《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 12 竹本千歳太夫(文楽太夫)

2025.4.16
インタビュー
舞台


名人、越路太夫師匠のもとで修業

越路師匠の弟子となった千歳太夫さんは「スープの冷めない距離」に住んで師匠の家へ通い、修業生活をスタートさせた。

「やっぱり厳しかったですよね。よく怒られました。自分が悪いんですけど。朝、『夜ご飯があるから食べにおいで』と言われると緊張して。ただ、得な性格で、怒られても一晩寝ると忘れましたし、楽屋で叱られても師匠の舞台を聴けばいつの間にか口ずさんで楽しくなっている。師匠もそうだったと思います。やっぱり舞台は辛いから出番の前には機嫌が悪いこともありましたが、終わると直っているんです。65歳と19歳、孫みたいなものですから、優しい時ももちろんありました。継ぎの当たったズボンを履いていたら褒められましたね。新しい服を買っても、どうしてもお気に入りのほうを着るから擦り切れてしまうんですよ。継ぎを当てたのは母親なんですけど(笑)。あとは、鯛のあら炊きを、決してお行儀良くはないですがせせって全部食べたら、『賢治(千歳太夫の本名)は食べるのがうまい』。芸の上で褒められたことはありません。ただ、賞をいただいたことを報告した時には、極端に喜びませんけれどもどこか嬉しそうに『そうか』とおっしゃって。本当は事前にご存知だったに決まっているのにね」

そんな師匠を、「義太夫節が歩いているようだった」と振り返る。

「もともと裕福なお家の一人息子さんだった師匠は終戦後、かなり苦労なさったようです。けれども僕がお弟子になった頃は、奥様が浄瑠璃だけを考えられる環境を作っていらしたこともあり、舞台が安定していて、一番幸せな時だったのではないでしょうか。義太夫節には、これはこれだけこのように言わなければいけない、といった規則がきっちりとあるものの、全て遵守するのはかなり難しいのですが、師匠は一切揺るがせにしないよう努められていましたね。実際、師匠の古いテープを聴いても、三味線がこうあって、語りがこういう風になって、こういう仕組みでこのように構成されている、というのが実に明確です。やはりきちっとやらないときちっと伝わらない。僕も、たとえやれなくてもやる姿勢は見せないと、弟子が聴いていますからね。弟子は鏡。今も碩太夫が僕の悪い癖を写しているのを見ると反省します」

無駄を削ぎ落として語っていた越路太夫の芸も、普段の姿も、クールな印象を与えがちだったが、実はそうではないと千歳太夫さんは言う。

「殊更そうしていらしたように思います。同世代に竹本津太夫師匠という、まさに熱い語りの方がいらしたので。でも今になってお二方の録音を聴かせていただくと、えらい思いをしているのは一緒ですよね」

越路太夫は1989年に引退。まだまだ語れる、と惜しむ声は多かった。

「1年前には決まっていたんですよ。4月に『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』十種香(じゅしゅこう)の段をやっていらして、語れないと思われたようで、辞めるとお決めになって。僕がそれを知ったのは11月でしたが、十種香が終わった時点で、なんとなくわかっていました。十種香は高いところが多くて、腹力が要る。やはりどこかしんどそうでしたから。引退後はたくさんたくさん稽古していただき、勉強会にあたっては『あれやったか、これやったか』と聞かれ、『みんなやったか』と呆れられるほど。有難かったですね」

入門したての頃、越路太夫師匠と。 提供:竹本千歳太夫


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