BANBANBAN鮫島ヒロミ・山本正剛インタビュー 「偏見が偏見を生むのが嫌なんです」

ニュース
2017.6.30
BANBANBAN 左:鮫島ヒロミ 右:山本正剛 撮影:大塚正明

BANBANBAN 左:鮫島ヒロミ 右:山本正剛 撮影:大塚正明

画像を全て表示(7件)

吉本興業所属のお笑いコンビ、BANBANBAN。フリーザ芸人としてテレビでもお馴染みの山本正剛と、アニソンDJイベント『アニソンディスコ』主将としても活動する鮫島ヒロミ。ただのお笑いコンビとは思えない彼らに初のインタビューを行った。コンビ改名、山本の長期休養、そしてアニソンに対する思いなども一気に聞いた。ひな壇を拒否した彼らのヒストリーとこれからを見てもらいたい。

――お二人の出会いは、小学校からの幼なじみですか?

鮫島:小学校1年の同級生ですね。

山本:もう30年…

鮫島:30年近い付き合いですね。たしか僕から声をかけたんですよ、幼稚園から上がってくる友達もいるんですけど山本くんは違って。帰る方向が一緒だったんですけど、よく見たらちっちゃくて細くて、言う事ききそうだったので(笑)。

山本:犬みたいなもんですよね

鮫島:ちょっと声をかけてみて、それから毎日一緒に帰ってましたね。

山本:登下校ずっといっしょだったね。

――で、その流れでずっと一緒にいて、「じゃあお笑いコンビになろうぜ」となったんですか?

鮫島:いや、最初はお笑い芸人になろうとは思っていなくて、二人共漫画が好きだったんですよ。ゆでたまご先生とか藤子不二雄先生とかが二人組でやっているっていうのが小4くらいでわかってきて、「じゃあ2人で漫画描けばいいんじゃね?」みたいな話になって、1回学校の漫画研究クラブに入るんですよ。

山本:ああ、あったわ!漫画描いたね。

鮫島:そこで二人共画力がないっていうことに気がついて諦めて(笑)。今度は中学とかに入ると、スーパーファミコンの『スーパーファイヤープロレスリング』とかの影響でプロレスを好きになって。二人で。「プロレスだったらコンビ組んで、タッグでいけるじゃねえか」と話をするんですけど、運動神経とタッパがないことに気がついてまた諦める(笑)。

――まだお笑いは出てこない。

鮫島:高校は別々の学校だったんですけど、それくらいにやっとお笑い好きだなという感じになって。高校でる直前くらいに二人でお笑いをやろうかって話をしたんですけど、山本くんは大阪でやりたいと。僕は東京でやりたいという話で、じゃあ別々でやろうかと。いつかそのうち仕事も一緒にすることもあるだろうっていうことで別れたんですよ。

――なるほど。

鮫島:で、山本くんは19くらいからもう大阪の吉本の舞台にちょこちょこ出始めていて。僕はいろいろあって23で吉本に入るんですね。NSCに入って。それで山本くんと連絡を取り始めて。「俺も吉本入ったよ」「じゃあなんかあるかもしれないな」なんて。手紙でやりとりを始めるんですよ。

――手紙?

鮫島:はい。僕がネタ書くんですよ。ネタ書いて大阪の山ちゃんに送るんです。そうすると山ちゃんから電話が来て「めちゃめちゃ面白い!この漫才、このコントやりてぇな!すげえな、面白いな!」と言ってくれるんですよ。「俺もネタ書いて送るよ!」と送られてくるんですけどそれが超つまらないんですよね(笑)。で、俺は言葉を濁しながら「あ〜、ありがとう」とか言って。そういうやりとりをしているうちに組みたいという気持ちが強まって来て。ある日山ちゃんから「明日家にいるかい?鹿児島からナマモノが送られて来たから送るよ」って言ってきて。なんとなくわかるんですよ、「ああ、そういうことか」と。

――気持ちがわかる?

鮫島:うん、なんで鹿児島から来たものを山ちゃん家を経由してくるとか、そんなことあるわけないじゃないですか(笑)。わからないふりをして「そうか、わかったじゃあ家にいるよ」と言って。次の日の昼間にドアを開けたら山ちゃんが「なまものでーす」と言って来て、僕はその時の相方に電話をして「解散しよう」といって、そこから組むんですね。

――やっぱり組みたい気持ちはあったんですね。

鮫島:そうですね、ありました。どっちも当時のコンビは上手くいっていなかったので。組みたいなという気持ちはありましたね。

――山本さんからみた鮫島さんはどういった感じだったんですか?

山本:もう小学校の頃から、リーダーシップを取るのが上手い人だなと。周りが付いてくるんですよ。鮫ちゃんが面白いことを話そうとしたら周りが聞きにくる、みたいな。そういうリーダーシップかなんかが昔からあるような感じだったので、ついていけば友達が増えるのかなと思って接してはいましたね(笑)。僕昔ゲームをめっちゃ持っていたんですよ、ネオジオとかメガドライブとか、ファミコン以外の機種も家にあって。それをやりたいから集まるような浅はかな友達しかいなかったんですよ(笑)。でも外で遊んだりする友達は鮫ちゃんしかいなかったんですよね。

鮫島:悲しくなってきた(笑)。僕も山ちゃんのゲーム目当てで付き合っていたわけではないですからね。一緒に居て気分が良かったというか、気持ちが良かったので一緒に居た。

――楽だったんでしょうね。

鮫島:そうですそうです!

山本:そうですね。

撮影:大塚正明

撮影:大塚正明

――で2003年。前のコンビ名「パリパリポリパリ」が結成。いざ組んでみたらどうでした?

鮫島:最初は合わなかったんですよ、山ちゃんは大阪でずっとやっていたから、大阪の間というかね。

山本:訛りだったりね。

鮫島:僕も元々NSCの中で飛び抜けて面白いわけではなかったし、山ちゃんも大阪で落ちこぼれだったので。落ちこぼれで才能もない二人が、"ある”感じを出してもしょうがないなという話をして。大きな声で、汗かいてやろうという、全力で動いて声出して、汗かいてやろうという方針に変えたんですよ。で、そういう漫才に変えたら、それからちょっと上手くいって。一回吉本の出した雑誌のDVDの付録の中でも、「未来のダウンタウンを探せ」みたいなDVDがあって、そこで一応トリをやっているんですよ。それくらい一時期ちょっとプッシュされかけたんですよね。それでなんかあぐらをかいていたら、周りのセンスのある人たちがどんどん大声を出して暴れ始めて。「あれあれ!?ちょっと待って待って!?大声出して汗かくのは俺らの専売特許だからみんながやると薄まっちゃうから」と言っているうちにみんなにどんどん追い抜かれちゃって(笑)。

山本:あはは、思い出したわ。その時、めっちゃ伸び悩んでいたんですよ。そうしたら鮫ちゃんに急に三沢光晴さんの本をポンと渡されて「これはお笑いの教科書だから読め!」って訳のわからないことを言われて。

鮫島:がははは!(笑)

山本:いや、わけわかんないと言ったら「俺のネタは全部、三沢光晴だから」と言われて。それで熱い漫才をしたんです。もう、大声を張り上げて、走り回ろうって。あ、そういうことだったんだ、って(笑)。

鮫島:あ~、渡した渡した。三沢の自伝みたいなやつ渡した。これを読めば、お笑いの全てがわかるって、間違っていたねぇ……。

――当時お笑いを目指したきっかけになった芸人さんとかいるんですか?

鮫島:鹿児島出身なもので、ネタ番組とかはないんですよ。でも桜金造さんが『お笑いウルトラクイズ』でワニと戦うみたいなのがあって。おしっこちびりながらワニを気迫でどかしたんですよ。それを見てかっこいいなと思って、かっこいいんですけどおしっこはちびっているんですよ(笑)。カメラもしっかり押さえてる。それくらい自分をさらけ出してかっこいいなと思ったのが最初だった気がします。それからダウンタウンとかにハマっていった感じですね。

山本:僕は、タレント志向がすごく強かった人間で、そこまで芸人になりたいという気持ちはなかったんですよ。なんかタレントになりたいなとふわっと思っていた時に、ダウンタウンの浜田さんがテレビに出たり、CDも出したりいろんなことをやっていて、この人は職業はなんなんだろう?って調べたら芸人だって知って。芸人になってトップを目指せばいろんなことができるんだというのが、始まりですね。

――で、コンビ名を改名したのが2008年。これはなぜ改名を?

鮫島:元々「パリパリポリパリ」という名前で活動をしていたんです。響きとか気にいっていて、先輩からも笑ってもらったりしていたんですけど、覚えてもらいづらかったんですよ。初めて出た吉本のライブでも、アンケート用紙に「パリパリポリポリ」や「パリパリパリパリ」って記載されたり。でも一番改名しようとしたきっかけは、吉本の公式サイトに「本日の出演者“バリバリボリバリ”」ってなっていたんですよ。明らかにもうそいつはキーボードのBから押しているんですよ(笑)。ここの時点で間違われているんだったらもうやめようっていうので、「BAN BAN BAN」に変わりましたね。今の名前は桑田佳祐さんのDVDをたまたま見ていて、その時流れていた曲が「BAN BAN BAN」だったので、もうこれでいいわみたいな感じですね。

――そのBAN BAN BANに改名して、2010年8月ですね。山本さんが体調不良を発表。

山本:これは大変だったね。この時期は。

鮫島:ズタボロでしたね、もう戻りたくない。

――聞いていいんでしょうか?

鮫島:大丈夫です。2008年くらいからフリーザのモノマネを始めて。で、僕も2008年くらいにお笑い吉本のピラミット方式のランキングで行き詰まるところがあって。結婚もしていたんですけど、その頃先輩芸人のダイノジさんの主催する『ジャイアンナイト』というロックDJイベントに入れさせてもらったんですよ。そこなら現状打破ができるんじゃないかと思って。その中で僕らはダンサーをやっていたんですけど。ある時にダイノジさんの大谷さんが「二人でできることをやったほうがいいんじゃないの?」という勧めをもらって。「山本はフリーザのモノマネができるし、アニメも詳しいからお前がダンサーとかやって、アニソンのDJイベントを始めてみなよ」といわれたんです。

――大谷さんから?

鮫島:はい。それでアニソンディスコを始めましたね。僕は元々アニソン全然知らなかったんですよ。本当は、小学校の時まで『アニメディア』とか買っていたんですけど、途中からなんか恥ずかしくなって買うのやめたんです。少年漫画は読んでいましたけど、アニメは『スラムダンク』とかくらいしかみていなくて。2000年……いや、90年代後半からアニソンディスコ始めるまで一切見ていないですね。本当に見ていないです、エヴァンゲリオンも見てないです(笑)。山本くんがDJやって、俺が踊ればいいかという気持ちでやっていたんですけれども。公演の2週間くらい前に山本くんがうつ病でいなくなっちゃうんですよ。

山本:心の病気ですね、完全な。

鮫島:もうフリーザやだって言い始めて。なんかその、フリーザでいることが辛いとかって言い始めて。俺はもっとちゃんとしたツッコミで、俺の話芸の組み立てで笑わしたいって言っていたりするんです、それで飛んじゃって、どうしようってなって。でもチケットは売れているものだからイベントはやらなければいけない。だから僕はもうケツを拭う形で、この1回だけで終わりにしましょうという約束で、2週間でアニソンをいろんな人から仕入れて、300曲くらい聴き込んだんですね。

――急場しのぎではないですけど、そういう感じですね。

鮫島:そう、でも先入観がないんですよ。作品に関しての思い入れが全くないので、いい曲と思ったものだけを並べてかけようと思ったんですよ。それでいい曲だなと思ったのがたまたま全部『マクロスF』の楽曲で。「これ全部同じ作品なんだ!かっこいいのばっかりじゃん」と。あと、『らき☆すた』の「もってけ!セーラーふく』も自分の中でピンときて。あと自分が昔見ていたアニメ、アニソン。それからジャイアンナイトという流れもあったので、ロックを混ぜたりしたのが初めてのアニソンディスコでした。で、1回で終わりにしようって思っていたんですけど、これをやってると山ちゃん帰ってこれるんじゃないかなと思ったんですよ。続けていれば山ちゃんが帰ってくる場所になるから、帰ってくるまでは絶対続けようって。それから半年後くらいに山ちゃんが「俺やっぱり続けるわ」と言ってくれて、復帰してくれて今に至りますね。

撮影:大塚正明

撮影:大塚正明

――うつ病になってしまったのは、フリーザをやっていたからなんですかね?

山本:何でしょうね。でも、フリーザを、僕以外にもやっていた子がいたんですけど。みんな何かこう……。

鮫島:みんないなくなっちゃうんですよ。当時3人くらいいたんですけど。全員やめちゃっているんですよ、病んで。

山本:で、なんかとうとう俺もか、みたいな感じになっちゃって(笑)。

鮫島:最後は俺かって。

山本:最後はもう俺だってなって。これだ、これだって、もう信じちゃっているんですよ。もう、フリーザをやるとそういう病になるというふうな頭になっちゃって。

鮫島:自己暗示みたいなのもあるんでしょうし。

山本:そうですね。自己暗示みたいなものでしょうね。

――その期間はじゃあ全く、いわゆる芸人という活動はせずということですかね?

山本:そうです。『紅とん』という居酒屋で店長候補になっていました。

鮫島:あははは!(笑)

山本:12時間ずっと働いてたら半年で(笑)

鮫島:その間は僕はずっとピンでお笑いライブは出続けていて。そしたらコンビで越えられなかったピラミットの壁を超えちゃったんですよ(笑)。

撮影:大塚正明

撮影:大塚正明

――戻ってこようと思ったきっかけとかあるんですか?

山本:鮫ちゃんがずっと活動しているのがずっと引っかかってはいたんですよ、アニソンディスコだけじゃなく、お笑いの方も「BAN BAN BAN・鮫島」じゃなくて「BAN BAN BAN」の名前で出ていたんですよ。

鮫島:あ~たしかに。BAN BAN BANで出てた。

山本:その時に、鮫ちゃんが上がっていくのを見て、やっぱりコンビでずっとやっていたから、多分一番それが響いたんじゃないですかね。「BAN BAN BAN・鮫島ヒロミ」だったら多分僕は辞めていたと思います。多分。

鮫島:確かにそうかもしれない。

山本:「BAN BAN BAN」の看板でずっとやっていたので。何でいないんだろうみたいな感じで自分で思っていたんです。この中には僕もいるんじゃないかみたいな感じで。

鮫島:ブログとか読んでいたの?

山本:読んでた読んでた。

鮫島:あ、読んでいたのね。

山本:で、そういうのもあって「これはやらないといけない」と思って電話しましたね。

――逆にいうと、鮫島さんは変な話、じゃあ例えばもうやれそうにないから切り捨てるでも、一人で頑張ろうでも、方向性変えようでもできるわけじゃないですか。それをしなかった理由って何ですか?

鮫島:あの~、横にいて言うのも恥ずかしいんですけど。やっぱり山ちゃんしかいないんですよね、こんなこと言うのめっちゃ恥ずかしいんですけど。

――まあインタビューですから。

鮫島:はい(笑)。山ちゃんしかいないんですよ。他の人とやろうとか全く思わない。当時僕、嫁さんが実家にもう帰る、みたいな話も出ていたんです。芸人辞めて帰って、嫁さんの実家の宮崎で過ごすという話もちょっと出ていて。でも嫁さんの実家行ったら俺鹿児島出身だから、なんか宮崎の人にばっかり囲まれて嫌だなあ……とか(笑)。その時嫁さんに一度「山ちゃんも連れてっていい?」とか言っているんですよ。だったら宮崎行ってもいいかなとか(笑)。それぐらい山ちゃんじゃないと僕はダメなんですよ。他に芸人の友達もいないし。先輩後輩ともそんなしょっちゅうつるんでいるわけでもないし。山ちゃんがいなかったら何もやっていないな、まあ、帰ってこれるんだったら続けたいなという気持ちでしたね。帰ってくるだろうというそんな変な自信もあったし。

――連絡来た時どうでした?

鮫島:いやもう、ガッツポーズしましたね。やった、やっと来たよ!と言って。待ってたよ!と言って。で、山ちゃんが帰ってくるタイミングで僕は今度は膝の靭帯を切っちゃって。一ヶ月休業するんですよ(笑)それで山ちゃん、一人で舞台に出て(笑)。

山本:禊みたいなものですね、その間は。

シェア / 保存先を選択