《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol. 5 鶴澤清治(文楽三味線弾き)
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彌七師匠のもとへ。そして越路師匠と
その清六師匠が亡くなったあと、1964年に十代目竹澤彌七に入門。
「しばらく親父のもとでやっていて、結構うるさく言われていたのですが、『やっぱり他人の釜の飯を食べた方がいい』と勝手に決められて。彌七師匠は大変な名人でしたが、僕のことを非常に可愛がってくださり、手取り足取り教えていただきました。僕の基本はほとんど彌七師匠ですね。文楽の三味線、義太夫の三味線は、速くきれいに弾くことも大事だけれど、心がこもっていなかったら駄目だ、テーンと弾いた時に何を思って弾いているのかが肝心だ、といったことを何度も言われたのを覚えています。義太夫の三味線はインテンポ(一定の拍子)ではなく、ヨレやネジレのようなものが不可欠。そしてそれは心を持っていかなくては表現できません。ここをちょっと短くしてこっちを長くして、というような考えでは弾けないんです。彌七師匠は文楽ではあまり並びもの(複数の太夫、三味線で演奏すること)には出なかったけれど、歌舞伎に複数で出る時、僕は師匠の後ろに座ることが多かったんですよ。そうすると師匠の息がわかって勉強になりました。こちらがちょっと音を外したら、師匠が本番中でも振り向くので気を遣いましたが(笑)」
八代目竹本綱太夫とのコンビで知られた彌七。綱太夫逝去後は四代目竹本越路太夫を相手に三味線を弾き、1972年には人間国宝に認定されたが、1976年に自ら命を断つ。
「彌七師匠の三味線は彦六系統の芸。簡単に言うと派手にバリバリと、場合によっては太夫を蹴散らしてでも弾く、というような芸風です。一方、文楽系統は地味で、三味線は出しゃばらない、という芸風。全く違うわけです。綱太夫という方は(豊竹)山城(少掾)師匠の一番弟子で、越路師匠ももともと山城師匠の弟子だけれども(二代目野澤)喜左衛門師匠にずっと指導されてきたから、表現の仕方が異なるところはずいぶんあったはずです。越路師匠と組む前、彌七師匠が『喜左衛門師匠に弾いていただいていたわけだから負い目を感じる』というようなことをおっしゃったら、越路師匠は『いや、そちらだって(綱太夫)兄貴さんの相手だったから、五分五分だ』と答えられたそうですが、引っ張り合いになったら文章を持っている太夫の方が強く、彌七師匠といえども付き合わざるを得ない。どちらも名人ですが芸風が違う以上、不本意なところが絶対に出てきますから、その葛藤があったと僕は思います」
文楽の三味線の芸は一人では成り立たない。太夫と三味線と、どちらかが一方的に合わせるのではなく、常に緊張感ある応酬をしながら音を作っていかなければならないところに、文楽の床の喜びと難しさがあるのだろう。そして彌七亡き後、越路太夫の相手を引き継いだのが清治さん。当時31歳だった。
「『君に弾かせようと思う。君と僕とでは親子ほど歳が違うけれど、思ったようにぶつかってきなさい』というようなことを言われて。最初の5年間ほどはついていくのが精一杯。越路師匠も60ちょっとで元気だったので、僕が悪いところへ入ってもそれを押さえつけるように語られていました。でも段々と体力が衰えるにつれて、隅から隅まで指図通りでなければ語れなくなってきます。注文が微に入り細を穿つようになってきて、こちらは従うように努力しつつ、自分なりに違和感を覚えるところが出てくる。越路師匠と組んだ13年間のうち後半は特に険しいもので、けっこう衝突もしました。毎回、出られないような細い穴から這い出るような感覚でしたね。最後、かなり感情的になり、僕が『じゃあどうぞ他の三味線でおやりになってください』と言ったところ、越路師匠は引退を選択されて。原因が僕かどうかはおっしゃいませんでしたけれども」
苦しみの多い13年間。それは同時に、芸を極める最高の期間でもあった。
「僕は早くに死んだ先代の(豊竹)呂太夫くんと同い年で、二人で会をやったりもしていたんですが、彼は越路師匠が引退された時、いみじくも『君は今後、誰を弾いても満足できないよ』と言いました。その後、今は故人となった方も含めて色々な太夫と組みましたけれども、つい『越路さんはそんなこと、言わないだろう』という思いが頭をよぎってしまうんです。仲悪かったのにね。ある意味、僕の本当の芸は越路師匠と共に終わったのかもしれません」
越路太夫との『仮名手本忠臣蔵』勘平腹切の段(1976年)。 提供:鶴澤清治
文楽協会創立25周年記念の「天地会」では、人形遣いの吉田簑助と共に踊りを披露(1988年)。 提供:鶴澤清治
≫文楽の三味線とは