<2015年末回顧>堤広志の「演劇」ベスト5

特集
舞台
2015.12.30
ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場『ガリバー旅行記』 (撮影:cmihaela marin)

ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場『ガリバー旅行記』 (撮影:cmihaela marin)

私の「演劇」ベスト5

1位 ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場『ガリバー旅行記』 (10月@東京芸術劇場)
2位 アンジェリカ・リデル『地上に広がる大空』 (11月@東京芸術劇場)
3位 「せたがやこどもプロジェクト2015」スズキ拓朗演出/おどるマンガ『鳥獣戯画』 (8月@シアタートラム)
4位 SPAC/ダニエル・ジャンヌトー演出『盲人たち』 (4月@日本平の森)
5位 肯定座『MAN IN WOMAN』 (12月@明石スタジオ)
同5位 螢火蟲劇団『銷魂夜(Haunting)』 (1月@吉祥寺シアター)


●アートではない演劇

近年どうも面白くない。いろいろな劇団や公演はあるのだが、同時代を生きているということを観客にも実感させてくれる表現、いまこの時代に万難を排してでも取材したり批評したりしなくてはいけないと思わせてくれる公演が、正直少なくなってきているように思っている。それは時代のせいなのか、それともこれまでいろいろと刺激的な舞台をたくさん観てきてしまったがゆえに自分の感性が鈍磨しているからなのかは、よくわからない。

確かに不安な時代を反映するかのように、同時代的なテーマを取り上げる劇団はあり、それぞれに見どころもある。トラッシュマスターズは、『砂の骨』(3月@シアタートラム)で非正規雇用とブラック企業、その先にある格差社会の拡大と治安の悪化を射程にいれてこの問題を問うていたし、『そぞろの民』(9月@下北沢駅前劇場)では戦後日本政治の現状と行き詰まりを家族や世代の問題に置き換えて描いていた。文学座の山谷典子が手がけるRing-Bongの『闇のうつつに 我は我かは』(3~4月@サイスタジオコモネAスタジオ)は、『原爆の図』を描いた丸木位里・丸木俊夫妻の丸木美術館をモチーフに、芸術家が戦争と向き合った時代と戦後の家族の姿を描いた。新劇系女優7人のユニットであるOn7(オンナナ)は、劇団チョコレートケーキの日澤雄介(演出)と古川健(劇作家)を迎え、『その頬、熱線に焼かれ』(9月@こまばアゴラ劇場)を公演し、被爆して戦後はケロイド治療のために渡米した実在の「原爆乙女」を題材に、核の問題を現在に問い直した。

どれもおそらく今取り組まなければならない題材を選び、描いてはいる。しかし、どこかもどかしさも禁じ得ない。単に取材して調べて書いた、いろいろ悩んで舞台化した、といったレベルの印象は拭えないのはどうしてだろうか。歴史の生き証人にコミットして取材したり、それをまとめるという作業を行っていること自体は尊重するし、取り組みとしては評価できるのだけれども、それでは既存のドキュメンタリーやジャーナリズムに敵わないのではないか? そう思ってしまう。いかに「演劇」としてそれを伝えるのか? なぜ「演劇」でなければならないのか? という問題をスルーしてしまっている気がするのだ。

もっとも、「既存のドキュメンタリーやジャーナリズム」がだらしないからこそ、「演劇」が風穴を空けることもできるのかもしれない。燐光群の坂手洋二は以前からそのような既存のジャーナリズムが扱わない問題、それを代替するような作品を送り出してきた。今年は『クイズ・ショウ』(3月@ザ・スズナリ)、『バートルビース』(8月@ザ・スズナリ)などを公演しているが、なかでも特筆すべきなのは『お召し列車』(12月@座・高円寺)だろう。日本におけるハンセン病患者の隔離政策、それに使用される護送列車が天皇専用の行幸列車と同じ名前の隠語によって呼ばれていたという皮肉、そしてアウシュビッツや731部隊のような非人道的な医療行為が戦後にまで行われていたという事実にも言及していた。こうした事実は、通常一般のジャーナリズムでは決して浮かび上がってくることではない。燐光群はそれ以前から『パーマネント・ウェイ』や『CVR』など、事実を綿密に取材した海外のドキュ・ドラマを翻訳上演しているが、この『お召し列車』は事情が違う。というのも、坂手自身が取材し、書いた作品だからだ。今回の新作に際して独自に関係者にインタビューしたことから、“明るみに出た事実”だろう。物語は一応フィクションの形をとっているが、そこに描かれるエピソードには実際の証言が活かされている。その事実の重さが胸に迫る。生命を賭した声なき声(=“燐光”)に耳を傾けるこの劇作家、この劇団でなくしては、決して描くことの出来ない作品と言える。「既存のドキュメンタリーやジャーナリズム」が報道しない(報道できない)問題を取り扱っているという点において、「演劇」に出来ることはまだまだあるはずだ。

ただし、坂手のように旺盛かつ精力的に社会問題へコミットするアクチュアルな取り組みが、他の(特に若い)劇作家にもあるのかというと、そのようには思われない。例えば、海外におけるドキュドラマのような劇作、国内でいえば高山明(Port B)とか岸井大輔のような活動と比較すると、甘い感じはどうしても否めないのである。結局はプロセニアム(額縁)の中に収まっているという印象があり、単なる教養主義に終ってしまっているようにも思える。その表現が(あえて「作品」ではなく「表現」と書く)、オーディエンスの生活や人生にまで影響し、あるいは浸食し、迫ってくるようなもの(=アート)には感じられない。私が感じる“もどかしさ”とは、おそらくそういうところからくるものだろう。


●手塚・寺山・井上の遺産

こうした社会性の強いテーマを単なる教養主義に終わらせるのではなく、観客にも共感できるような「表現」として工夫するという点では、むしろ、大手の劇場の方が抜きん出ている。劇作や演出、演技だけでなく、舞台美術、音楽や音響、照明、衣装、宣伝美術など、諸々すべてがオリジナルに予算と手間を充分にかけて創作される。そうした現場と比較すると、逆に小劇場の作品が見劣りするのも無理からぬことかもしれない。しかし、だからといって、クリエイティビティを放棄して良いという話にはならないはずである。

Bunkamura/シディ・ラルビ・シェルカウイ演出『プルートゥ PURUTO』(1月@シアターコクーン)は、手塚治虫の『鉄腕アトム』(「地上最大のロボット」)を浦沢直樹が翻案したマンガ『プルートゥ』が原作だが、子供向けなロボットSFというルーツを遥かに超越して、明らかに湾岸戦争以降の中東紛争を意識した世界観を持っている。CAT・神奈川芸術劇場/栗山民也演出『アドルフに告ぐ』(6月@KAAT神奈川芸術劇場)は、「ヒトラーが実はユダヤ人だった」という秘密文書を巡り、歴史に翻弄されていく二人のアドルフ少年とその周囲の人々を描いていく手塚治虫の長編大河歴史マンガが原作であった。悲劇的な時代と状況、手塚治虫の訴えたかった反戦思想と生命の尊厳を余すところなく打ち出すスタッフワークとキャストの演技だった。奇しくもどちらも手塚治虫のマンガが原作なのだが、こうしたプロダクションには偉大な先人のレガシー(遺産)をどう次代に継承していくのか(コンテンツ・ビジネスとしてどう再活用していけるのか)といった背景もある。こうした取り組みは、他にもテラヤマ・ワールドの寺山修司作品や、こまつ座の井上ひさし作品などにも共通している。

寺山修司作品の上演は、パルコ/松本雄吉演出『レミング』(12月@東京芸術劇場)、東京芸術劇場/藤田貴大演出『書を捨てよ町へ出よう』(12月@東京芸術劇場)など、生誕80年を迎える12月に重なっていた。しかし、最も印象に残ったのは、Bunkamura『青い種子は太陽のなかにある』(8月@オーチャードホール)だった。寺山が残した未発表戯曲を、蜷川幸雄の演出、松任谷正隆の音楽で舞台化した音楽劇で、そのテーマは今も色あせいてなかった。時代設定は高度成長期に当てられている。地域を整理し高層団地を開発しようとする為政者に対して、乞食たちが人権を主張し歌い踊るという設定は、ブレヒトの『三文オペラ』からの引用のようにも思われる(『三文オペラ』もそもそもは『乞食オペラ』からの翻案である)。しかし、裏社会で成り上がった悪人を主人公にしたブレヒトと違い、寺山はあくまで純情で誠実な、いまだ“何者でもない”ような青年を主役に据えている。そもそもこの作品は寺山の主宰した演劇実験室・天井桟敷ではなく、労演から依頼されて創作した音楽劇だという。そこに生活のために“労働者”として体制側に組みするのか、あるいは人間らしい生の尊厳を譲らずに反抗するのかといったテーマが描かれている。夢や愛のために真実を曲げ、生きていこうとする主人公は、反抗することのない現代の若者を予見していたかのようであり、また日本の戦後民主主義の矛盾を照射している。若き日の寺山が抱いていた正義感と詩人の魂が、瑞々しく息づいている戯曲で、この普遍的なテーマを内包している作品をまた違ったプロダクションの舞台化で観てみたいと思った。

Bunkamura・こまつ座/漂流劇『ひょっこりひょうたん島』(12月@シアターコクーン)も、現代を捉え直した作品といえる(串田和美演出、宮沢章夫・山本健介・串田和美脚本)。井上ひさしが駆け出しの頃に携わった同名テレビ人形劇の舞台化で、人物設定や場面設定などは子供向け人形劇のままである。しかし、他愛のない場面の合間には、巨大な地響きのような轟音が遠くで鳴る。そして、ラストでは島民や海賊が島の宝物を探し回り、宝箱を見つけてきてはフタを開け、すべて空という徒労が何度となく繰り返される。そこでドン・ガバチョは提案するのだ。「休みながら探せば良い」と…。こうして皆は盆に乗って寛ぎ、惚けているところへ、ホリゾントには巨大な雲が動いている。実は、東日本大震災で被災した岩手県大槌町の蓬莱島が、ひょうたん島のモデルの一つになっているとも言われている。日本という島国全体が、いまだ漂流していることを暗示するようなラストは、直接的なセリフで訴えるドラマよりも、はるかに心を震撼させるものがあった。


●グローバリゼーションによる覇権主義批判 

閑話休題。ようやくベスト5である。

1位ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場『ガリバー旅行記』(10月@東京芸術劇場)は、シルヴィウ・プルカレーテの演出。2012年にシビウ演劇祭で上演後、エディンバラフェスティバルでも好評を博した作品で、グロテスクでありながらも美しく幻想的、そして痛烈な社会風刺が織り交ぜられた作品である。ジョナサン・スウィフトの同名作を原作としているが、よく知られている小人国(リリパット国)と大人国(ブロブディンナグ国)の話よりも、むしろ高度な知性を備えた馬たち(フウィヌム)と邪悪で汚らわしい人間(ヤフー)が登場する第4篇「フウィヌム国」から想を得たシーンがメインとなっている。

舞台は、スウィフト自身が晩年に「フウィヌム国渡航記」の一節を語り始めるという劇構造をとり、本物の生きた馬が登場したり、馬に扮した女優たちは美しく、一方、叫び、呻き、野卑な笑い声を上げる人間たちは醜悪に描かれる。妊婦たちは産んだばかりの赤ん坊を売り払って金を手に入れ、それを買い取った男たちはそれを調理して食べるといったシーンが演じられる。あるいはスウィフトの持っている本を取り上げ、ページを破いたりもする。さらにアンサンブルはビジネススーツに身を包み、ブリーフケースを持って行進して、スマートに闘争し、やがて格闘するようなパフォーマンスとなっていく。思えば、“ヤフー”といえば、現代では“Yahoo!”を連想させる。グローバリゼーションによって迫害され、淘汰されていくマイノリティや異文化のことを考えれば、この舞台は現代をも辛辣に糾弾しているとは言えないだろうか? 実在したスウィフト本人は、階級社会を鋭く批判していたともいう。ラストでは、スウィフト役の老人が自分の物語を異文化の(未開の)無垢な子供へ伝えようとするところで終る。「ヤフーのようになってはいけないよ」という最後の望みを託しているかのようなシーンだったが、その相手に文字が読めるかどうかもわからない。美しくも哀しい幕切れが心に沁みた。

このようにグローバリゼーションにおける覇権主義について、あらためて考えさせられる舞台が他にもあったことに触れておきたい。それは奇しくもシェイクスピア『テンペスト』の上演ということで共通していた。大橋可也&ダンサーズはコンテンポラリーダンスのカンパニーだが、『テンペスト』(11月@シアターX)ではテキストによるセリフなども展開された。この作品では、プロスペローを中心として描く従来の在り方を反転させて、もともと島の現地民であったキャリバンの立場から、ある種の文化侵略としてシーンを描て、他のキャラクターがほとんど登場しないという奇抜な構成が印象に残った。多田淳之介とソン・ギウン(韓国「第12言語演劇スタジオ」)による日韓共同製作であるキラリふじみ『颱風綺譚』(11月@東京芸術劇場シアターイースト、12月@富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ・マルチホール)でも、『テンペスト』を扱っていたが、こちらは20世紀初頭、日本によって国を追われた朝鮮の老王族が南シナ海の孤島で王国再建を夢見る姿を描いて、日韓の歴史と文化、そして現在を照らし出した。単なるポスト・コロニアルとはまた違った文化の読み直しが、今後は求められていくようにも感じる。


●アーティストの狂気

「どういう作品が良いと思うか?」と他人から聞かれたときに、私は「アーティストの狂気が観たい」とよく答える。「なぜ表現活動をしているのか?」「それをどのように表現したいのか?(表現しているか?)」が明解/明快にアダプトされている作品やアーティストをリスペクトしたい。だから、同時代の社会問題をテーマとして取り扱いながらも、単に言及するレベルで収まってしまい、その解釈を完全に観客に委ねてしまっているような表現では納得できないのである。取り扱っている問題にコミットすること自体にリスクがあり、そのリスクを物ともせずに負いながらも、その反面でなにがしかの応答を観客にも迫るような表現、あるいは史実や現実をも凌駕するほどの代替案や創造力のあるものを、私は評価したいと思う。

その意味で、2位アンジェリカ・リデル『地上に広がる大空』(11月@東京芸術劇場)には本当に圧倒された。『ピーターパン』のヒロインであるウェンディとネバーランドにイメージに託しながら、少女でありながらピーターパンの「母親」役を演じ続けなければいけない性役割への拒否、大人になることへの嫌悪、そして母性となることへの憎悪など、リデル本人が感じる世間一般の常識や倫理観を全否定していく。肉親への怨嗟と社会への嫌悪感を偽ることなく開示した。個人の人生に対する世の無理解を断じ、世界を敵に回してでも自らの正当性を訴えていく。その魂の遍歴の道程も含めて、圧倒的なパフォーマンスで表現していた。決して看過できないアーティストの狂気を発して余りある公演だった。

●スズキ拓朗の快進撃が止まらない

2015年一番活躍したのは、なんといってもスズキ拓朗だったと思う。コンドルズ期待の若手ルーキーでありながら、自ら主宰する劇団CHAiroiPLIN(チャイロイプリン)、その他にも様々なプロデュース公演などで精力的に活動を続け、その快進撃は止まることがなかった。3月には、CHAiroiPLINで落語の「あたまやま」を舞台化した『「さくらんぼ~噺体・HANASHITAI・1~』(下北沢「劇」小劇場)を、また東京都文化発信プロジェクト/NPO法人芸術家と子どもたち主催によるPKT(パフォーマンス・キッズ・トーキョー)で一般公募の子供たちを相手にワークショップ発表会『ちん・とん・しゃん・ベベン!~落語とラクラクおどりましょ~』(赤坂区民センター・区民ホール)を公演し、落語の荒唐無稽な世界を様々な演出・趣向で魅せた。5月は、安部公房『友達』を舞台化したCHAiroiPLINで『FRIEND~踊る戯曲1~』(六行会ホール)。8月は、世田谷パブリックシアター(世田谷文化財団)による夏休みこども企画「せたがやこどもプロジェクト2015」で、3位おどるマンガ『鳥獣戯画』(シアタートラム)を演出。そして、極めつけが10月のCHAiroiPLIN『三文オペラ』(三鷹市芸術文化センター・星のホール)である。

「せたがやこどもプロジェクト2015」スズキ拓朗演出/おどるマンガ『鳥獣戯画』 (撮影:引地信彦)

「せたがやこどもプロジェクト2015」スズキ拓朗演出/おどるマンガ『鳥獣戯画』 (撮影:引地信彦)

「せたがやこどもプロジェクト2015」スズキ拓朗演出/おどるマンガ『鳥獣戯画』 (撮影:引地信彦)

「せたがやこどもプロジェクト2015」スズキ拓朗演出/おどるマンガ『鳥獣戯画』 (撮影:引地信彦)

おどるマンガ『鳥獣戯画』は、日本最古のマンガとも言われている絵巻『鳥獣戯画』の舞台化に挑んだもので、動物達が登場し、横にスクロールしていく巻物というメディアのタイムラインを辿りつつ、時に巻き戻したり、リプレイしたりと、遊び心満載の舞台だった。さらに、その外枠となる冒頭とラストには、子供のころは絵を描くことの好きだった先生役(片桐はいり)の人生模様を滲ませて、ドラマとしても感慨深かった。

「せたがやこどもプロジェクト2015」スズキ拓朗演出/おどるマンガ『鳥獣戯画』 (撮影:引地信彦)

「せたがやこどもプロジェクト2015」スズキ拓朗演出/おどるマンガ『鳥獣戯画』 (撮影:引地信彦)

そして、CHAiroiPLIN『三文オペラ』は、これまで私が過去に観た『三文オペラ』の中で一番面白いと思った。ブレヒト劇の日本における輸入は、左翼的傾向から持ち上げられ、このバカバカしい乞食オペラはどこか教条主義的になってしまう傾向があった。そのため、かえって物語世界に閉じた感じの上演が多かったように思う。しかし、「踊る戯曲」シリーズや「踊る落語」シリーズを展開して、従来のセリフ劇とは違ったスペクタクル演出で魅せるスズキは違う。戯曲の構造をわかりやすく現代的に読み解き、ダンス・音楽・映像・影絵などの多彩な演出手法の引き出しの多さに圧倒される。ラストには、きちんと異化効果を意識したひねりを利かせていた。

この他にも、国際交流基金アジアセンター・アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)・株式会社パルコによる「Shibuya Street Dance Week 2015」のスペシャル企画『A Frame』(11/23@渋谷区文化総合センター大和田・さくらホール)の演出にも関わっており、ジャンルを超えて活動できる自由さを持っている。やはり今年は、スズキ拓朗の年だったといっても過言ではない活躍ぶりだった。


●メーテルリンクの再評価

4位SPAC/ダニエル・ジャンヌトー演出『盲人たち』(4月@日本平の森)は、SPAC「ふじのくに←→せかい演劇祭2015」のプログラムの1つだった。フランスの演出家ジャンヌトーは、これまでにもSPACの作品を演出しており、サラ・ケイン作『ブラステッド』(2009年)、テネシー・ウィリアムズ作『ガラスの動物園』(2011年)に続き、今回で3作品目である。『盲点たち』は、『青い鳥』で知られるモーリス・メーテルリンクの『群盲』の舞台化だが、私がこの作品を観なければいけないのではないかと出かけたのは、その上演場所が「森の中」だったからである。

もちろん、SPACのある静岡舞台芸術公園は山深い森の中にあり、敷地内にも舞台後ろに森を借景した野外劇場「有度(うど)」も擁している。しかし、静岡へ毎年出かけていって、劇場から劇場へはしごして観劇していると、その途中にある景色や地域の風物にほとんど触れる余裕もないのが残念だと思っていた。「いっそ静岡舞台芸術公園までハイキングがてら歩いて行くようなイベントとかガイドがあれば面白いのに」と他人にも話していたところに、今年は池田地区周辺で行われる『例えば朝9時には誰かがルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする』(5月@池田公民館)があったり、この「森の中」の公演があったりしたのだ。

ただし、この公演が常設の舞台もなければ客席もない、文字通りの「森の中」で行われるのには必然性がある。なぜそんな場所で公演をするかというと、作品の内容自体、盲人たちが森の中で路頭に迷い、どうすればよいのかわからず立ち往生している、という状況を描いたものだからである。つまり、シアターピース(劇場作品)でもなければ、単なる野外劇でもない、厳密にはサイトスペシフィックな野外パフォーマンスと呼ぶべき公演である。

観客は、舞台芸術公園の稽古場棟「BOXシアター」に集合してから徒歩で移動し、日本平の森の中に誘導される。雨天の場合はレインコートを持参と事前にアナウンスされている。そればかりが、たとえ雨天でなくても、夜の森の中はたいへん冷えこむので上着も持参で、また足元の悪い所もあるため歩きやすい履き物が推奨されている。ほど近くにある日本平の森の中まで徒歩で移動する。周囲に民家や商店もなければ、街路灯もなく、途中から舗装されていない砂利道、さらには落ち葉の積もった山道に入っていく。谷間にある狭い窪地に来ると、折りたたみ椅子がランダムに置かれていて、そこに座る。周囲には黒い衣装を着た俳優たちがいて、セリフを交わしていく。観客も盲人たちの一人になってそこにいるような感覚を演出しているのだ。

演出・趣向の面白さにチケットはすぐに完売になったようだが、私がむしろ感じ入ったのは、作者メーテルリンクの描いた象徴的なドラマ、人間の存在を問い直す手つきである。それは奇しくも、同じSPACによるクロード・レジ演出『室内』(10月@KAAT神奈川芸術劇場)にも共通している。特別、現代的な翻案や脚色をしているわけではなく、テキストに忠実に上演している。しかし、作家や作品の本質が虚飾なく伝わる。日常の狂騒的な些事よりも、人の命こそが何よりも重要なのだと実感させる静謐な感触がなにより沁みてくる。こうしたメーテルリンクの作品は、あまり上演されることはないという。作家の世界を今に伝え、再評価を促しているという意味においても、SPACの活動は意義あるものに思える。


●初来日劇団がたった1公演

5位螢火蟲劇団『銷魂夜(Haunting)』(1/17@吉祥寺シアター)は、台湾の劇団の初来日公演。劇団「らくだ工務店」を主宰した石曽根裕也が渡英して出会った劇団で、彼か俳優として出演しているだけでなく、脚本にも携わっていて、中国語、台湾語、日本語、英語が飛び交うが、あえて字幕はなし。国際共同制作を考える上で興味深い公演となった。

舞台は、太平洋戦争下、戦闘が長引く台湾の密林。本隊からはぐれた日本兵と、当時日本軍に占領され徴用されていた台湾人兵士が、やはり本隊からはぐれた中国兵たちと遭遇するという設定である。当初は敵対関係のまま牽制しあっていた両者は、ともにロストな(遭難)状態にあり、帰路も分からず、共産党軍に囲まれたまま身動ききも出来ないため、わずかな食料を分け合うなどして奇妙な共同生活を始める。そうした中で互いの故郷や家族について語り、心を通わせていく男たち。

しかし、立場の違いから、根本的なところでは理解し合うことは出来ない。日本兵(石曽根裕也)は、大東亜共栄圏の理想を信奉し、中国人や台湾人も一緒になって欧米と戦うべきだと訴え続ける。そして、誠実かつ従順に仕える台湾人は家族も同然だとして、故郷の村まで必ず生きて送り届けてやると約束するのだが、中国兵たちは、「台湾はどこのものだ」「お前はそれでいいのか」と台湾人を批判する。

ここに、この公演の意味が象徴されている。つまり、先の戦争に関わった国の演劇人同士が、台湾の歴史と立場を確認しながら、単なる国際交流ではなく、真の意味での国際理解を深めていこうという企画なのだ。ロンドンで一週間公演し、台湾を経て、日本に上陸したというが、たった一日だけの公演というのが大変もったいないと思った。もっと製作に力があれば、事前にきちんと助成金を獲得したり、公共ホールのプログラムとして公演するなり、効果的なプロモーションをするなど、いろいろやりようもあったのではないかと思う。こうしたプロダクションをビビッドかつフレキシブルにサポートできる興行システムは日本にはないのだろうか?(国際交流基金とかTPAMとかではダメなのだろうか?) インバウンドやアウトバウンドだけでなく、これも今後の課題なのではないかと考えている。

なお、同5位の肯定座『MAN IN WOMAN』(12月@明石スタジオ)については、別途劇評を投稿する予定なので、そちらを参照していただきたいと思います。また、この記事では「演劇」ジャンルに限定して書きました。「コンテンポラリーダンス」や「舞踏」については、ITI「国際演劇年鑑」に寄稿予定なので、そちらをご参照ください。

※2015年の観劇本数286本

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