エンタメの今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第四回・丸野孝允氏

インタビュー
音楽
2016.7.15
ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

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編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。それは”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。

それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)」だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。

連載の第4回目となる今回は、若手のプロダクション代表として九州男や最近ではC&K、ハジ→などを手掛け、非常に手腕と心のある、株式会社スターレイエンタテインメント・丸野孝允氏に直撃した。

ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

――この業界に入ったきっかけから教えて下さい。

親がとても教育熱心で、小さい頃からとにかくいい大学に行きなさい、いい会社に入りなさいと言われて育ったので、それが人生の目標なんだと思って生きてました。でも希望の大学に行けなかったんです。人生で最初の大きな挫折でした。今考えるとたいしたことではない気がしますが、当時の僕にとってはとても大きなことに感じたんです。周りの友達はいわゆる一流大学に進んで、自分はそうではなく、すごく劣等感がありました。人生の目標を失った気がして、浪人生活を経て大学に入ってからは怠惰な学生生活を送っていました。大学2年生くらいまでは、特にやりたいこともなりたいものもなかったんですが、あることがきっかけになり、エンタテイメント業界に行きたいと強く思うようになったんです。でもいわゆるテレビ局やレコード会社などの大手企業は狭き門で、特に業界にツテもなく入口がなかなか見つからなかったんですが、クラブもエンタテイメント業界だと思い、運良く運営会社の社長を友人に紹介してもらい、「お金はいらないし、なんでもやるので手伝わせて下さい」とお願いして、なんとか入り込みました。とにかくエンタメ業界へのきっかけが欲しくて、若かったので動機は不純かもしれませんが、何かで成功して目立って、周りの人にもう一度認められたいという想いがきっかけです。

――クラブではどんな仕事をしていたんですか?

当時、渋谷に「NUTS」というクラブがあって、その運営会社でお店のプロモーション、イベントの制作などを手伝わせてもらっていました。最初にお金は要らないと言って入れてもらったものの、やっぱりお金が続かなくて半年ぐらいしかいれませんでした。

 

――その後はどちらに行かれたんですか?

次は音楽関連の事務所に入り込んで、その時もやっぱり運転手をやったり何でも屋で、でも月に5万円くらい給料をもらえるようになりました。業界の事は何もわからないですし、音楽にそんなに詳しいわけでもなく、まだまだ下積み生活を送っていました。まだ大学生だったので、こういう機会もなかなかないと思いながら、何でもやっていました。なんとか生きてましたという感じです。

――エンタメ業界で成功して、親や友達を見返してやりたいという気持ちはずっと持っていらしたんですね。

エンタテインメントって一般の人にもわかりやすいし、伝わりやすいので、自分が何をやってるかが届きやすいと思ってたんですね。自分にとってすごくきっかけになったと思うのが、2002年にサッカーのワールドカップが日韓共催で行われ、日本対ベルギー戦を埼玉スタジアムに観に行った時でした。が一枚5万円もしましたが、どうしても観たくて友達と二人で行きました。試合はドローでしたが、その時の雰囲気がもの凄くて衝撃を受けました。完全ホームで、同じものをそこにいる6万人の人達全員で応援する雰囲気を見て、感じて、それまでの人生で一番興奮しました。自分もずっとサッカーをやっていて、本当はプロの選手になりたかったんですけど、全然ダメで…。試合は選手だけではなく、裏方の人達も頑張って作っているんだなと感じ、裏方で作る人になりたいと思ったんです。

――人々に感動を与えたい、と。

そうですね、楽しませたいとか、泣かせたいとか感動させたいと思い、そこから将来のことを真剣に考え始めました。それが大学3年生の時ですね。

ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

――最初に出会ったアーティストは九州男さんですか?

そうです、九州男とは2006年に出会いました。僕が下積み時代に、あるスタジオにいて、そこに九州男が自分で作ったデモを持って「ちょっと聴いてもらえませんか」と遊びに来たんです。その時、「もう最後のチャンスだと思ってるんです」と言っていて、彼は28歳になる年で、「だめだったら故郷の長崎に帰ろうかと思ってるんです」と言ってた気がします。デモを聴いたらすごく良くて、すぐ一緒にやろうと言いました。今の会社の設立は2007年です。それまではアーティストのマネージメントをやろうとはそんなに思っていなくて、具体的に何をやっていこうというイメージはなかったのですが、単純に、この人の曲いいな、この人おもしろいな、だからみんなに教えたいな、広めたいなというのが最初の動機です。

――なるほど。

まず友達に九州男を紹介していきました。でもそれは今でも原点というか基本になっていて、まずは一番近くにいる人達に、自分がいいと思ってるものを紹介して好きになってもらって、それがどんどん広がってくというイメージです。エンタテインメントって元々そういうものだと思うんです。自分に近い人を楽しませることができないのであれば、もっと先にいる人のことを楽しませるなんで難しいと思います。それは子供の頃と同じだと思いますが、学生の頃にクラスのみんなを楽しませる企画を考えることができるかという事が、環境が変わって人数が変わっただけなのかなと思います。クラスのみんなや仲の良い友達に、面白い遊びを教えて、みんなで面白い遊びを考えて、みんなで一緒に遊んで楽しむということが自分の原点にあると思います。

――規模が世間というものに変わっただけという。

先日高校の同窓会があって、その幹事をやったんです。結果的に100人くらい集まったんですが、みんなが楽しんでいるの見るのは、すごく嬉しかったし、楽しかったです。でもそれが僕の好きなことで、原点なんだろうなと改めて思いました。
学校って色んなやつがいたじゃないですか。真面目なやつ、面白いやつ、変なやつ、色んなタイプがいたと思うんですけど、それぞれのいいところを引き出して、うまく組み込んでいって一つのイベントを作っていくっていう。やりながら、今でもこういう事を会社でやっているなと思いました(笑)

――九州男さんにしてみれば、もう後がないという気持ちで丸野さんのところに来て、自分の音楽をいいと言ってもらえたことで救われたということですよね。

お互いですよね。僕も人生が大きく変わりました。当時僕にはお金も、何もない訳ですよ。もちろん知識もないし、経験もないし、人脈もない。じゃあどうやって売っていくんだという話じゃないですか。それでまずは友達へ薦めていくというのもありつつ、そんなの当然限界がある。そこでできることは何かないかなと考えて、今は当たり前のプロモーション方法ですが、SNSを使いました。当時はまだまだ未知のものという感じで、まずmixiが流行り始めました。最初はそれを使って友達に伝えていました。それを友達以外にももっと広げることができるだろうと思って、九州男と二人でmixiばかりやっていました。周りの人達からは「遊んでるだけじゃん」ってよく言われましたが、拡散させるために試行錯誤していました。

――そうなんですね。

それで、マーケティングやターゲティングをしっかりやっていき、’07年6月にインディーズでミニアルバムをリリースすることになりました。当時でイニシャル3,000枚です。今だったら3,000枚もつかないと思いますが。リリース前にiTunesとかで先行配信も始めて、それも当時やっている人があまりいなかったので話題になって、CDの発売日前日にバックオーダーが2,000枚来て、いざ発売したら予想以上にワーッと売れて、半年くらいかけて約20万枚売れました。もちろんSNSでのプロモーションだけで出た結果じゃなくて、話題になってからはメディアにも取り上げてもらったし、イベントライブにもたくさん出演させてもらったし、色んな人たちに協力してもらって出せた結果です。きっかけとなったSNSでの展開を説明しても、当時はあまり理解してもらえなかったですね。

――そこから波に乗ってきた感じですか?

結果が出てくると、自ずと色々な人にも出会えたし、色々な経験もできました。九州男は情報の露出を制限する戦略をとっていたので、メディアからのオファーもお断りさせてもらうことも多かったです。

――いい歌だから歌っているアーティストの姿が見たいけど、見えてこないという、ユーザーの飢餓感を煽ることに成功したということですよね。

ちょうどレゲエというジャンルが流行していた時期で、様々なアーティストが出てきていて、その中でどう差別化するかということを考えていました。その中で特に重視していたのが、情報のコントロールですかね。飢餓感を感じる人もいたと思いますけど、姿をよく知ってる人はよく知ってたと思いますよ。特にWEB上には細かい情報をだしていたので、知りたくて探してくれた人には情報を提供していきました。知りたい人には深く伝えるし、歌だけ聞きたい人には歌を届けるし、歌う姿を見たい人にはライブで見てもらう。要は、知名度をあげることよりも、ロイヤルティをあげることに力をいれるという感じですかね。一方で、知るきっかけをたくさん作っていくことは大事なことではあるんですが、九州男を好きになる可能性が高いだろう人を探し当てて、その人に情報が入っていくように工夫してました。そうやって、興味を持ってくれた人が求めるニーズに対して、それに応えていくことを徹底することで、熱が生まれて、人が人に情報を伝えていくいわゆる「口コミ」に繋がっていくのかなと思ってました。その口コミが伝播していったのが、当時流行し始めのSNS上だった、という感じです。

――九州男さんの次がC&Kさんになりますか?

そうです。彼らは九州男がデビュー前に横浜のクラブでイベントに出演させてもらっていた時に、いつも同じイベントに出ていたのが出会いです。それがきっかけで九州男と一緒に曲を作ったり、一緒にライブで地方を回ったり、C&Kも活動する機会が増えてきて、’08年2月に発売した九州男のメジャー第一弾シングル「1/6000000000 feat.C&K」に参加しました。そのあと6月に自社でミニアルバムをリリースしました。

――まず九州でものすごく売れて、それが全国に拡がっていきましたが、どんな仕掛けをやったのか、教えて下さい。

彼らの場合は、僕が何かを直接仕掛けていったというより、二人の人間性や信念の強さと、近くにいるスタッフ、ファンの人たちの力が強いです。まず、二人の音楽性は幅が広くて、音楽のジャンルで一括りにするのが難しいんです。それが特徴でもあるんですが、どんなジャンルの音楽も二人の解釈で作り変えて自分達流にしちゃうんですよね。だから音楽のマーケットでどこにポジショニングを置くのかが、なかなか定まらなかったんです。今でも定めてないですけど、それが一つの特徴であり強みなんだと思います。そのような特徴があるので、少し戦略を変えました。変えたというか結果的にそうなっていったというところもあるんですけど、音楽のジャンルでターゲティングするのではなくて、地域でターゲティングすることになったんですね。九州で人気が高くなり始めたのは、5年前くらいだと思うんですけど、それまでも全国に一定数のファンの方はいたんです。

――そんなに。

ただなかなか爆発的な人気にはならなかった。そういった中で、C&Kのメンバーの一人の出身地であり、九州男の出身地であり、という九州が色んな縁が重なってきっかけになってくれたんです。二人が掲げている日本全国地元化計画というのがあるんですが、まず最初に地元化に近づいたのが九州だったんです。とにかく、その土地の人や場所、空気を自分達の地元のように理解していくこと、簡単にいうと友達になっていくことなんですかね。そうなっていくことで、ファンの人たちはもちろん、メディアの方、イベント会社の方、地元の方といった人たちが、すごく強い熱量で応援してくれるようになっていった。それが今の九州での活動に繋がってるんだと思います。

ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

ザ・プロデューサーズ/第4回 丸野孝允氏

――‘90年代は地方発のヒットもありましたが、最近はあまりなかったので珍しいケースだなぁと思って見ていました。

地方発というのは少ないかもしれませんが、局地的なヒットという意味では、Twitterですごい、インスタですごいとかSNSで話題になると、それらが取り上げられてヒットするという現象は、多分昔より今のほうが多いように思います。

――C&Kは2014年に福岡マリンメッセで1万人ライブを成功させて、どんどん大きくなっていますね。

あれはタイトル通り(「CK無謀な挑戦状inマリンメッセ福岡〜みんなの力でパンパンに愛のシャワーを浴びせてネ」)無謀な挑戦でした。なんの根拠もないわけではなかったのですが、福岡ではZeppFukuokaで一回ワンマンライブをやったことがあるだけで、それを急に5倍の1万人のキャパに増やしたんです。惨敗することはないと思っていましたが、現地のスタッフと何回も話し合いましたし、それまでライブのもファンクラブだけ売切れたりしていたので、そのぐらいの熱がある状況というのも分かっていました。最初に1万人ライブのアイディアが出てから、本番まで1年くらい時間がありましたが、全てはそこに照準を合わせてスケジュールを組みました。これを成功させられたのは、本人たちのプロデュース力によるところが強かったです。うちのアーティストはみんなそうですね。

 

――セルフプロデュースがちゃんとできる人たちが揃っているんですね。

そうかもしれませんね。もちろんみんな出来ること出来ないこと、得手不得手はあります。足りないところを埋めていくのが僕らスタッフで、みんなでプロジェクトを作っていっている感じです。それをプロデュースというのかはわかりませんが、僕の仕事はプロジェクトをプロデュースするという感じでしょうか。できるだけ本人たちが活動しやすい環境を作って、やりたいと思ったことをなるべくできるように、と思ってます。

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