《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 11 鶴澤清介(文楽三味線弾き)

インタビュー
舞台
2025.1.21


憧れの名人、弥七と、2人の師匠、道八と清治

大好きな文楽の世界に足を踏み入れた清介さん。そこでは憧れの弥七がまだ現役で弾いていた。

「僕がちょうど初舞台踏んだ時、八代目綱太夫師匠の七回忌追善として、弥七師匠が咲さん兄さん(八代目の子息である豊竹咲太夫)を相手に『一谷嫩軍記』(※)の熊谷陣屋の段をなさったんです。当時、弥七師匠はノイローゼのようになっていて楽屋にじっとしていられず、『もう全然弾けまへん。あきまへんねん』とウロウロしていた。ところが舞台に出たら、言葉は悪いけれど、太夫の襟髪をつかんでひきずり回すような凄まじい三味線で。また、『義経千本桜』のすしやの段の奥を(豊竹)十九太夫さんとお弾きになった時は、奥ってそんなにすごいしどころはないはずなのに、弥七師匠が弾いたらなんだかすごくて、楽屋で皆でやんややんや言っていました。終わって盆が回ったら、体力も声もある十九太夫兄さんが髪を振り乱して息を切らしているのに、弥七師匠は意外と涼しい顔でさっと下りられて。ところが自分が同じところを弾くことになったら、どうしてもああは弾けません。『近江源氏先陣館』盛綱陣屋の和田兵衛上使のところを咲さん兄さんと弥七師匠がお勤めになった時も素晴らしくて、こんな良い曲はないなと思うくらいだったけれど、後で自分がやってみると『こんなんやなかったなあ』と。あの時代は(六世鶴澤)寛治師匠、(二世野澤)喜左衛門師匠、(四世鶴澤)重造師匠、(野澤)松之輔師匠、(九世野澤)吉兵衛師匠、(初代鶴澤)叶太郎師匠、(二世野澤)勝太郎師匠、そして、竹澤弥七師匠……と個性の塊みたいな明治生まれの名人が沢山いて、面白かったですよ。でも僕は弥七師匠が一押しやから、それだけは絶対に聴いとかなあかんと思って、毎日袖へ聴きに行っていました」

そんな清介さんに、道八はとても優しかったという。

「親分肌で心の温かい人で、色々なことを教えてもらいました。『源平布引滝』の瀬尾十郎詮議の段で、おばあさんが(葵の前が生んだ木曽義賢の子を助けるために)葵の前が腕(かいな)を産んだと言って抱きかかえて出てくる『俄(にわか)に騒ぐ一間の内、女房の声として』のところを、普通に弾いたら『違う』とおっしゃる。『分からへんなぁ。貸してみ』と言われて聴かせてくれたものがとても速くて。考えてみればおばあさんが『わー、えらいことやー』と騒ぐ場面ですからね。当時、道八師匠は(四世鶴澤)清六師匠から教わって知っていた弾き方を、トップにいた喜左衛門師匠と寛治師匠の手前もあってなかなかできなかった。それで、弟子の僕にあれこれ教えてくれたんです。よく『ここは誰それさんがこう言っててな』『今これ言われてもわからへんやろけど、覚えてたらばそのうちわかる時が来んねん。わしでもそんな時があんねんから』と言われました」

2015年、62歳の清介さんに取材をした時、「先輩に“何でもいいから勉強しておけ、ある日突然、ばらばらっとわかって来るから”と言われたのですが、本当でした」と話していた。

「その先輩とは、五代目の(豊竹)呂太夫さん。『芸というものはこう(右肩上がりに)上手になれへんねん。平らに進んで、ある時こない(いきなり上昇)なる。一つがわかったら今までわからへんかったことがバラバラバラっと全部わかるから、その間は努力せなあかん』と言われたんです。わかってきたのは、60歳を過ぎた辺りから。それまでもちゃんと成立するようには弾けていたけれど、その曲全体の雰囲気に合った表現の仕方というかドライヴ感というか、そういうものが足りなかったんです」

そのことは、道八亡きあと師事した鶴澤清治(現人間国宝。連載第Vol.5に登場)との稽古でも裏づけられた。

「教えられた間の取り方がどうしてもわからなくて『これがどうしてわからないかね』と言われていたのですが、ある時『ああ、そうか』。そうしたら、自分の録音を聴いて『なんでこうならへんのやろ』と首を傾げていたところも一気にわかってきて、『そうか、これを言われていたんやな』と思いましたね。6歳で文楽の世界に入った清治師匠とは、年は7つ差でも芸歴が20年違いますから、師匠として色々教えてもらいました。あの方は天才肌で何でもパッとわかるから、言っていることを理解するのにこっちは時間がかかりましたけれども」

こうした経験から、清介さんは今、弟子たちに色々な話を聞かせるという。

「弟子の稽古では、師匠が言うことは聞いときゃ、覚えときゃと、しょっちゅう言います。わからないにも色々あって、まずわからないというのもあれば、わかってもとれない、できないというのもある。自分はこういうことができないんだ、わからないんだとわかったら、そのうちに天の摂理でわかるようになる。演奏でも、行けるところまで行っておいたら、あかんと思った時に突き抜けて、突き抜けたらもう一つ向こうが開ける。もし、とうとう生涯わからなかったとしても、こういうことを教わったと次の世代へ渡すことができます」

※『一谷嫩軍記』の嫩の字の右側は正しくは「欠」となる。

1977年正月。鶴澤道八(中央)と。後列左から鶴澤清友、鶴澤清介、故鶴澤八介。道八に抱かれているのが孫の竹本織太夫。          提供:竹本織太夫

1977年正月。鶴澤道八(中央)と。後列左から鶴澤清友、鶴澤清介、故鶴澤八介。道八に抱かれているのが孫の竹本織太夫。          提供:竹本織太夫


 

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