『アドルフ・ヴェルフリ―二万五千頁の王国―』展レポート 妄想が築き上げた“聖アドルフ王国”の世界に没入する

レポート
アート
2017.5.1

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東京ステーションギャラリーにて、『アドルフ・ヴェルフリ―二万五千頁の王国―』展(会期:2017年4月29日~6月18日)が開幕した。アドルフ・ヴェルフリ(1864~1930)の名は日本ではほとんど知られていないが、アウトサイダー・アートを代表する芸術家として位置づけられ、ヘンリー・ダーガー(1892~1973)などで知られるアール・ブリュットの元祖ともいわれている。

展示風景

展示風景

スイスのベルン近郊で生まれ、人生の大半を精神科病院で過ごしたアドルフ・ヴェルフリ。日本での大規模な個展は今回が初となり、4メートル超の巻物を含む作品群74点をまとめてみることのできる絶好の機会である。本レポートでは、ヴェルフリが生涯を懸けて築きあげた“聖アドルフ王国”の夢物語を追っていく。

めくるめくエキセントリックな空想叙事詩

45冊、2万5000ページ。この目がくらむような数字は、ヴェルフリが生涯で描いてきた作品の数だ。彼が精神科病院の一室で一心不乱に紡いだ物語が、いかに壮大なものであったかを示している。

45冊の本にまとめられたアドルフ・ヴェルフリの著作

45冊の本にまとめられたアドルフ・ヴェルフリの著作

少年ドゥフィ(アドルフの愛称)が世界中を冒険する空想の自伝的旅行記『揺りかごから墓場まで』や、地球全土を買い上げ「聖アドルフ巨大創造物」を作り上げる方法を説く壮大な創世記『地理と代数の書』、自らのレクイエムとして描き未完に終わった『葬送行進曲』。いずれのページも余白を許さず、絵と文字と音符でみっちり埋め尽くされている。それはさながら、ヴェルフリ独特の世界観を図式化した曼荼羅のようにもみえる。

南=ロンドン 1911(『揺りかごから墓場まで』第4冊405-406頁)

南=ロンドン 1911(『揺りかごから墓場まで』第4冊405-406頁)

モチーフの繰り返しや呪文にもみえる文字や記号の羅列。そこには、どうしても画面を埋め尽くさずにはいられないという狂気を感じる。ただ同時に、描くことをやめられない、描かなければ生きていけないという切迫感が作品の強度をさらに高めているように思う。ヴェルフリを比類なき創作へとかきたてたものは、いったい何だったのだろうか。

ロング・アイランドの実験室 1915(『地理と代数の書』第13冊73頁)

ロング・アイランドの実験室 1915(『地理と代数の書』第13冊73頁)

世界を旅する夢物語に隠された、悲しい過去

あふれでる衝動、ほとばしる情熱。その謎を解くには、まずヴェルフリの生い立ちを知る必要がある。

ヴェルフリは、スイス郊外の貧しい家庭で7人兄弟の末っ子として生まれた。酒癖の悪い父に病弱な母。里親の元を転々とし、度重なる虐待と強制労働で学校に通うこともままならず、孤独と生活苦に苛まれる日々を送った。数回にわたる犯罪の末、31歳で統合失調症と診断され精神科病院に収容された。以後、66年の生涯を終えるまでを病室で過ごしたという。

アドルフ・ヴェルフリ

アドルフ・ヴェルフリ

ヴェルフリが絵を描き始めたのは収容から4年経った1899年、35歳のときだった。この頃に描かれた作品は200~300点ほどと考えられているが、現存するのはわずか50点ほど。単色で製図的な作品は、これまで上手く吐き出すことのできなかった思考や感情を紙に落とし込むことで、緻密に整理しているかのよう。

前掛けをした神の天使[1904]

前掛けをした神の天使[1904]

44歳で、全9冊・2970ページにおよぶ自伝的叙事詩『揺りかごから墓場まで』の制作にとりかかる。自分の不幸な生い立ちを魅惑的な冒険記に書き換え、理想の王国を築くことで作品の想像世界に安住の地を求めていったヴェルフリ。彼が描いたのは空想の出来事ではなく、すべて真実と疑わない自らの姿を投影したものだったのである。

“ヴェルフリ・コード”は音楽か、暗号か

アリバイ(部分)1911(『揺りかごから墓場まで』第5冊 553-554頁)

アリバイ(部分)1911(『揺りかごから墓場まで』第5冊 553-554頁)

ヴェルフリ作品を彩る構成要素として、音符の羅列に注目したい。ヴェルフリは初期のドローイングを「楽譜」と呼び、「アドルフ・ヴェルフリ、シャングナウの作曲家」と署名していたことからも作曲していたかのようにみえるが、よく見ると五線譜ではなく六線譜になっている。彼の生い立ちと歴史的背景をあわせて考えてみても、音楽的素養があったとは考えにくく、楽譜も読めなかった可能性が極めて高い。

象による取るに足らない私の救済(部分)(『地理と代数の書』第12冊 537頁)

象による取るに足らない私の救済(部分)(『地理と代数の書』第12冊 537頁)

実際、この謎めいた“ヴェルフリ・コード”を解読しようと試み、曲として音に起こしたアーティストもいて、CD化もされている(興味のある方はiTunesで「adolf wölfli」と検索してみてほしい)。実際に聞いてみると、作曲途中の鼻歌をそのままフレーズ化したような曲になっていて、ヴェルフリ本人に作曲の意識があったかどうかは疑わしいところである。

紙ラッパを吹くアドルフ・ヴェルフリ

紙ラッパを吹くアドルフ・ヴェルフリ

しかし、音楽作品として完結しているかどうかはもはや重要なことではないだろう。ヴェルフリ作品を通じて、枠組みに収まりきらない根源的な芸術の力や、人間本来の持つ表現の可能性にハッとなることに意味があるのだ。ヴェルフリ・コードは凝り固まった芸術概念への問いかけのようにも思える。

太平洋、ビスカヤ島の=港での神聖なる聖アドルフの磔刑、1876年 1914(『地理と代数の書』第12冊529ー530頁)

太平洋、ビスカヤ島の=港での神聖なる聖アドルフの磔刑、1876年 1914(『地理と代数の書』第12冊529ー530頁)

内側から湧きあがる衝動を表現する芸術

「アール・ブリュット」はフランス語で「生(き)の芸術」の意味で、英語ではアウトサイダー・アートと称されている。既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によって制作された芸術作品の意味で、伝統や流行、教育などに左右されず、内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術を指す。

シオン=ウォーター=フォール(部分)1914(『地理と代数の書』第12冊 211-212)

シオン=ウォーター=フォール(部分)1914(『地理と代数の書』第12冊 211-212)

アール・ブリュットを命名したのはフランスの画家ジャン・デュビュッフェ(1901~1985)だ。デュビュッフェは、アドルフ・ヴェルフリやアロイーズ・コルバスの作品と出会い、既存の美術界の枠外で能力を発揮する作家や作品を解放した。当時の西洋美術の状況に警鐘を鳴らそうとしたのだ。

日本では「アウトサイダー・アート/アール・ブリュット=障がい者によるアート」という風に誤解されているきらいがあるが、決してそういう意味合いではない。本展はアール・ブリュット本来の意味やその在り方を考えるうえでも意義深い企画といえよう。

アール・ブリュットとは、芸術的創作をできるところまで推し進めたものです。他の芸術家たちは、自分の芸術をほんの半分しか信じられず、芸術の外側にある人生を生きていたのです。狂気とは偉大な芸術です。例えばヴェルフリがそうであったように。(ジャン・デュビュッフェ)

 

神=父なる=巨大な=いなずま[1919]

神=父なる=巨大な=いなずま[1919]

ヴェルフリは色鉛筆やタバコ代を稼ぐために、ドローイングを病院の職員や創作をみにきた人々に売っていたが、病室の隅に高く積み上げられた2万5000ページの“王国”を売り渡すことは頑なに拒んでいたらしい。ヴェルフリはいつか、この自叙伝が出版され、自分を排除してきた社会に正当な評価を受けることを夢見ていたといわれている。

自室で積み重ねられた本の横に立つアドルフ・ヴェルフリ(1921)

自室で積み重ねられた本の横に立つアドルフ・ヴェルフリ(1921)

デュビュッフェによって見出され、世界中の人が作品を鑑賞し、衝撃を受け、圧倒されているいま、「アウトサイダー・アート」の看板はヴェルフリにとってもはや不要かもしれない。

“アール・ブリュットの王”と称され、アートの世界で“王国”を築いた現状に、ヴェルフリは天上で祝福のラッパを吹いているだろうか。

芸術はわれわれが用意した寝床に身を横たえに来たりはしない。芸術は、その名を口にしたとたん逃げ去ってしまうもので、匿名であることを好む。芸術の最良の瞬間は、その名を忘れたときである。(ジャン・デュビュッフェ)

 

ヴァルダウ精神科病院の[新館]入り口に立つアドルフ・ヴェルフリ[1925]

ヴァルダウ精神科病院の[新館]入り口に立つアドルフ・ヴェルフリ[1925]

 

作品および写真はすべてベルン美術館 アドフル・ヴェルフリ財団蔵
All works and photos ©Adolf Wölfli Foundation, Museum of Fine Arts Bern
 

イベント情報
アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国

【会期】2017年4月29日(土)~6月18日(日)
【休館日】月曜日
【開館時間】10:00~18:00 ※金曜日は20:00まで開館 ※入館は閉館30分前まで
【入館料】一般1,100(800)円 高校・大学生900(600)円 中学生以下無料
※( )内は20名以上の団体料金
※障がい者手帳等持参の方は100円引き(介添者1名は無料)
※本展は、兵庫県立美術館(1月11日~2月26日)、名古屋市美術館(3月7日~4月16日)を巡回し、当館が最終会場となります。

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