《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol. 7 豊竹呂勢太夫(文楽太夫)

2024.2.2
インタビュー
舞台


呂太夫師匠、嶋太夫師匠のもとで研鑽を積む

南部太夫師匠は、弟子入りの翌年にあたる1985年に他界。同年、呂勢太夫さんは、かつて楽屋で挨拶をした呂太夫の門下となり、1988年には豊竹呂勢太夫と改名した。高齢だった二人の師匠と違い、呂太夫は当時40代に入ったばかり。勢いに乗る壮年期の師匠の姿は刺激になったことだろう。

「呂太夫師匠は当時超売れっ子で、付き合っている方も超一流。美術家の朝倉摂さん、イサムノグチさん、当時の日本舞踊のトップクラスの名手である先代の吾妻徳穂さんや吉村雄輝さんといった方々とおつき合いしておられました。そんな方々と仕事をされる時、鞄持ちとして私も連れて行っていただいたり、一緒の舞台に出させていただいたりしたことも、貴重な体験でしたね。そして、太夫としての基礎はほとんど呂太夫師匠に教えていただきました。若い頃、今の(竹本)錣太夫兄さんが誘ってくださってよく一緒に勉強会をやったのですが、そういう時の呂太夫師匠の指導は、細かいところというより、ぶつかり稽古というか、『もっといけ、もっといけ』『いっぱいに語れ』という感じ。考えてみれば、南部師匠もいっぱいに語られる方でしたし、(のちに師事する八世豊竹)嶋太夫師匠も、それから(現在、組むことが多い三味線の鶴澤)清治師匠も『いっぱいにやれ』とおっしゃる方ですから、私の師匠方はどなたも方針が一緒。細かいところの技術がどうこうより、浄瑠璃に対する取り組み方が間違っていることのほうが、ものすごく怒られます」

太夫の語りには技巧が散りばめられており、闇雲に力で押してできるものではない。いっぱいに、と言われても、若い頃はなかなか難しい。

「呂太夫師匠の弟子だった20歳くらいの頃、素浄瑠璃の会で『一谷嫩軍記』の熊谷桜の段を勤めた時、『ヤイ、なまくら親仁(おやじ)め!』という梶原の詞のところを大きく太く言おうと滅茶苦茶に気張ったら、本番の舞台で『オエッ~』とえずいて咳き込んで中断してしまったんです。聴きに来てくださっていた(四世竹本)越路太夫師匠のお宅に翌日、お礼にうかがったら、すごくニコニコしながら『君、昨日舞台で咳込んでいたね』『気張ったら喉がイガイガしてああいうことになるのだとわかっただろう。よろしい』と。よろしいわけがないのですが、間違ったことをやるとこうなるということを、人前で恥ずかしい思いをして、身をもって知ったのだから、それはそれでいい、という理屈なんです。嶋太夫師匠もよくおっしゃっていました、『1年生は1年生の浄瑠璃、10年生は10年生の浄瑠璃をやれ』『通っていくべき道を通らずにズルしていこうとするのは絶対にアカン』と。上の人からしたら、この曲をこいつがやれば当然こういう個所で失敗してこうなるだろうと予想がつくので、失敗しないように逃げてやるほうが怒られるんです。一生懸命、失敗を恐れず挑戦して行くほうがためになる。嶋太夫師匠は『技術がないんだから、お前がこんな役をやって喉を傷めないほうがおかしい。痛まないように加減してやるんじゃなくて、痛めては治し、痛めては治して……を繰り返すことで声の幅も芸の輪郭もできるんだ』と。実際、太夫の師匠方で、若手が舞台で喉を痛めて怒る人はいません。『声の使いようが間違っているから痛むんだ』『気張ってるさかい、そうなるんじゃ』とは言っても、痛めないようにやれとは言わない。やっている本人もガラガラ声を聴かされるお客さんも辛いけれど、そういう時こそ勉強になるんです」

2000年に呂太夫師匠が55歳の若さで帰らぬ人となり、嶋太夫師匠の門下となった呂勢太夫さん。2020年の逝去まで20年間、一番長く師弟関係を結んだ嶋太夫師匠は、教え方に定評がある人物だった。

「相手が誰でも同じように教える方もいますが、嶋太夫師匠は人によって言うことを変えるんですよ。この話としてふさわしいかどうかわからないのですが、巡業の解説で私が『義太夫節はまず若いうちに形を覚えて、それから人生経験などを反映してプラスアルファを加えていくんです』という話をして楽屋へ帰ったら、師匠が目を三角にしているんです。『浄瑠璃は形と違うねん。大事なのは情や。何を言ってるんや』とめちゃくちゃ怒られた。ところが翌日、師匠が若い弟弟子の稽古をしているのを聞いていたら『まず浄瑠璃は形や!』(笑)。今思うと、私が、何十年もやっているのにいまだに形なんかに囚われている、と思われて、そうじゃないとおっしゃりたかったんだろうと思います。その人の芸歴や今の力に応じて、必要なことをちゃんと教えて、舞台に出られるよう整えて下さる師匠でした」

技芸員によって昨年出版された本「文楽名鑑2023」の「怖いもの」の項目に、呂勢太夫さんが「師匠(亡くなった今でもしょっちゅう夢に出る)」と書いたのは、この嶋太夫のことだ。

「これは笑い話ですけど、師匠が引退されたあと、若い人たちの勉強会があったんです。その翌日、師匠のお宅にうかがったら『昨日の会を聴いて、〇〇(ご自分の弟子)を厳しく叱ったから、もう明日から来ないかもしれない』と心配しているんですよ。『そんなことはないと思いますが』などと話していたら師匠が『まあ、あんたは子供の時からやっていて文楽は厳しい世界だと見知っているから、何を言っても大丈夫だけど』とおっしゃる。『えっ、そう思われていたの?』と結構ショックでしたね(笑)。師匠からはよく、『お前は将来、人に教えなきゃいけない。自分だけできたらそれでいいんじゃなく、自分が教わったことを後輩に伝えていかなきゃいけない。だから特別な稽古をしているんや』とも言われました」

※『一谷嫩軍記』の嫩の字の右側は正しくは「欠」となります
 

≫人間国宝・鶴澤清治と組んで