るのが好きでしたね。
――音楽との出会いは、ピアノ教室だったそうですが。
はい。5歳のときに、ヤマハ音楽教室に通い始めました。周りの子どもたちも習い事をしていたので、“私も!”という感じで。
――音感教育に熱心な教室だったそうですね。
そうですね。音を当てさせるゲームを日常的にやっていて、自然とみんな絶対音感を身につけていました。
――ピアノが格段に好きになったのは?
ある程度弾けるようになってからですね。最初は、エレクトーンのグループレッスンから始めて、小学校低学年くらいから本気度の高い子は専門コースに移っていくのですが、私も専門コースを選択。そこから個人レッスンが始まって、グランドピアノが弾けるようになるんです。あとヤマハには、作曲のコンクールと年2回の発表会があって、そこで優勝するようになると自信が付いてきました。
お母さんとジャズクラブに行くようになって、フリージャズ界隈が好きになって(笑)。小学校の夏休みの自由研究で「フリージャズ研究」をしました。
――ジャズとの出会いは?
当時の先生が、ジャズ好きだった影響が大きかったですね。エレクトーンでの発表会で、先生がショパンの曲をラテンにアレンジしてくれたり、ジャズをやらせてくれたりして。
――エレクトーンから始まっていたのも、ジャズに行きやすかったのかもしれませんね。クラシックと違って、コードが必須ですからね。
そうかもしれませんね。ジャズピアニストでヤマハ音楽教室出身の方って多いんですよ。上原ひろみさんもそうだし。
――幼児の音楽教育メソッドが確立されていますからね。本格的にジャズピアノをやり始めたのは?
ジャズと出会って“クラシックとは違って楽しい”と先生に言ったけれど、“ジャズは、自由に聞こえるけど難しいんだよ”と、簡単にはやらせてくれなかった(笑)。発表会でジャズっぽい曲を弾く先輩たちを見て憧れが大きくなっていって、図書館でジャズのCDを借りて聴くようになったのが8歳。それから自分でも弾くようになりました。
――子供ながらに、魅力的な音楽だと捉えていたんですね。
すごく惹かれましたね。自由だからかな。性格的にも合っていたのかも(笑)。
――8~9歳でもう、インプロビゼーション(即興演奏)を?
いえいえ、できなかったです。インプロビゼーションで何をやっているかわからなくて、最初はひたすら耳コピしていました。たくさんジャズを聴いていく中で、セロニアス・モンクとバド・パウエルに惹かれて、“ジャズをやりたい!”と思うようになって。でもどうやっていいのかわからないから、ひたすら聴いて譜面に書いて、本を借りてコードに沿ってアドリブをしていることを知っていったんです。
――ジャズは独学ですか?
3年くらいジャズのスクールに通いました。その間にクラシックも続けていて。
――で、“やっぱりジャズが楽しいな”となった。
はい。クラシックは、譜面通りに弾かなくちゃいけないので苦手意識があったんですよ……。ジャズの方が自由に弾けるという気持ちがありました。
――10歳を過ぎたころには、ジャズクラブで演奏していたんですよね。
そうですね。お母さんと中央線沿いのジャズクラブに行くようになって。そこでなぜか、フリージャズ界隈が好きになっちゃって(笑)。小学校の夏休みの自由研究で「フリージャズ研究」をしました。“山下洋輔さんという方は、ピアノを燃やしながら演奏する”などをまとめて。
――小学生でフリージャズ!
フリージャズとの出会いは衝撃でした。ジャズは本当に無限だなと思いました。今でも未知の世界ではありますけれど、難しすぎて(笑)。興味本位でフリージャズのライブに行ったら、手首で弾いたり、白目むいていたり、見たことのない世界すぎて爆笑していたら、"ずっと笑ってたでしょ?"って声をかけられて。そこからジャズクラブで、いろいろなミュージシャンと知り合うようになり、“ちょっと弾いてみる?”と一緒に演奏させてもらったり、可愛がってもらうようになったんです。
周りは大人ばかりで、同世代はほとんどいなかったけれど、自分的には違和感はなかった。
――ジャズピアニストとしてのデビューのきっかけは何だったのですか。
ジャズクラブでプロの演奏を見て、“セッションしなきゃ!”と思ったんです。当時はアドリブができないから、誰かが弾いたものを譜面に起こしてそのままコピーして弾いていたので、そこから脱却するために通っていたジャズスクールのセッションから始めて、ジャズクラブのセッションに参加するように。そのうちお誘いが来るようになって、偶然見に来ていたレーベルの人にスカウトされたんです。
――その後、16歳でジャズアルバム『PLANKTON』でデビュー。“デビューしたい”という想いはあったのでしょうか。
なかったです。将来はアメリカで勉強して、もっとスキルアップしてから出すものだと思ってたので。
――上原ひろみさんのようになりたかった。
そういう存在になりたかった。 それに、ジャズピアニストの穐吉敏子さんが、アメリカで着物を着てビバップを弾いている映像を見て、憧れていたのもありますね。だからまさか、高校生でアルバムを作るなんて思っていなかった。お話をいただいたときは、すごく悩みました。
――喜びではなく?
はい、悩んでいました。不安でした。演奏が始まってしまうと楽しいのですが、基本は自信がなくて緊張するタイプなんです。それに、当時はファッションと音楽を半々でやっていたので、“どう見られるんだろう”と気にしたり。
――自分の気持ちの中では、ファッションと音楽の比重はどのくらいだったのですか。
ファッションの仕事を始めたのは偶然だったので、子どものころから憧れていた音楽の方が比重は高いかな。でもファッションも大好きだから、どちらも捨てがたい感じで。
――16歳のジャズピアニストなんて、“早熟”と言われるじゃないですか。自分ではどう受け止めていましたか。
うーん、自分ではわからないですね、言われても。周りは大人ばかりで、同世代はほとんどいなかったけれど、自分的には違和感はなかったし。
――でもジャズをやってる人って、ちょっと普通じゃないですよね(笑)。ロックミュージシャンともクラシックの演奏家とも違う独特な世界がある。いい意味で変態的というか。
ちょっとわかります(笑)。突き詰めている人たちですからね。でも、ジャズの世界は皆さんが思っているよりフラットかも。実力の世界ですから。
――全ての要素が凝縮されている、最高峰の音楽といえるかもしれませんね。
そうですね。いろいろなことに対応できる音楽ですよね。そこは誇りに思うというか、 素敵なジャンルだと思います。
>>次のページは、影響を受けたアーティストについて、新曲「CHERRY PIE」について訊いています。