流山児★事務所『西遊記』注目の初日レポート
撮影/横田敦史
流山児★事務所×天野天街×鈴木慶一のコラボが生んだ、ダークサイド・オブ・西遊記。
自他ともに認めるであろう演劇界一の暴れん坊・流山児祥が、スーパーモンキー孫悟空が大暴れする娯楽大作『西遊記』を「流山児★事務所」で舞台化するのは、何とも必然だったという気がする。しかし作・演出が、アクションとは縁遠いイメージがある「少年王者舘」の天野天街という時点で、途端にどんな舞台になるかまったく想像がつかなくなっていた。そして三重・四日市市で幕を開けたその舞台は、まさしく今まで(少なくとも私は)観たことがないような「ダークサイド・オブ・西遊記」という趣の世界だった。
物語は、三蔵法師と孫悟空・猪八戒・沙悟浄の旅の一行が、天竺まで経典を取りに行く旅の真っ最中の所からいきなり始まる。妖怪たちの間で、三蔵法師の肉に不老不死の力があると広まっているため、その旅は様々な妖怪たちを相手にしては殺しの繰り返しだ。やがて一行は、炎が激しく燃え盛る山に行く手を阻まれ、その炎を消せる唯一のアイテム「芭蕉扇」を手に入れようとするのだが、そこでメンタル攻撃と言えるような不可解な出来事が次々に巻き起こっていく。
撮影/横田敦史
原作は、文庫本で全10巻にもなる大長編だが、本作は「火焔山」の章を基点に、様々なエピソードをつないでは元に戻し、つないでは元に戻しを重ねることで、わずか100分の物語に凝縮させていた。しかも「私はいるのかいないのか=世界とはあるのかないのか」という、天野天街の永遠のテーマともいえる問いを、作品世界からはみ出し過ぎることなく…いやむしろ『西遊記』自体、実は痛快無比な活劇話の裏に、そういう形而上学的な要素が含まれているということに、改めてスポットを当てる形になっていた。その象徴となるのが、なぜか2人いる孫悟空。どっちが本物の悟空なのか、悟空はまだ他にもいるのか、いやそもそもこの旅自体がどちらかの(あるいは両方の)悟空の見ている幻ではないか? などと、観ている側も脳内を滅多打ちにされるような困惑状態に陥っていく。
とはいえ演じるのが「流山児★事務所」なだけあって、観客を楽しませる要素もしっかりと盛り込まれていた。特に音楽は「ムーンライダーズ」の鈴木慶一が、なんと50曲以上のオリジナル楽曲を提供し、物語の不条理な流れをスルリと変化させたり、あるいは増幅させたりする。さらに棒術をフィーチャーした舞踊的なアクションの数々が目を楽しませたかと思えば、流山児が本人役で物語世界に乱入するという演劇ならではのメタ的なシーンも。中でも、登場人物の大半が変化の術を使えるという設定を悪用した、演じる側も混乱しそうな場面では、客席の笑いが止まらないという状態に。これは日本のみならず、今後上演が予定されているアジア各国でも、その愉快さが言葉の壁を越えて伝わることだろう。
撮影/横田敦史
公演の当日パンフで天野が「孫悟空は死なないのだから困ったものだ」と記していた通り、もう1つ外せないテーマとなっているのは「死ねない」、つまり「永遠に終われない」ことの恐怖と哀愁だ。劇中でも語られるが、孫悟空は不老不死の果物と秘薬を大量に摂取したため、切り刻んでも業火で焼かれても決して死なない身体となった。戦っても自分は死ぬ心配がなく、むしろ死の概念を持たないから、相手が如意棒で無残に頭を砕かれて息絶えようが、その残酷性をどうしても自覚できない。いるかいないかもわからない釈迦如来に言われるがまま、あるかないかもわからない天竺を目指しながら、ルーティンワークのように「防衛」という名の殺戮を繰り返す。私たちは『西遊記』の終わりを知ってるから、その戦いを娯楽として楽しめるが、本人たち…特に「死」という決定的な終焉を、何があっても迎えられない孫悟空にとっては、天竺への苦難の旅よりも、もはやこの世に存在すること自体が真の苦行なのかもしれない。
撮影/横田敦史
痛快でありながらも、悪夢の万華鏡を覗き込んでいるようでもあり、そしてラストでは私たちも孫悟空たちと一緒に、はるかなる時空へと一気に飛ばされるような仕掛けが待っている本作。三重公演の後は、西の天竺への取経の旅ならぬ、東の東京への公演の旅が続いていく。流山児★事務所×天野天街×鈴木慶一のスピリットと才能が見事に結実したこの舞台は、東京だけでなく海外の観客からも、おそらくこう評されることだろう。「こんな『西遊記』観たことがない!」と。
■日時:10月22日(木)~28日(水) 19:30~ ※24・25・28日=15:00~ 27日=15:00~/19:30~