三上博史が寺山修司の数々の名作を熱唱・熱演 『三上博史 歌劇 ―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―』を上演
三上博史
2024年1月9日(火)~14日(日)紀伊國屋ホールにて、『三上博史 歌劇 ―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―』が上演されることが決定した。
詩人・劇作家・脚本家・作詞家・評論家・小説家・エッセイスト・映画監督・写真家・劇団主宰など、あらゆる肩書きとともに時代を超えて今もなお愛され、様々な人に影響を与え続けている、寺山修司。そんな寺山の没後40年という節目に、寺山によって“俳優”であり“表現者”という命を吹き込まれた三上博史が、2015年に上演された『タンゴ・冬の終わりに』以来、実に約8年ぶりに『三上博史 歌劇』を行う。
寺山修司
共に作品を創り上げるのは、寺山修司没後20年記念公演として上演された『青ひげ公の城』で主演して以来、約20年ぶりのタッグとなる、寺山が主宰していた演劇実験室天井桟敷の後継劇団=演劇実験室◉万有引力。そして劇場は、寺山自身が生前最後に手掛けた天井桟敷の最終公演『レミング-壁抜け男』を上演した紀伊國屋ホール(東京都新宿区)と、40周年に相応しい場所でこれ以上ない顔合せが実現する。
主演を務める、三上博史は、高校1年生の時に寺山が監督を務めたフランス映画『草迷宮』のオーディションに合格し俳優デビュー。寺山との運命の出逢いから数年後、紀伊國屋ホールで上演された天井桟敷の最終公演『レミング-壁抜け男』を、座席からリアルタイムで観劇していた。寺山との出逢いが俳優として生きる道を決定づけ、以来、本人が時に“呪縛”とさえ表現するほどの絶大な影響を受けてきたそうだ。そのような特別な存在である寺山修司の作品を演じ、歌い、その声と肉体を通して後世にまで語り継いでゆくことが自身の使命という三上は、2008年から現在に至るまで毎年欠かさず、5月4日の命日に、寺山の出身地である青森県三沢市の寺山修司記念館において追悼ライブを行っている。
そして今回、三上にとっては聖地のような劇場で、演出にJ・A・シーザー、上演台本に高田惠篤・寺山偏陸という生前の寺山と共に幾多の名作を生んできた盟友たちが、『三上博史 歌劇』と題して、寺山作品の膨大なテキストからその心髄を紐解き、他に類を見ないステージ作品へと昇華させる。
本公演では、俳優業と併行して長年音楽活動も続け、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』をはじめ、これまでの演劇活動においても芝居と音楽の見事な融合のもと表現を続けてきた三上の魅力あふれる肉声に加え、一流ミュージシャンたちが生演奏でおくる素晴らしい楽曲や詩の数々を披露。さらに、歌や詩の朗読のほか演劇シーンもふんだんに盛り込み、『レミング-壁抜け男』の影山影子役をはじめ、三上が早替わりで演じ分ける寺山作品の多種多様な登場人物、演劇実験室◉万有引力とのアンサンブルで織りなす場面にも注目したい。
また、公演のサブタイトル、「私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない」は、寺山の自伝的とも称される映画『田園に死す』(1974年公開)の主人公の台詞に由来。この言葉はそのまま、俳優として生き続けている三上自身を表す言葉でもあるそうだ。
どんな歌劇になるのか。“寺山×三上”が深くシンクロする本公演に期待しよう。
三上博史 コメント
寺山さんは僕が育っていくことのすべての種になっていた方です。その種は15歳で出会ったときに植え付けられていて、寺山さんの呪いがかかっているものでした。どんなことにチャレンジしても、どこかで寺山修司や天井桟敷に辿り着いてしまうんです。親離れする、乗り越えていくと思っても、やっぱり影響のある人に辿り着いてしまう。結局はお釈迦様の手のひらの上なんですよ。寺山さんの呪縛は一生ついて回るんでしょうかね、嫌だな(笑)。
この舞台は、寺山修司記念館で続けてきたライブ、一方で地方の民話や古事記を朗読してきた僕自身の活動の流れの上にありますが、会場が、『レミング-壁抜け男』という天井桟敷が最後の公演をしたのが紀伊國屋ホールで、僕の中では大事な思い出の場所であり、敷居が高い劇場でもあります。そこで僕ができることを考えるとやっぱり演劇なのかなと思ったんです。でもライブは外せない。その合わせ技で『三上博史 歌劇』となりました。そして公演のサブタイトルは本当にいい寺山さんの言葉で、俳優として、一人の虚像として生きてきた僕にピッタリだと思っています。そんな僕の中の要素を総動員してお届けするものになるのは間違いありません。寺山さんのテキストで構成されることは決まっていて、誰も見たことのないものを目指します。比較されたり分析されても仕方のないものなので、肌感覚でガツンと楽しんでもらいたいですし、できるだけ先入観なく見てもらえたらと思っています。