《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol. 5 鶴澤清治(文楽三味線弾き)
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文楽の三味線とは
今では、清治さんのように子供の頃に文楽入りする技芸員は少なくなった。習得する年齢は、実際のところどれくらい芸に関わってくるのだろうか。
「技術的には、ある程度年を取ってからでも問題ありません。ただ、子供の頃からいたからこそ、文楽の空気みたいなものを知らず知らずに吸収したところはあるでしょうね。微妙なニュアンスみたいなものは、成人してからでは掴みにくい。あと、文楽では関西弁以外の言葉を『訛っている』と言いますが、関西出身でない人は訛りが直りません。山城師匠は関東育ちなので最後までアクセントには相当気を遣っていらして、何かのレコーディングの時、京都生まれ、京都育ちの武智鉄二さんに直してもらっていました。清六師匠も自分の三味線は訛っているとおっしゃっていましたね。江戸前の切れ味のいい演奏法だったので、関西のまったりとした雰囲気は、ご本人が受け入れないところもあったのでしょう。三味線の訛りは、テンポや、音から音への移り具合に表れます。横の太夫が訛っていても、三味線が自ずと変わってきます」
影響し合う、太夫と三味線。さらに、舞台上の人形から影響を受けることもあるという。
「僕らは『人形を見たらいかん』とやかましく言われますが、それでも気配というものはあって、作用し合っています。先代の(吉田)玉男さんのような力のある人形遣いだと、太夫も三味線もそちらに引っ張られるように感じました。(太夫、三味線、人形の)3つの力がガツンと本当に一つになった時、(太夫、三味線だけの)素浄瑠璃では感じられない盛り上がりが出てくる。滅多にないですが、そういう瞬間は気持ちがいいものです」
近年組んでいる太夫は、20歳下の豊竹呂勢太夫。呂勢太夫は2013年のインタビューで、演奏中に横の清治さんの三味線に突然力が入り、終わると「休憩するなら楽屋でして」と言われた、と語っている。
「僕らの芸は闘い。闘わなくなったら無価値だと教わっていますから。でも彼ももう50代。僕が越路師匠で弾いたのは43までです。同じ演目でも2回目、3回目になってくると我流が出て、良くなるところもあれば、悪くなるところもある。あまりにおかしい時は言いますが、基本的には自由に模索して自分の形を作っていってもらうのがいいのかなと考えています」
芸歴70年。大学に進学したものの2日間くらいしか行かなかったと笑う。文楽一筋で円熟期を迎えたその芸は、舞台の空気や場面の状況を一撥(ひとばち)でガラリと変える。
「それが文楽の三味線では最も大事なことなのでね。三味線に必要な腕力は段々落ちてきて、手が回らなくなっていますが、少ない音でなんとか他の人たちと違うものをと心がけています。年を取ってくると、子供の頃に聞いた名人の、このテンッの音でパッと世界が変わったとか、そういう言い伝えを思い出すんですよ。自分も、できてはいないと思うけれどそうなるよう努力しています」
初代国立劇場での最後の公演となる「令和5年8・9月文楽公演」では呂勢太夫と『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段の“後”を弾く清治さん。菅丞相(菅原道真のこと)の若君・菅秀才の身代わりに自分の息子・小太郎を差し出した松王丸が、我が子の野辺の送り(葬列)をする際の「いろは送り」は哀切極まる名曲だ。
「寺子屋の段の三味線は、太夫の語りに突っかけたり引いたりという手綱さばきが微妙で、そこが難しいところであり魅力ではないでしょうか。最後のいろは送りは10分足らずですが、難曲。清六師匠のいろは送りが素晴らしかったのに対して、自分の演奏はかけ離れていて……。誰かのお葬式の時、皆で並んでいる間ずっと僕の演奏の録音が流れていて、『なんてまずい三味線だろう』『嫌だな』と思っていたことがあるんですよ(笑)。だけどそういう、人を送り出すような曲ですから、国立劇場を送り出すという思いを込めて、力の限り弾きたいですね」
三味線の糸によって削られ、筋が入っている清治さんの爪。自身の切った爪を接着剤でつけて補強しているという。
令和元年11月の文楽公演にて 提供:国立文楽劇場
≫「技芸員への3つの質問」