宮本浩次、斉藤和義、いきものがかり、星野 源、椎名林檎、ポルノグラフィティ……日本を代表するドラマー・玉田豊夢の知られざるキャリアと信念に迫った【インタビュー連載・匠の人】

2023.2.24
インタビュー
音楽

玉田豊夢

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本格的にメジャーの現場に現れたのは、2001年夏、二回目のROCK IN JAPAN FES.に出演するために中村一義が集めたメンバーがそのまま100s(百式)というバンドになった、そのドラマーとして。以降、100sで一緒だった池田貴史のレキシ、メンバーとして活動する小谷美紗子Trio、斉藤和義やいきものがかり、椎名林檎や星野 源などなど、数え切れないほどのビッグ・アーティストのレコーディングやライブに、ひっぱりだこになってキャリア20年余。宮本浩次曰く「日本代表」、ドラマー玉田豊夢にご登場いただいた。2002年の100sの初ツアーに密着取材したことがあって、その時から「すごいドラマーだなあ」と思っていたが、その後あちこちのライブや音源で「あ、ここでも叩いてる!」と出くわし続ける20年を経ての初インタビューなので、個人的にも感慨深いものがありました。

──最初に音楽を好きになった頃のこと、最初に楽器を始めた頃のことを教えてください。

どちらかと言うと、音楽よりも、タイコとかドラムに興味を持った方が早くて。5歳ぐらいの時に、祖母の家に青いコンガがあったんですね。もうめちゃくちゃ叩きたくて頼んだら、「叔父さんのものだから叩かしてあげられない」って断られて。僕、兄弟が5人いて。6つ離れた姉、2つ上の兄、みんな音楽が好きで。当時、『ザ・ベストテン』とか『ザ・トップテン』とかの音楽番組で、チェッカーズとかを観ていて……ゴダイゴとか、メロディが美しい曲が好きだった記憶があるんですけど、それと同時に、前で歌っている人よりも、後ろで叩いてるドラマーの方に目がいっていて。肉体的に動きがあって、音がわかりやすい楽器に興味を持ったんだと思います。地元は大分県の臼杵市というところなんですけど、臼杵祇園まつりというのがあって。山車で練り歩く時の、♪ドンドンチキチンドンチキチン、っていう祭り太鼓をやりたいなあと思っていて。物心ついた頃から、太鼓とかドラムに異様に興味があったというか、生まれながらにして好きだったような気がしますね。

──小学校では叩けなかったんですか?

鼓笛隊で小太鼓がどうしてもやりたくて、先生に言ったんですけど、小太鼓は女子だったんです。中太鼓、大太鼓は男子だったんですけど。だから、打楽器をやりたいと思いつつできない、っていうのがずっとあって。

──兄弟の影響で他の楽器に興味を持ったりとかは?

そう、姉貴がピアノを習っていて、兄貴はギターをやっていたんですけど、僕はそっちにはまったく興味を示さなかったんです。親父が絵描きで、絵を描いたりとか、ものを作ったりとか、兄弟みんなそうやって育ってきたところもあるので。

──あ、画家だったんですか。

そうです。祖父が印刷業を始めた家なんですけど、親父はその後継ぎもしながら絵を描いていて。若い頃、東京に行ってたんですけど、臼杵に戻ってからは、臼杵のいい風景を水彩画で描いていて、それが料亭とかに飾られていたりするような人で。二科展の審査員もしたりとか。芸術とか、そういった類のものに理解があった家だったんですね。

──ドラムを叩けないとなると、たとえば積んだマンガ雑誌を叩くとか?

まさにそうでした。小6の時にテレビの音楽番組とかを観ながら、見様見真似で叩き始めました。紙を重ねて色鉛筆で叩くと、スネアみたいにパシャッパシャッて音がするのがすごい気持ちよくて。それで音楽に合わして、2-4(通常のビートでスネアを入れる2拍目と4拍目のこと)を叩き始めたのが最初です。左手で2-4を叩くっていうのは認識してなくて、右手で2-4を叩くところから入って。それで、「ドラム、なかったら作るか」っていう発想になって、自分で作り始めたのが、12歳ぐらいです。

──作るというのは?

まだ本物のドラムを見たことがなくて、町に一軒の小さい楽器屋さんにPearlのカタログだけあったんで、それをもらって来て、穴が空くぐらい見ながら作りました。うち、印刷屋だったんで、フィルムとかが運ばれてきた廃材で、しっかりした厚いダンボールの、ちょうどドラムの胴に適したサイズの筒があったんです。それを切って。フィルム素材もいっぱい捨ててあるもので、それを切って筒に貼り付けて。キックは、大きめのバケツを横にして、フィルムをはって、ペダルも作って。缶を切り抜いてシンバルにして、ライドはクラッシュの「♪シャーン」とは音が違う、「♪チンチンチン」って粒が出る音がする、とかいうことを感じ取って、それを再現するのに明け暮れていたんですね。で、ラジカセを目の前に置いて、ひたすらひとりでコピーをやってました。

──たとえばどんな音楽を?

聖飢魔IIのミュージックビデオ集を姉貴が持ってて、それにめちゃくちゃハマって。「WINNER!」って曲のラスサビに入った時に、ドラムの横からのショットになるんですけど、ライデン(湯沢)さんが、めちゃくちゃ楽しそうに叩いてるかっこいいショットが抜かれてるんです。それにもやられたっていうのが、ドラムを始めるきっかけだったかもしれないです。ユニコーンの『PANIC ATTACK』とか『服部』が中1中2ぐらいだったんですが、ユニコーンの最初のライブビデオを観ながら、めちゃくちゃコピーしました。

──ああ、『MOVIE』の1作目。ABEDONが入る直前で、笹路正徳さんが鍵盤の。

そうです! 川西(幸一)さんやライデンさんの、男っぽくて華やかなプレイにすごく憧れて。その頃、『(リズム&)ドラム・マガジン』を本屋で発見して読み始めたんですけど、川西さんもライデンさんもジョン・ボーナムが大好きで、共通点がたくさんあって。それで「ジョン・ボーナムが好きなのか」って思って洋楽を聴いたり、ルーツを辿るようになっていくんですけど。

■中2の時点でなんの疑いもなく、「もうドラムしかない」と思ってました

──その時期はいつ頃まで続くんですか?

中2ぐらいですかね。カタログをもらってた楽器屋さんのいちばん奥に部屋があって、そこが実はスタジオになっててドラムセットがあることを発見してしまって。もう叩きたくてしょうがなくて、友達を誘って、スタジオ代割り勘で、初めて生のドラムを叩いたんです。ヘッドもベコベコだし、シンバルも割れてるんでめちゃくちゃ変な音で。「なんだこの音は!?」っていう違和感と、でもすごく大きい音がするっていう興奮が大きかった。何年か前、ツアー中に実家に帰った時に、その楽器屋に行ってご挨拶をして。久しぶりにそのドラムセットを叩かしてもらったんですけど、泣きました。スタジオに入った瞬間に、匂いがまったく変わってなかったんです。その叩いた時の写真を妹に撮ってもらって、今ツイッターのアイコンにしてます(笑)。中学生当時はドラムは買えなかったので、トレーニング用のキットを買って、ひたすら叩いてました。

──じゃあ、本物のドラムを日常的に叩けるようになったのは──。

高校ですね。臼杵から片道2時間ぐらいかかる別府の高校に通ったんですけど、始発の電車で行って、授業を受けて。吹奏楽部に入ったので、ドラムや打楽器は叩ける環境になったんですけど、高校になると吹奏楽部でドラムを叩いてたら、すぐ誘われるようになりました。ちょっとやんちゃな人らと一緒にパンクのバンドをやったり。ライブもやってましたね。ひたすら速い曲を息継ぎなしで叩く、みたいな。そういうのも経験しつつ、TOTOやスティーリー・ダン、AORが好きな友達もできたので、ジェフ・ポーカロ(TOTOのドラマー)みたいな流れも自分に入って来ました。部活が終わって、電車に乗って、大分駅で一回下りて、スタジオでバンド練習して、最終電車で家に帰って、また始発で家を出るっていうのを、3年間ひたすらやっていましたね。4、5バンド掛け持ちして。お金はないのでCDはレンタルしてたんですけど、AC/DCとチック・コリアを一緒に借りるみたいな(笑)。全部カセットに落として、朝も夜もひたすら聴きながら通学して、みたいな高校時代でした。

──「これで食うんだ」というのは、もう揺るぎないものになっていた?

中2のダンボールのドラムの時点で、もう100%なんの疑いもなく、「もうこれしかない」と思ってました。

──そういう生活だと、高校の成績は?

もうズタボロでしたね。ただ、学校には行くんです、行ったらドラムが叩けるんで。だから、行き帰りだけで大変なんですけど、卒業する時は皆勤賞もらいました(笑)。それこそ、夏休みも冬休みも行ってましたんで。機材も、スネアを持って行ったり、シンバルを持って行ったりするようになって。

──あ、じゃあ買い始めたんですね。

はい。スタジオのドラムにはチャイナ・シンバルがないから、チャイナとスタンド、ペダルとスネア、かなりの重量のやつを両肩に担いで、電車で通ってました。スネアは、Pearlの上位機種のやつを頑張って買ったんですけど、夜中に臼杵に帰り着いて……めちゃくちゃ重いんで、自転車のカゴにそれを乗っけて体勢を整えようとしたら……その時、橋の上だったんですけど、自転車が傾いて、大事なスネアが川の中に落ちちゃって。それで夜中にひとりで川に入ったのも一生忘れられない思い出です(笑)。

──(笑)で、東京の音楽の専門学校へ行くんですよね。どこに行かれたんですか?

当時は東京コミュニケーションアートっていう専門学校だったんですけど、今はTSM、東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校っていう名前になりました。葛西にあるんですけど。

──ゴダイゴのギターの浅野孝已が副校長の?

そうです。そこに入って、ヒロ(山口寛雄)とまっちぃ(町田昌弘)が同級生で、あのふたりと最初に友達になりましたね。

──後に中村一義のバンド、100sを一緒にやることになるベーシストとギタリストですね。

そうですね。専門学校は……まじめに授業に出て、基礎とかをやればよかったんですけど、学校にブースとかいっぱいあって合奏できるんですよ。それで、ヒロとかと一緒に演奏する方が楽しくて、コピーしたり、ジャムったりばかりしていて。

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