故・松本雄吉さんを偲び、天野天街(少年王者舘)から一篇の“詩”が送られてきた
故・松本雄吉さんと天野天街(撮影:吉永美和子)
「維新派」を主宰する劇作家・演出家の松本雄吉(まつもと・ゆうきち)さんが6月18日に大阪市内の病院で亡くなった。享年69。食道がんだった。
「維新派」は、野外に自分たちの劇場を建て、都市や自然の風景と舞台装置を美しく融合させるスペクタクルの劇団として知られる。が、それだけではない。その舞台空間で演じられる内容もまた、ユニークなものだった。内橋和久の奏でるミニマル調の即興音楽にのせて、少年少女を演じる白塗りの役者たちがラップめいたセリフを発しつつ、舞台上を駆け巡り、踊る。ときにノスタルジックに、ときに未来派風に、あるいは両者を融合させながら。殆どが変拍子なのに不思議な心地良さに包みこまれてしまう。
それはリアリズムの演劇から遠くかけ離れ、また身体メインのダンスとも異なる唯一無二の舞台表現だった。大阪を拠点としながらも更なる辺境を志向し、野外に劇場を築き、既製の演劇の外側に自分たちだけの表現を組み立てる。そのような松本雄吉の作劇姿勢には常に「外の思考」が働いていたように思える。
その松本から影響を受け、また、時には松本に影響を与えることもあった、一人の演劇人がいる。その人の名は天野天街。名古屋を拠点とする劇団「少年王者舘」を主宰する劇作家・演出家である。言葉に対する脱構築的戦略、“いま・ここ”を超えた壮大な感傷を描き出すセンスなど、松本と天野の間には通底しあう世界観があった。実際にこの二人は、強い絆で結ばれた演劇界の“盟友”だった。
彼らの交流は1984年に天野が大阪南港で日本維新派の『蟹殿下』を観劇した時から始まった。3年後の1987年に名古屋の白川公園の野外特設劇場で劇団日本維新派+少年王者舘の合同公演『少年の玉』が行われる。さらに1992年には同じ場所にて『高丘親王航海記』(原作:澁澤龍彦)が松本雄吉・主演で上演された。これら、ともすれば東京中心主義的な演劇史観において忘却や無視の扱いを受けてきたが、実はいずれも度肝を抜く歴史的傑作だった。その後、20年余の歳月を経て松本・天野は2013年にパルコプロデュース『レミング』(原作:寺山修司)で再び共同作業の機会を得た。同作品は更に2015年にも再演が行われたがその時松本はすでに闘病のさなかにあった……。
さて、いま盟友に先立たれ天野の胸中いかばかりのことだろう。そんなことを考えていたら、おりしも天野から、松本さんを偲ぶ一文がSPICE編集部宛てに送られてきた。それは彼独特の言語回路を通じて綴られた、一篇の“詩”であった。訃報を受けた瞬間に咄嗟に書いたものという。彼の世界に馴れ親しんでいないと、その独特のレトリックを駆使した表現に首を捻るかもしれないが、一人の芸術家による真摯な“表現”として受け止めていただければと思う。以下に全文を掲載する。
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ちきゆうは、ゆうきちを、うしなった
ちきゆうは、ゆうきちを、うしなった。
ゆうきちは、うちゆう基地に居場所を移し、
癌魔線をバーストし、
光の速度で、うちゆう模型を作り終え、
忌中(きちゆう)の、ちきゆうを遥か借景に、
雲膜定規と木星のコンパスで、
事象の地平に、星間連絡線を、引き始めた。
なにが、おっぱじまるのだろう。
天野天街
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なお、劇団「維新派」より届いた訃報を、ここに転載する。
劇団「維新派」の主宰、松本雄吉は、本年6月18 日午前3時25 分に、食道がんにて永眠しました。享年69。
2002 年 『カンカラ』第2 回朝日舞台芸術賞
2005 年 『キートン』第12 回読売演劇大賞演出家部門優秀賞受賞
2009 年 『呼吸機械』 第8 回朝日舞台芸術賞アーティスト賞 平成20年度芸術選奨文部科学大臣賞
2011 年 紫綬褒章
2013 年 大阪市市民表彰
2014 年 『透視図』大阪市文化祭賞優秀賞
2015 年 『透視図』大阪文化賞