《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol. 7 豊竹呂勢太夫(文楽太夫)
10代で学んだ重造師匠、南部太夫師匠
2年ほど富山で過ごしたあと東京へ戻った呂勢太夫少年は、以前楽屋で挨拶をした呂太夫師匠の紹介で、13歳から四世鶴澤重造のもとへ通い始める。1899年生まれの重造師匠は当時80歳。新しい弟子は取らないと言っていたが、呂太夫師匠の頼みで引き受けてくれた。
「学校の帰りにお稽古に通いました。事前に録音を聴くこともなくまっさらな状態で行き、お師匠さんが一遍見本を聴かせてくれて2回目一緒にやって、3回目は一人でやって……稽古を録音しておいて後から聞き直すなんてこともしない、昔流の稽古で。重造師匠は指導が上手いと言われていて、私は孫みたいな年齢ですから可愛がってもらいました。『無理だと笑われるくらい、目標を高く持て』とよく言われましたね。あと、『今はカフェも映画もあって、誘惑がたくさんあるけれど、いつも浄瑠璃のことを考えていなきゃダメだよ』とも」
祖父が三味線の初世鶴澤重造、父が太夫の2世豊竹呂太夫だった重造師匠に、初めは三味線と語りの両方を教わっていたという呂勢太夫さん。
「どちらに向いているか分からないから、という理由です。ただ、私は当時ガリガリに痩せていたので三味線弾きのほうが合っていると思われていたようで、私が太夫になりたいと言ったら師匠はがっかりしていたと、師匠の奥さんに後から聞きました。どうして太夫を選んだのか、子供の頃のことなので今となっては上手く説明できないのですが」
高校生の頃(左)。鶴澤重造師匠(右)宅での稽古風景。 提供:呂勢太夫
太夫を志した呂勢太夫さんは、1982年、国立劇場文楽第8期研修生に編入し、2年後、五世竹本南部太夫に弟子入り。竹本南寿太夫の名で初舞台を踏む。
重造師匠と南部太夫師匠について、呂勢太夫さんが共通して印象に残っているのは、自身の師匠をどこまでも尊敬する姿勢だ。
「重造師匠は10代の時、自分の師匠である三世鶴澤清六師匠の三味線を取ってこいと言われて緊張して、 天神(三味線の一番上の部分)をぶつけて欠いてしまったのですが、清六師匠は最初怖い顔をしていたけれど途中で急に優しい顔になって、『お前には、まだ三味線の大切さは分からない』と許してくれたそうです。その話を、80代の重造師匠は涙を流しながら話すんです。南部太夫師匠も同じで、修業時代、自分の師匠である先代の南部太夫師匠が熱で舞台に出られなくなって代役を仰せつかり、三味線の二世野澤喜左衛門師匠の宿屋で朝まで稽古してもらって戻ったら、師匠は熱があるのに寝ずに待っていてくれたという話をしながら、やはり号泣するんですよ。何十年前の話なのに、その時の感情が蘇るほど師匠を尊敬している。子供心に、文楽の師弟ってすごいなと感じました。我々の世界では、師匠の言動も芸に対する取り組み方も、すべてを身近に見るわけですよね。若ければ若いほどこっちも素直で、自分の価値観がまだないから、そういうものが染み付く。悪く言えば“洗脳”ですが(笑)、ビジネスライクなお付き合いではなく、ものすごく密着した師弟関係なんです」
南部太夫師匠のもとで兄弟子となった松香太夫との出会いも大きかったという。
「とても親切な方で、文楽人としての常識や言動、考え方を仕込んでくれました。例えば、何か失敗したら、翌日ではなくすぐに謝りに行け、行ったら『こんな遅い時間に来やがって』と師匠は言うけど、一晩放っておいて翌日行くより、怒られてもすぐに謝るなり何なりして解決しておく方がいい、とか。どなたかに稽古していただいて自分の師匠と違うことを教わったあと、その方と師匠と両方の前でやることになったら、師匠じゃない方に教わったことをやれ、師匠は怒ってもまた教えてくれるけれど、他の人は『わしの言うことを聞かない』となったらもう教えてくれない、とか。入門当初は松香兄さんに毎日怒られていて、本当に口うるさい人だなと逆恨み(笑)していましたが、今となっては自分の財産。松香太夫兄さんが最初に色々細かく教えて下さったお陰で、厳しい文楽の世界で今まで曲がりなりにもやっていくことができましたので、本当に感謝しています」