演出家・宮城聰が語る、SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』
SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』(レオノーラ・ミアノ作、平野暁人翻訳、宮城聰上演台本・演出) 撮影/三浦興一
昨年の9月、フランス・コリーヌ国立劇場で初演され、高い評価を受けた『顕(あらわ)れ〜女神イニイエの涙〜』が、静岡芸術劇場で上演中だ。現代の劇作家の作品を上演するコリーヌ国立劇場が、新作を日本のカンパニーに委嘱したという、演劇界的には未曾有の出来事だったが、それが実現した経緯から、舞台に込めた思いまで、演出家・宮城聰に話を聞いた。
コリーヌ国立劇場の芸術監督からの連絡
2016年5月、ふじのくに⇄せかい演劇祭で、ワジディ・ムアワッドさんがひとり芝居の『Seuls』、邦題は『火傷するほど独り』を上演しましたが、それから1カ月ぐらいして、ムアワッドさんから「どうしても宮城と話がしたいんだ」という連絡が来たんです。「時間がないので用件だけ伝えておいてください」とお願いしたら、「どうしても本人と話がしたい」と言う。
それで通訳を介してスカイプでお話ししたんですが、まず、自分がコリーヌ国立劇場の芸術監督になること、そして、今年度のプログラムは、すでに前年度から動いているけれども、来年度のプログラムはゼロから自分が決めるということ、さらに来年度に関しては、フランスの国立劇場の場合、ふつうは演出家を決めて、それから演出家がやりたい戯曲を決めるという順番なのだが、自分は逆にしたいと。つまり、まず、劇作家を決めて、その劇作家が演出家を選ぶというやりかたにしたいと言う。
それで、ムアワッドさんがレオノーラ・ミアノさんの新作『顕れ』を読んだら、これは本当にすばらしく、自分が演劇に求めるもののすべてが詰まってるような戯曲だと思ったと。ぜひ上演したいので、レオノーラさんと演出家は誰にしようかと相談し、いろんな演出家の名前を挙げていったけれども、どうしてもふたりが納得できる人がいない。最後には、もうお手あげになって「じゃあ、レオノーラさん、実現可能性は棚にあげて、地球上の誰でもいいから、この人にやってほしいという名前を挙げてみてください」と言ったら、レオノーラさんが「宮城聰」と言ったんだと。で、自分はちょうど1カ月くらい前に静岡に行っていたから、そのことにものすごくびっくりしたと。「提案自体もある意味ではけっこう突飛で、なにしろ奴隷貿易の話を、少なくとも地理的には最も遠いところにいる日本人に頼もうという……そのこともびっくりだったんだけど、考えてみると、これはすばらしい案じゃないかと思って。それで、引き受けてくれないか」と言われました。
SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』(レオノーラ・ミアノ作、宮城聰上演台本・演出) 撮影/三浦興一
鎮魂をめぐる物語
そのときは、まだ日本語訳もない戯曲だから、内容を聞いただけだったんです。まさか奴隷貿易を扱った戯曲を演出してくれというオファーが来るとは思っていなかったから、面食らったわけなんだけれども、とにかくあらすじというか、大まかな訳を作ってもらわないとジャッジができない。そこで、平野暁人さんに翻訳をしてもらった。
そしたら、もうひとつ驚いたことには、一昨年にシェイクスピアの『冬物語』をやって、アヴィニョン演劇祭で『アンティゴネ』をやって、昨年は能形式による『オセロー〜夢幻の愛〜』をやっている。これらはどれも鎮魂の話。死者がよみがえって、怨(おん)を、恨みを説く。基本的に全部そういう話。たまたまそういう3部作をやっているさなかだったんですけど、そしたら『Révélation/顕れ』もまったくそういう話だったんです。この符合にも、また驚いたんですね。
そして、アフリカ的な、あるいはレオノーラさんが考える神話世界における死生観と、能における死生観がとても似ている。あまりにもつらい状況で死んだ人間は、死んだ後もあの世へ行くことができずに、この世とあの世の中間みたいなところにとどまっていて、あの世に行くことができない魂たちが、この世を不幸にしているという構造がある。この考えかたは、かつての日本のいわゆる御霊信仰とかと同じわけですね。こういう霊たちを慰めないことには、この世が幸せにならないという発想……これは本当に共通しているなと思いました。つまり、ぼくがやっている芝居のシリーズ、いわゆる鎮魂三部作につながりがあるということ、それから死生観にも日本と共通のものがあるということです。
題材はダイレクトに言えば、ぼくはまったく知らないことだったけれども、これはやってみる価値があると思いました。ただし、この事実……「奴隷貿易」という言葉は、レオノーラさんはあまり使いたがらないので、「環大西洋三角貿易」と言ったほうがいいのかもしれないんですが……環大西洋三角貿易について、ぼくら日本人はあまりにも何も知らない。だから、レオノーラさんから直接Q&Aみたいに話を聞く時間がないと、自分たちがやることに確信が持てないから、そういう時間をとりたいとムアワッドさんに伝えました。そして、このことについて、ぼくたちが知っていくというプロセスと創作プロセスを重ねたいという話をしたんです。そしたら「それはそのとおりだ」と言ってくれて。それで、作者のレオノーラさんに静岡まで来てもらって、いろいろお話を聞きました。
SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』(レオノーラ・ミアノ作、宮城聰上演台本・演出) 撮影/三浦興一
当事者でない者が異文化を上演すること
たとえば、戯曲の指定をどれだけ守らなくちゃいけないのかとか、衣裳についても、かなり細かい具体的なト書きがあります。
それはアフリカの造形とか、あるいは神話とか、具体的な敷き事があるんでしょうけど。そして、この部分だけは踏まえなくちゃいけないということがあるのかもしれない。そういうことを知りたいと思って、レオノーラさんに来てもらって、いろいろとお話を聞きました。役者にもひとり一個は必ず質問を考えておくようにと言って。
そしたら、レオノーラさんは「ト書きはすごく細かくいろいろ書いてあるけれども、基本的には、自分がまったく思いも寄らないことをあなたたちがやってくれることを期待している。だから、ほとんど気にしなくていいですよ」と言ってくれました。ただし、唯一やってほしくないのは「日本人であるあなたがたが肌を黒く塗ること」。それ以外は何をしてもいいという感じでした。
SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』(レオノーラ・ミアノ作、宮城聰上演台本・演出) 撮影/三浦興一
夏に稽古をして、9月にコリーヌ国立劇場へ行きました。そして、仕込みの初日に、芸術監督のムアワッドさんが来て、「実は、この夏のあいだずっと考えていたことがあって……」と切りだされました。
それはムアワッドさんにとって師匠みたいな存在であるロベール・ルパージュさんが、太陽劇団出演、ロベール・ルパージュ演出で、北米先住民の話の『カナタ』という芝居を作っていて……「カナタ」という単語は「カナダ」という国名の元になっているらしいんですが……その芝居を太陽劇団の役者で稽古していたら、当の北米先住民の人たちが「これは文化の搾取だ。わたしたちの歴史と文化を、まったく関係ない人が作品にし、いわば商売にしている。そのことをわたしたちは容認できない」と抗議の声をあげたんですね。
すごく単純に言うと、俳優たち、出演者たちのなかに、自分たちのような北米先住民はひとりも入っていない。だから、自分たちの話を、作品にして発表して、それを流通させていくというのは文化の搾取なんだということを言い始めて、一度は太陽劇団での公演も延期になったんです。そこで、太陽劇団を主宰するムヌーシュキンさんやルパージュさんがさらに検討したうえで、この抗議に対して、自分たちは公演をやめる理由はひとつもないという結論に達し、上演されることになりました。
その一方で、ムアワッドさんは、『顕れ』というアフリカの人たちとヨーロッパの人たちにとっては当事者である作品を、その当事者がひとりも入っていないカンパニーにオファーしていたので、そのことをずっと考えていたそうです。この場合はどうなんだろうとずっと問い続けて、ムアワッドさんは、演劇のいちばん面白いところは、自分の話じゃないことができるところだ、他者の話を自分のことのように語れるところが演劇の魅力なんだと考えました。
もうひとつ、この『顕れ』を取りあげることによって、宮城たちはいままで知らなかったアフリカ人の歴史を、この上演によって知ることができる。それも大事なことじゃないのか。自分のことではないからこそ、初めて知ることで、それを知る人ができるということが大事なんじゃないか。そうムアワッドさんは考えて、『顕れ』も予定どおり、上演されました。
SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』(レオノーラ・ミアノ作、宮城聰上演台本・演出) 撮影/三浦興一
演劇の根本的なメカニズム
ぜんぜん知らなかったことを知っていくこと自体に価値がある、ぼくもまったくそのとおりだと思うんです。
けれども、そもそも演劇というのは、基本的には死者を呼び出すことですよね。そして、それは本当はわからないはずのことなんだけれども、それを呼び出すことによって、初めていろいろ知るわけですよね。あなたは生きているときに、そんなに苦労されたんですかとか。
だから、自分じゃない人を呼び出して、その人の苦労を、代わりにしゃべってあげる。それによって自分というものが広がるし、自分と世界がつながる、あるいは、封じ込められているものと世界がつながると言ってもいい。それが演劇のメカニズムというか、根本的な機能なので、だから、われわれがこの戯曲を取りあげることは、演劇の根本的なメカニズムに非常に合致していると思ったんですね。
レオノーラさんも同じような考えで、単純に言えば、アフリカの話を普遍化したいと。世界中の人にとって関係のある話、世界中の人にとって自分の話というものにしたい。そのためには、当の当事者よりも宮城たちに頼んだほうがいいと思ったんだと言うんです。
だから、自分たちの話を囲い込んで独占してしまうのではなく、むしろ開くことによって、みんなのものにしていく。そういうことで初日を開けて、ぼく自身はこの思いがけないオファーのおかげで、自分の作品のなかでひとつ新しい段階に進めたという実感はありました。これまで自分たちがやってきたことを、ものすごい遠い鏡でもう一度照らしだすことができて、ある意味では、ぼくたちがやってきたこと、それはク・ナウカ時代からずっとやってきたことを、総括するような機会にもなったし、そのことがどういう機能を持ちうるかについて、ひとつの確信を持てた。自分たちの方法が、より広い世界につながる、そういう確信を持てたんですね。
SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』(レオノーラ・ミアノ作、宮城聰上演台本・演出) 撮影/三浦興一
ごく近い時代の歴史上の悲劇への挑戦
ぼくはいままで神話はたくさんやってきましたけれども、150年前とか、200年前とか、ごく近い時代の歴史上の悲劇は、取りあげたことがなかったんです。つまり、神話的な悲劇は、そこでいかにむごいことが起こっていても、たとえば、シェイクスピアの悲劇でも、歴史に基づいてはいるけれども、ある程度、抽象化されているから、やっぱりモデルであるにすぎない。たとえば、マクベスは、現にいた誰々さんとはちがって、すでに抽象化された人になっている。
ところが、『顕れ』の場合、まさに現にいた誰々さんを慰霊する。現にいた誰々さん、そして、それから実際に現にいた誰々さんによってつらい死にかたをしたウブントゥたち。死に際して弔ってもらえなかった、リストのなかで名前が特定できるような人たちの霊を慰める。これはぼくらにとって初めてだったんです。そういう意味で、自分たちのやってきたことが、さらに別の種類の広がりを持ったというか、別のことに機能することが実感できた。
その一方で、客席には、いわゆるフランス人と、そして若干のアフリカ系の人たちがいるわけです。アフリカ系の人たちも、国籍上はフランス人になっている人もいるわけですが、フランスで公立劇場の芝居を観ているアフリカ系の観客は珍しい。オペラでも、出演者のなかにアフリカ系の歌手はいても、客席では見かけることは少ない。
でも、今回の『顕れ』は、そんなに多くないけど、5人とか10人だけど、アフリカ系のお客さんがいました。それはやっぱり観客にとっても、まんじりともできないシチュエーションですよね。非常に単純に言ってしまえば、環大西洋三角貿易によって得た富によって、今日のフランスがあると言っても過言じゃないわけだから。今日のフランスの繁栄、まあ、少なくとも100年前くらいまでの途方もない富の集積のうえで暮らしている今日のフランス人たちのなかに、アフリカ系の観客も混じっている。こういうシチュエーションでこの芝居を観るというのは、まあ固唾を呑む感じです。
SPAC公演『顕れ〜女神イニイエの涙〜』(レオノーラ・ミアノ作、宮城聰上演台本・演出) 撮影/三浦興一
ぼくらにとってありがたかったのは、終演後、劇場の扉のところにいると、アフリカ系のお客さんはもう例外なく絶賛してくれるんですね。それは本当にレオノーラさんが望んでいたことと、ほぼ同じ。自分たちの話ではあるんだけれども、それが普遍化されたと。何か言ってくれる人は、ほぼみなさん、そういうことをおっしゃる。それがうれしい、そのことが感動したと言ってくださいました。
そのような客席の反応は、やっぱりパリだから起こること。コリーヌ国立劇場での上演を見ながら、静岡芸術劇場での公演はどうなるんだろうと考えたんです。コリーヌ国立劇場では、舞台上は抽象化というか、普遍化したけれども、客席には当事者がいるシチュエーションだった。
それに対して、静岡芸術劇場では、客席もまた、他者の話だと思って聞くわけじゃないですか。フランスでは、お客さんは「これは自分たちの話だ。自分たちはこの歴史のうえに富を築き、今日がある」、あるいは、「これは自分たちの話だ。150年前までは、こういう先祖がいて、そのうえにわたしたちがいる」と受けとめる。そういった観客の前で、ぼくらの表現が、文化の搾取ではない、あるいは、単なる剽窃行為ではないと認められたことはとてもうれしいし、抽象度について太鼓判を押してもらえたこともうれしい。
では、静岡芸術劇場で、客席にいる人も環大西洋三角貿易についてあまり知らない場合、はたしてどういうことになるんだろう。コリーヌ国立劇場の本番を観ながら、ぼくはそのことを毎ステージ考えていました。そして、それは次の段階だなと思ったんですね。作る側も他人の話をしているし、観ている側も他人の話を観ている。そういう場合、なにがしか自分の話だと感じられるだろうか。
あるいは、その抽象化されたものが、人類全体の一種の財産であり、それゆえ自分の財産でもあると観客が思うんだろうか。ないしは、何かお伽噺のような感じで終わってしまうんだろうか。どんな受け止められかたをするのか、また固唾を呑んで見届けたいと考えています。
https://youtu.be/7g7qaNWAZFQ
取材・文/野中広樹
公演情報
■音楽:棚川寛子