エンタメの今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第六回・節丸雅矛氏

インタビュー
音楽
2016.7.30
ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

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編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。それは”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。

それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)」だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。

これまでどちらかというと、コンテンツホルダー側というか、プロダクションの方々を中心にインタビューを行ってきたが、今回は形は違えどSPICEと同様の「メディア」の方へと目を向けてみた。オールナイトニッポンなどのリスナーならばその名前はよく聞いていたであろう、ニッポン放送の節丸氏へ直撃した。

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ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

――ではまずプライベートでバンドをやっているという、公私ともに音楽漬けの毎日を送っている節丸さんの、音楽体験のヒストリーからお伺いします。

貴重な体験だったのは、小学校3年生でザ・スリー・ディグリーズが好きになったことです。「天使のささやき」(1974年)を誕生日に買ってもらって、まず英語で歌ってるのがカッコよくて、サウンドにやられました。そこからビートルズにハマり、とにかく洋楽を聴くようになりました。それで、これは今でも覚えていますが、特に衝撃的だったのザ・スリー・ディグリーズのライブを観に行ったことです。それが初めてのライブで、衝撃的な体験でした。それと中学の時に、Charと原田真二のNHKでの公開録音を観に行って凄いと思い、日本のロックにも興味を持ち始め、ロックと歌謡曲を嗅ぎ分けながら聴いていました。そのあと雑誌『Player』に載っていた『Feel the Night』というアルバムをジャケ買いしたんです。その時はよくわからなかったけどリー・リトナーというギタリストの作品で、インストだったけどギターがメチャクチャかっこよくて。そこからジャズ・フュージョンにはまっていきました。

――本当に音楽好きだったんですね。なるべくしてなった職業という感じです。

音楽好きだったという延長線上に今もありますよね。

――レコード会社に行こうとは思わなかったんですか?

レコード会社何社か行ったんですけど、すごく冷たかったんです。でもその一方で、大学4年間でめちゃくちゃジャズにハマって。僕がずっと思っていることがあって、それは一流の人とか日本一を観ることが大切だと思っていて、慶應大学に「ライト・ミュージック・ソサエティ」というジャズのビッグバンドがあって、大学日本一だったんです。実は国立大学に行きたくて、一浪して、でも落ちて慶應に入って、それまではマジメに経済を勉強しようと思っていたのですが、オリエンテーションの時に「ライト~」の演奏を目の当たりにして、「こういうの中学の時から好きだったんだよな」って思って、そこでハッとしました。

――初期衝動を思い出したんですね。

「ライト~」に入って、1年生が40人くらい見習いでいて、2年からレギュラーになって。大学1年の時から全国1位、2位、1位、2位だったんですよ。ここで過ごした時間が生活を全部変えたというか、日本一ってこんな感じなんだという経験ができたことが大きかったです。大学に入って土岐英史さんというサックスプレイヤーにハマって、押し掛けて弟子にしてもらったんです。大学4年間、土岐さんが出演するところには行って、かわいがってもらいました。

――卒業したらプロのサックスプレイヤーになろうと思っていたのですか?

それがそこまで才能があるかどうかというところでした。大学の先輩がニッポン放送にいて、番組用にファンファーレを作らされたり、三宅裕司さんの番組で演奏させられたりしているうちに、三宅さんにかわいがられるようになって、三宅さんが当時TBSでやっていた『土曜深夜族』という番組にも出たりしていました。そのあと、SET(スーパーエキセントリックシアター)の公演でバックバンドをやったり、小倉(寛之)さんと八木橋(修)さんにサックス教えたのは僕です(笑)。

――在学中からプロの現場で仕事をされていたんですね。

事務所にも入っていたので、でも仕事っていっても新人歌手のバックバンドとか、あと自分でやってるビッグバンドの仕事も取っていて、その時にマネージャーもやっていました。仕事が被ったら、仲間に回したり…。色々な知り合いもいたし、そういうマネージメントをやっている方が、音楽より得意なのかなというのは、思っていました。

――ニッポン放送に入るきっかけは、先ほど出てきた先輩の影響ですか?

いえ、大学4年の時に、三宅さんに「就職どうするの?」と言われ、「特に考えていなくて、プロになるかもしれません」って言ったら、「じゃあアミューズに来い」と言われて。アミューズも当時は代官山にある小さなプロダクションでした。不安定そうで嫌だなって思って(笑)。それで三宅さんに、「じゃあアミューズ行く前にニッポン放送受けていいですか、大学の先輩がいるので」ってニッポン放送を受けたら、受かっちゃったんです。

――入社してまずはどこの部署に配属されたんですか?

制作部です。最初はやっぱりADからで、番組中に公園にいるカップルの前でサックスを吹けと言われたり、もうプライドも何もあったもんじゃなかったです(笑)。三宅さんの番組「ヤングパラダイス」のADもやっていていました(笑)。

――学生時代、ラジオを夢中になって聴いていたんですか?

中学、高校時代は聴いていましたけど、大学時代はほとんど聴いていませんでしたね(笑)。

ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

――節丸さんというと「オールナイトニッポン」のイメージが強いのですが。

寺内たけしさんというアナウンサーが最初でした。1年目の秋から担当したのですが、要するに寺内さんについて勉強しろということだったんです。衝撃的だったのは大槻ケンヂとの出会いでした。やっぱり年が同じということもありウマが合って、でもそのあと昼番組に異動になってしまいました。それで1991年にユーミンの「オールナイト~」でディレクターになって、その後福山雅治、ゆず等を担当しました。

――伝統ある番組でキューを振ることになって何か思うところはありましたか?

それまで「オールナイト~」は数々のブームを作ってきて、ラジオってすごいなと思っていました。実際に会社に入ってみたら、ニッポン放送はラジオ局としての規模が、自分の想像を超えていました。それから社員がみんな個性的で、“アーティストに強く”て、そこが面白かったですよね。

――確かにラジオって流行の発信源のひとつですよね。イベントが組めたり、本まで出せてしまいます。

そういう風に教わって、裏はテレビだと言われていました。だからみんなすごくレベルの高い意識を持ってやっていました。さっきも出ましたが、僕は“一番”が大好きなので、No1の会社ってすごいなって。やっぱり一番のところって特別な“何か”があるんですよ。ニッポン放送は、少なくとも僕が入った28年前は、他の会社とは全く違っていたと思います、ノウハウも意識も。他のラジオ局の人と話しをしても、話が合わなかったです。勝つためのノウハウがきちんとあって、ヒットを出すことがすべてですから。そういう歴史を積み重ねてきた会社なので、影響を受けました。

――節丸さんがこの人と番組をやりたいというところで、大切にしている部分を教えて下さい。

僕は男性アーティスト、タレントの方が得意なんですが、男らしくて、嘘をつかない、言い訳しない、それといざという時の瞬発力、狂気を持っている人、そういう人と番組を作りたいです。

――一緒に番組を作りたいと思ったアーティストを口説く時の、節丸さん流のやり方はあるのですか?

新しいアイディアを提示することです。ヒットするかしないかはわからないけど、少なくとも自分が思っていてこうなったら、もっと良くなりますよという提案をするように、常に心がけていますね。SING LIKE TALKINGの佐藤竹善さんと飲んでいる時に、無礼講だから何でも言っていいということになって、僕が「メロディはむちゃくちゃいいのに詞が好きじゃないです。」って言ったんです。

――竹善さんの反応はいかがでした?

「じゃあ何とかしてよ」と言われたので、「わかりました、なんとかします、企画をやりましょう」って返しました。それで「若っ貴」という覆面アーティストとして、竹善さんに歌ってもらいました(笑)。詞は、結果的に人生の転機というテーマでリスナーから募集しました。その後「オールナイトニッポン」のイベントに、竹善さんが本当に覆面を被って出て歌ったり、面白い仕事でした。

ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

ザ・プロデューサーズ/第6回 節丸雅矛氏

――なんでもできてしまう環境ということですよね。やろうと思えばなんでも形にできて、誰かと誰かを繋ごうと思えば繋げることができて。

僕が嬉しかったのは、2007年に「オールナイトニッポン」の40周年のライブ「8.25 オールナイトニッポン武道館」をやった時に、吉井和哉をブッキングできたんですけど、その時THE YELLOW MONKEYは活動休止状態だったので、バンドがいなかったんです。すごく思い悩んだ挙句に、TRICERATOPSに吉井和哉とのコラボをお願いしました。そのスペシャルセッションを吉井くんがメチャクチャ気に入ってくれて、その後、吉井くんのバンドのレギュラードラマーがTRICERATOPSの吉田(佳史)君になりました。

――このアーティストとこのアーティストがやったら面白いんじゃないかとか、そういう嗅覚が鋭いです。

常に自分が観てみたいものが基本です。面白いことを常に言っていようと。モテたいので面白いこと言っていようというか(笑)。誰にでもモテたいんですよ。もともと自分の中では口下手な自分というのが根底にあるので。

――常にアンテナ張り巡らせて面白いこと、面白い情報をキャッチしようと。

新しいことから逃げたらダメだと思うんですよね。それは年齢と共に言える事なんですが。それでもやっぱり“新しくて面白いこと”でわからないことはたくさんあります。

――それは節丸さんの番組作りの上でもそのポリシーと同じなんですか。“新しくて面白いこと”というのは。

同じです。去年の7月に編成になったのですが、その時一番最初にスタッフに言ったのは、動画で番宣を作れということです。今、動画で番宣をやってFacebookにアップすると、ラジオフレンドリーなユーザーのところにはそれが上がってくるようになっていて。各番組の番宣を動画で作っているのは、ラジオ局の中では我々だけだと思います。

――編成に戻ることが決まった時から、まずそれをやろうと決めていたんですか?

それまで関係会社で、ネット動画の仕事をしていたんです。そこであるプロダクションの社長からネットの有益性を聞かされ、それをラジオマンがやるとしたらどういう方法があるか考えました。ラジオのディレクターが動画を撮る方が、全てが分業のテレビ局の人が動画を撮るより予算は安くあがるはずなんです。テレビ局のディレクターだからといってカメラを回せるとは限らないし、みんなが構成を書けるわけでもない。でもラジオのディレクターは低予算で番組を作らなきゃいけないので全部一人でやれる。全員もれなく構成ができて、場合によっては原稿も書けて、収録もできます。そういう人間がカメラを覚えたほうが早いと思ったんです。それでこれからのラジオのディレクターの生きる道は、画も撮れることだと説いて、部下のディレクターには全員そうさせました。

――最初スタッフの皆さんの反応はいかがでした?

最初はやっぱりぎょっとしていたので、だからまず仕事を取ってきました。そうすると仕事になるんだと実感できます。15年くらい前にアリーナクラスの大会場​ライブの演出もやってみました。それまではラジオのディレクターが、大会場ライブの演出をやるということはほぼありませんでしたが、その時にやろうって決めて。

――なるほど。

何事も経験だし、死ぬような思いをしてそういうことができるようになって、その時のノウハウによって、ウチのディレクターの​何人もその仕事ができるようになりました。映像技術がすごく発達してきて、今はLEDがかなり安く使えるようになりました。そうすると映像がキーになってくると、ステージを演出する人間は映像の演出もやらなくてはいけなくなります。映像の演出ができてくるようになると、動画の制作も入りやすい。こういうものを作りたいという指示が出しやすくなります。これに絵コンテが書けるようになってくるともっと強いと思います。

――ネット時代になってきてラジオの役割をどう捉えていらっしゃいますか?一時期、ラジオは落ち目じゃないかという声もあがったりしていましたが。

ラジオは終わったと最初に言われたのが昭和40年なんです。なぜかというと東京オリンピックがあって、テレビが爆発的に普及して、テレビがメディアの主導権を握り始め、もうラジオは終わったと。ラジオが終わったと言われた時に登場したのが、テレビのオンエアが終わった時間帯に放送する深夜放送です。ラジオってずっと終わったと言われ続けているんです。だから全然平気なんです、最初から終わっていると考えれば。

――時代はどんどん変わってきていて、ユーザーの趣味嗜好も変わってきて、結局テレビだけでもダメだろうしラジオだけでもダメだろうし、ネットが強いと言われていますが、ラジオも変わらず走り続けていて、必要なメディアです。

最近そのことをよく考えるのですが、今のテレビの形はなくなると思います。テレビという、いわゆるメディアのインフラと、コンテンツの総合体みたいな形は、出口が多いので、コンテンツ側に立つしかなくて。コンテンツプロバイダーにどうなれるのかということが、一つのポイントになる。だけどラジオは人が人に向かって話しているだけなんです。根源的にラジオはショーじゃなくて、その人の話が聴きたいと思って聴きに来る。大人になってすごく思うのは、よく講演会ってやっているじゃないですか? やっぱりこの人の話を聞きたいということに関して人間は貪欲なんだなあと。まさにその感じがラジオなんじゃないかなと。

――ラジオってリスナーは自分だけに向かって話をしてくれていると思っているし、思いたいんですよね。

そうなんです。それは意図しています。

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