国境も芸能のジャンルも超越した先にある、美しき世界――『三代目、りちゃあど』中村壱太郎インタビュー
中村壱太郎
2016年のゴールデンウィーク、「ふじのくに⇄せかい演劇祭2016」で上演されたあるひとつのプログラムが大きな反響を呼んだ。戯曲の名前は、『三代目、りちゃあど』。鬼才・野田秀樹の夢の遊眠社時代の傑作だ。これに新たな命を吹き込んだのが、シンガポール出身の世界的演出家、オン・ケンセン。かねてより国境や文化を超えた作品づくりに定評のある氏は、本作でもその独自の感性を遺憾なく発揮。日本、シンガポール、インドネシアと多国籍キャストを配し、歌舞伎、狂言、宝塚、さらに小劇場と日本の多彩な芸能が混在した唯一無二の世界をつくり上げ、観る者に衝撃を与えた。
そんな『三代目、りちゃあど』が、シンガポール公演を経て、11月末、東京芸術劇場で凱旋を果たす。公演に向けて、リチャード三世/りちゃあど役の中村壱太郎が、本作への想いを聞かせてくれた。
中村壱太郎
――壱太郎さんにとっては珍しい歌舞伎以外の舞台。それが、しかも野田戯曲で、海外の演出家とのクリエイション。トピックスがたくさんある舞台ですが、稽古はいかがでしたか?
とにかくすべてが刺激的でした。稽古はバリで始めたのですが、稽古日数の限られた歌舞伎に比べても、じっくりみんなで作品に向かえましたし、寝食を共にすることで合宿のような感覚になりましたね。
――野田さんの戯曲を演じる上で、苦労された点や印象深かったことはありますか?
野田さんの戯曲をさせていただくのは初めてですし、まだ何かをわかっていると言えるような身ではありませんが、とにかく野田さんがどういう想いでこの戯曲を書かれたのかを読み解くことに心血を注ぎました。それは歌舞伎でも同じですね。たとえば近松門左衛門なら、近松が何を思ってこの作品を書いたのかを読み解くのが勝負になる。ケンセンさんも戯曲の解釈はすごく重視されていて、普通なら役者がそれぞれ読み解いたものを稽古場でぶつけるのが常ですが、今回は台本を読み解く段階からみんなで一緒に進めました。そこがすごく印象的でしたね。
――みなさんでいろいろとディスカッションを?
最初の1週間はほぼ卓上で議論をしてましたね。1シーンずつ丁寧に読み取っていって、稽古というよりも話し合いというか、大学の授業のような感じでした(笑)。最初のうちはケンセンさんが話を振ってくださることが多かったんですけど、日数を重ねるうちにどんどん役者からも意見が出てくるようになって。おかげでいざ立って芝居をしたときも、自然と安心できたんですよね。それはきっとみんなで台本を読み解く時間があったから。お互いの認識を細かいところまで共有し合えているからこそ、安心して飛びこんでいくことができました。
中村壱太郎
――本作は、壱太郎さんのように歌舞伎の世界にいらっしゃる方がいれば、茂山童司さんのような狂言の世界の方もいるし、元宝塚の久世(星佳)さん、小劇場出身の江本(純子)さんと、普段まったく別のカルチャーに身を置いている人が同じ舞台に立っていることが、ひとつの大きな特徴かと思います。このあたりは実際にやってみて、どんな面白さがありましたか?
その点については特に立ち稽古を始めてから強く感じるようになりました。ケンセンさんが「それぞれのバックグラウンドを大切に演じてほしい」と言ってくださって。だから僕だったら台詞は歌舞伎調だし、童司さんなら狂言調、星佳さんは歌で感情表現をされる中に男役らしいカッコいい佇まいがあって、それぞれにしか出せない個性がそのまま舞台に乗せられていたんです。僕も演じながら、みなさんの底力というものをダイレクトに感じましたね。たとえば江本さんなら、「1行の台詞に対してこう言うんだ」とか「この台詞の間にこういう動きをされるんだ」という自分では想像できない観点がいっぱいあって。それが面白かったし、僕自身の役づくりにも深く影響があったと思います。
――さらにそこにシンガポールやインドネシアという国籍の異なる出演者が加わります。
彼らの言語は僕もまったくわかりませんから、普通のお芝居なら当たり前である「相手の言語を聞いて芝居をする」ということが不可能なんですね。そこに最初は戸惑いました。でも海外旅行に行ったとき、相手が何を言っているかわからなくても、怒っているのか喜んでいるのかは、だいたいわかるじゃないですか。そういう言語の意味を超えたところにある「雰囲気」を掴むことが今回の作品ではすごく大切だったような気がします。
――それは、たとえばどういうものでしょう?
たとえば台詞ひとつ発するにも、手の動きをつけるだけで捉え方が変わります。そういうひとつひとつの動きが、言語の異なる中で芝居をするときはすごく重要になるんです。変に動くと、相手の捉え方が変わってしまう。すごく伝え方については慎重になりました。
――ある意味、今まで使っていなかった筋肉を使うような?
使ってはいたけれど、あまり強く意識することがなかったのかもしれません。言語が通じる現場では、どれも自然にやっていたことばかりなので。でも、こういう環境下だからこそ、動きのひとつひとつについて、本当にそれは自然なものなのか改めて考えることができたし、それは役者としても非常に貴重な機会だったと思います。
中村壱太郎
――実際に、「ふじのくに⇄せかい演劇祭2016」で上演を終えてみて、作品について改めてどんな魅力を感じましたか?
もともと野田さんの戯曲自体が、シェイクスピアの改作になっている。それを、ケンセンさんがどう伝えるのか、僕自身もとても興味深かったんですね。でも、実際に上演したものを改めて見て感じたのは、ストーリーを超越したものがそこにあったんだということです。瞬間瞬間を切り取るような視覚的な美しさはもちろん、耳で感じる美しさもあって、きっとケンセンさんもそういったものを大事にされていたんじゃないかなと思いました。いろんな芸能がミックスされているわけですから、中には無理があったところもあるかもしれません。でもその無理さえも、「あり得て良い無理」だったんじゃないかな、と。意味で通すのではなく、動きの美しさや台詞の掛け合いの音楽性を味わうような。演劇で言う、「芝居が上手い」とか「いいお芝居」とは別のアプローチをしている場面がたくさんあった気がします。
――では、芸劇での上演に向けて、さらにブラッシュアップしたいところなどあればぜひ。
芝居のスピード感をもっと探求していけたらと思いますね。それは単にテンポがいいという意味ではなく、それぞれの芝居がより上手く溶け合いつつ、舞台の空気感が鋭いものになっていったら面白いのかなって。芸劇での公演の前にはシンガポールでの公演もありますし、さらにそこから稽古を挟むことで、まだまだ2、3度洗い直す機会がある。きっとこれからまた新しいものが生まれて、静岡で上演したものとはまた違う作品に生まれ変わるような予感がしています。
■演出:オン・ケンセン(シンガポール)
■出演:中村壱太郎、茂山童司、ジャニス・コー(シンガポール)/ヤヤン・C・ヌール、イ・カデック・ブディ・スティアワン(インドネシア)、江本純子、たきいみき/久世星佳
■会場:東京芸術劇場シアターウエスト
※その他、熊本、吹田、高知、福岡公演あり
※日本語・英語・インドネシア語上演/日本語・英語字幕付