終わりにして最終章への始まり――ショパン1842年の作品群を務川慧悟の深い情感と音楽的知性で~特集!『スタクラ 2025 in 横浜』【第5回】
ショパンは1842年以前の1836年頃、パリの社交界において6~7歳年上とされる女流作家のジョルジュ・サンドという女性に出会っている。紆余曲折を経つつも男女の関係になった二人はスペインのマヨルカ島で愛に満ちた、そして芸術上においても互いに実り多きものをもたらしたといわれる同棲生活を送る。その後、サンドは生来病弱なショパンの深刻な病状を慮って、1839年頃にフランス中部の街ノアンの静かな田園地帯にある自らの別荘に夏の間だけ拠点を移した(冬の時期は二人ともにパリで過ごす二拠点生活だった)。
すでにノアンに赴いたこの頃には互いの関係性には緊張があったとする説も多くあるが、ショパンは破天荒ながらも聡明な彼女のあたたかい母性愛に包まれ、静かな環境で自由を謳歌し、充実した創作の日々を送る。サンドは、繊細で神経質、完璧主義者で精神衰弱に苛まれがちなショパンに献身的に寄り添い、この作曲家のすべてにおいて無償の愛と理解を示すことでその不世出の天才性をいかんなく花開かせる環境を育んだのだ。
対極的で個性的な二人の出会いから、その後の美しい日々を思い浮かべただけでも珠玉の音楽が聞こえてきそうだが、今回のプログラムに触れるにおいて最も注目すべき点は、二人がノアンの邸宅に居を構え始めたこの時期からショパンの作風に大きな変化が表われ始めたことだ。
もちろんそれまでにもショパンは密度の濃いピアニストならではの技巧的で洗練された作品を多く生みだしてきたが、むしろ小規模なサロン作品的なものが多かった。しかし音楽と詞、そして文学と絵画を深く理解するサンドとともにある創作過程の中で、ショパンはより複雑な形式感を持つ大規模な作品へと視点を移してゆく。それらの作品は当時、常識的とされていた形式感を破る独自性と独創性にもあふれていた。
その手法はロマン主義的なものの典型である“曖昧さ”という要素を音楽的な形式的な枠組みにおいて極限まで昇華させ、聴き手の感情を弄(もてあそ)ぶかのように多彩な情感を醸しだすパーツを随所に盛り込みながらも巧みに一つの大きな流れを描きだす。かつ対位法や半音階的な技法も巧みに用い、内声的な動きが導き出す内面的な情感の陰影を奥底からえぐりだし、同時に典雅で独創的な華麗様式の美を、時に男性的な勇壮さをも表現し得る大叙事詩的な作品へとシフトし始めたのだ。
その円熟した独自の様式感が手に取って感じられる代表的な作品こそが、まさに今回務川によって演奏される「バラード 第4番」であり、「スケルツォ 第4番」であり、「即興曲」であり、そして「英雄ポロネーズ」なのだ。そのプロセスを俯瞰した時、ショパンという偉大なる“音の詩人”に寄り添った一人の奔放な女流作家の存在、そして彼女の大胆な生き様や芸術性がこの作曲家の創作活動に与えた影響は計り知れない。
深くは触れないが、ショパンの信奉者であり、ノアンのショパンとサンドのもとをたびたび訪れていた画家ドラクロワとの親密な交流もまた彼のインスピレーションを駆り立てたのは間違いない。劇的で光と影の立体感に富み、躍動感あふれるダイナミックな絵画の創造者であるドラクロワの芸術観は、ショパンという“ピアノの詩人”の芸術性にいぶし銀のような色彩感と表現的世界の広がりをもたらしたこともまた重要な点だ。ショパンはドラクロワと一緒に過ごす時を何よりも楽しみにしていたという。
ショパンにとって「1842年」という年をさらに深堀りしてみると、サンドと過ごした豊かな日々だけがこの繊細な作曲家の心を揺るがしたのではない。1842年は、ショパンが幼少・青年期を過ごした祖国ポーランド時代の無二の親友と、そこで師事した恩師の死が重なった年でもある。末期の結核を患い、ゆっくりと残酷な苦しみに侵されてゆく最愛の友の壮絶な今際(いまわ)の際の姿にショパンは当時、慢性の深刻な肺病と闘い続けていた自らの運命をも予感したという。かけがえのない同郷の二人の死は作曲家の神経過敏な精神をさらに追い詰めることとなるが、ショパンはむしろその苦しみを振り払うかのように悲壮感すら感じさせる凄みのある大曲の創作にのめり込む。その壮絶な心の葛藤と自らの死への恐れ、孤独や恐怖などの感情がショパンを駆り立て、これら円熟期最高峰といわれる作品群を生みだす原動力となったのだ。
これらの作品群をもってショパンは間違いなく新たな創作段階へと一歩を踏みだした。しかし、不思議なことに1842年の創作を最後に、バラードにしてもスケルツォにしてもショパンはその形態の創作に終止符を打つ。(バラードもスケルツォも第4番が一連の作品群の最後の作品だ)。ショパンは、こうして19世紀最高の傑作と称される一連の作品を世に送り出したところで、一つの区切りをつけ、新たな境地への旅立ちを描きだしていたのかもしれない。務川自身も1842年をショパンにとっての「転機」と表現していることからも、この一年を円熟の高みとするとともに、晩年の最終章の幕開けへのプレリュードと捉えているのだろう。この後、ショパンは1949年に若き死を迎える日まで、身体と心を蝕む激しい苦悶と闘いつつ、舟歌、ソナタ 第三番、そして幻想ポロネーズというさらなる最高傑作の高みへと求道者のごとく厳格な精神とともに歩みを深めてゆくことになる。
愛や死、そして才能あふれる芸術家同士の精神とインスピレーションが交わり合う美しい日々……。30代前半のショパンを怒涛のように包み込んだ1842年。もちろん、作曲家の魂の成長過程はこの年だけではないが、それが一つの結晶となって輝いた年の作品を、作曲家の精神のうつろいの過程を追うかのごとくに制作日順に聴ける機会は滅多にないだろう。
楽曲の完成度と魅力から言えば、クラシックにそこまで詳しくない音楽ファンでも、また玄人肌のショパン愛好家でも、どちらも十分に堪能できる内容なのも嬉しいことだ。それが務川の演奏であれば尚のこと。「バラード 第4番」の内声の充実した箇所やコラール的要素の重厚な箇所など、技巧的難題をクリアして初めてその真価がわかる作品ばかりだからこそ、大いに期待できるのだ。
文=朝岡久美子
公演情報
開催日程:2025年10月4日(土)・5日(日)
会場: 横浜みなとみらいホール 大ホール(横浜市西区みなとみらい2-3-6)
◆各公演券(一般発売日より販売)
10月4日(土)「ちさ子と琢磨のなるほどクラシック入門」
10月4日(土)「あなたの思い出リクエスト 〜アニメ・シネマ名曲コンサート」
各公演 全席指定 5,500円(税込)
10月5日(日)「ピアノの森 Special」
10月5日(日)「務川慧悟 ALL CHOPIN(オール ショパン)」
10月5日(日)「ガーシュウィン meets ラヴェル」
各公演 全席指定 4,500円(税込)
『ちさ子と琢磨のなるほどクラシック入門』
日程:10月4日(土)13:00開演(約90分)
出演:石井琢磨(ピアノ、MC)、高嶋ちさ子(ヴァイオリン、MC)、12人のヴァイオリニスト
演奏予定曲目:
ロッシーニ:「ウィリアム・テル」序曲
ベートーヴェン:「運命」「エリーゼのために」
モーツァルト:「きらきら星変奏曲」「トルコ行進曲」
ショパン:「英雄ポロネーズ」「子犬のワルツ」 他
日程:10月4日(土)17:00開演(約90分)
出演:菊池亮太(ピアノ)、紀平凱成(ピアノ)、12人のヴァイオリニスト、野々村綾乃(ソプラノ)、高嶋ちさ子(トークゲスト)、石井琢磨(MC)
演奏予定曲目:
ディズニー「アラジン」メドレー
ジブリメドレー
シネマ名曲リクエストコーナー 他 ※リクエスト詳細は後日発表予定
日程:10月5日(日)11:00開演(約80分)
出演:髙木竜馬(ピアノ)、ニュウニュウ(ピアノ)、東亮汰(ヴァイオリン)、橘和美優(ヴァイオリン)、 川本嘉子(ヴィオラ)、矢部優典(チェロ)、吉田秀(コントラバス)
ナビゲーター:naco(厳選クラシックちゃんねる)
演奏予定曲目:
ショパン:ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 Op.21(ピアノ:高木竜馬)
ショパン:ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11 (ピアノ:ニュウニュウ)
茶色の小瓶(ピアノ連弾:髙木竜馬、ニュウニュウ、弦楽五重奏)
日程:10月5日(日)14:40開演(約60分)
出演:務川慧悟(ピアノ)
演奏予定曲目:
ショパン(1842):3つのマズルカ Op.50
即興曲 第3番 変ト長調 Op.51
バラード 第4番 ヘ短調 Op.52
ポロネーズ 第6番 変イ長調「英雄」Op.53
スケルツォ 第4番 ホ長調 Op.54
日程:10月5日(日)18:40開演(約80分)
出演:上野耕平(サクソフォン)、菊池亮太(ピアノ)、務川慧悟(ピアノ)、ニュウニュウ(ピアノ)、三浦一馬(バンドネオン)、児玉隼人(トランペット)
演奏予定曲目:
ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー
ガーシュウィン:ザ・マン・アイラブ
ガーシュウィン:エチュード第4番「君を抱いて」(ワイルド編)
ガーシュウィン:3つのプレリュード より
ラヴェル:ヴァイオリンソナタ 第2楽章「ブルース」
ラヴェル:ハバネラ形式による小品 ト短調
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
ラヴェル:ラ・ヴァルス
ほか(予定)
※未就学児のご入場はご遠慮願います。
※当日は、撮影用のカメラが入る可能性がございます。
※客席内での飲食はご遠慮ください。
※やむを得ない事情により、曲目等が変更となる場合がございます。
主催・企画制作:イープラス
協力:横浜みなとみらいホール(公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)
公式サイト: https://standupclassicfes.jp/
お問い合わせ:stacla-info@eplus.co.jp