新国立劇場「ウェルテル」、名唱の饗宴で開幕
撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場
4月3日、新国立劇場でジュール・マスネ作曲の歌劇「ウェルテル」が開幕した。2016年二作目の新制作となる「ウェルテル」は、ゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」※を原作とする、1892年に初演されたフランスオペラだ。マスネ作品の新国立劇場での上演は、彼のオペラを集中的に取り上げていた若杉弘監督時代以来となる。今回の新制作には演出にニコラ・ジョエル、指揮にはエマニュエル・プラッソンを迎え、2015年5月の「椿姫」以来の新国立劇場オリジナルの新しい舞台が創りだされ、その待望の初日は好評で迎えられた。
※近年はドイツ語の発音に寄せて「若きヴェルターの~」と表記されることが増えているとのことなので、以下本稿ではゲーテの小説を「ヴェルター」、マスネ作曲のオペラを「ウェルテル」として区別する。
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「ヴェルター」は1774年に刊行されてフランス革命前後の時代にヨーロッパで広く読まれた、若きヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによる書簡体形式の小説だ。執筆当時のゲーテは若干25歳、稀代の天才詩人恐るべしである。「婚約者の存在を知らぬままにシャルロッテに恋してしまった、ヴェルターの哀しい恋の物語」という器に、当時の社会批判や思想についてのエッセイをも取り込んだ意欲的な小説はドイツ国境を越えて広くヨーロッパ各地で読まれ、その人気はかのナポレオンも愛読していたほどだ。作中のファッションが模倣されたりしたという当時のエピソードは広く知られたものだし(これもまた「コスプレ」と言えるのだろうか)、また近年の社会学における「ウェルテル効果」(自殺についてのアナウンス効果研究)のネーミングなどで今も存在感を示す作品だ。
この小説を元にマスネが自身9作目となるオペラ「ウェルテル」を構想しはじめたのは「ヴェルター」の出版から約100年後、1880年ころのことだ。「ヴェルター本人の語り」として書簡体で描かれた小説から、「ウェルテルと周囲の人びととのドラマ」として再構成されたオペラは、「ヴェルター」を尊重しつつも感触の異なる作品となっている。思慕することしかできない存在としてヴェルターから理想化されて描かれるヒロインの”シャルロッテ”が、劇中で自身の感情を表す一人の女性”シャルロット”となることがもっともわかりやすいポイントだろう。「アルベルトの貞淑な妻で、ヴェルターは如何に恋い焦がれてもその内面をうかがい知れない存在」が「アルベールと結婚してなおウェルテルに思いを残すキャラクター」に変わったことにより、描き出される悲恋は自ら死を選ぶヴェルターひとりのものから、”ウェルテルとシャルロット”、二人のものとなったわけである。
撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場
オペラ化によって、ある面では原作以上に人間的な感情の行き交うドラマとなった「ウェルテル」には、題材的にヴェルディの「ドン・カルロス」(パリにて1867年初演)やヴェリズモ・オペラに通じる同時代性が感じられる。しかしマスネは作曲家としてワーグナーを尊敬し、この作品でも楽劇に通じる手法を用いているところに彼のオペラ作曲家としての個性が伺えよう。
このオペラを、演出のニコラ・ジョエルは読み替えたりせず「ヴェルター」の時代に置き、エマニュエル・ファーヴルの写実的な美術、カティア・デュフロのシックな衣裳によって美しく描き出した。大きなセットながら、ことさらに動かすような仕掛けのない舞台はどこかストイックで、常に静けさを感じさせるものとなっている。夏からクリスマスまでの短くも激しい恋のドラマを、マスネ自身が「純然たる人間性のドラマ」と語ったとおりの、歌手たちによる心理劇として率直に描き出したわけである。
撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場
その静かな舞台で、”動”の部分を任されたかっこうの歌手たちは、それぞれに見事な歌唱、演技で聴衆を魅了した。特にもウェルテルを演じたディミトリー・コルチャックは大いに場内を沸かせた。ウェルテルという複雑な個性を、抑えた演技、美声だけに頼らない知的な歌唱で示した彼は、今回が急な代役としての新国立劇場初登場だったことを考えれば期待以上の出来と言う他ないだろう。さらに彼の恵まれた容姿を考え併せれば今後のさらなる活躍は約束されたようなもの、この秋にはマリインスキー劇場来日公演の「エフゲニー・オネーギン」にレンスキー役で再度日本の舞台に登場する彼を、ぜひ今のうちに聴いておかれるようお薦めしておきたい。
撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場
シャルロット役のエレーナ・マクシモワは、第三幕の手紙の場からの変化に大いに驚かされた。登場から第二幕までもていねいな歌唱を聴かせていたが、役柄がその意志、感情を強く現し始めるにつれより激しく力強い歌唱へとシフトしてみせたのた。その変化故にシャルロットが血肉ある存在として舞台上で生きたからこそ、終幕の死による別離はより哀しいものとなった。
撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場
本作でのアルベールは社会の制約や人間関係における”枷”のような意味を持たされた、言ってしまえばかなり損な役どころではあるが、アドリアン・エレートは力強く安定感ある歌で存在感を示した。そしてシャルロットの妹ソフィーを演じた砂川涼子が示した軽やかさは、重い展開が続くオペラの中で屈託なく楽しい時間を提供してくれた。
撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場
また作品の終点まで、常にどこかで意識されるクリスマス(ノエル)を第一幕早々からフィナーレまで、歌で演技で示したTOKYO FM少年合唱団からの六名のメンバーには特別の拍手を贈りたい。子供たちの存在感あればこそ、幕切れのノエルの歌が心に響いたのだから。
撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場
指揮のエマニュエル・プラッソンと東京フィルハーモニー交響楽団は、特に第三幕から終幕までの、切れ目なく演奏されるクライマックスでその実力を示した。初日故か、アンサンブルのぎこちなさ、ちょっとした綻びがあったところは惜しまれるが、残る三公演では改善されていくことだろう。
(2016年4月3日公演より/YouTube新国立劇場公式チャンネル)
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最後に、今回のプロダクションが多くの困難を乗り越えて開幕できた事実にも言及しておこう。
最初の予定からまず指揮者が変更され、不慮の事故のためタイトルロールが代わり、さらに変更された指揮者のミシェル・プラッソンも怪我のため来日できなくなり、と今回の「ウェルテル」は開幕までに次々と予想外の事態に見舞われた。一つの演目にこれだけのトラブルが集中してしまえば、その対応もまた困難も極めたことだろうと想像できるが、それらすべてを乗り越え、無事音楽、美術ともに美しい「ウェルテル」を届けてくれた新国立劇場に対して、敬意を込めて拍手を贈らせていただく。
全四幕 フランス語上演・字幕付き<新制作>
■会場:新国立劇場 オペラパレス
■演出:ニコラ・ジョエル
■美術:エマニュエル・ファーヴル
■衣裳:カティア・デュフロ
■照明:ヴィニチオ・ケリ
■舞台監督:大仁田雅彦
■児童合唱:TOKYO FM 少年合唱団
■管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
ウェルテル:ディミトリー・コルチャック
シャルロット:エレーナ・マクシモワ
アルベール:アドリアン・エレート
ソフィー:砂川涼子
大法官:久保田真澄
シュミット:村上公太
ジョアン:森口賢二