佐藤信氏に聞く──〈戦争戯曲集・三部作〉8時間完全上演

インタビュー
2016.2.19
劇場創造アカデミー〈戦争戯曲集・三部作〉日本初の完全上演(座・高円寺) 撮影/宮内勝

劇場創造アカデミー〈戦争戯曲集・三部作〉日本初の完全上演(座・高円寺) 撮影/宮内勝

座・高円寺劇場アカデミー6期生修了公演〈戦争戯曲集・三部作〉
第一部『赤と黒と無知』、第二部『缶詰族』、第三部『大いなる平和』
 

●初めての三部作完全上演

 座・高円寺が、劇場創造アカデミー6期生の修了公演として、エドワード・ボンド作『戦争戯曲集・三部作』の完全上演に挑戦する(2016年2月21日〜25日)。

 6年前には、第一部『赤と黒と無知』と第二部『缶詰族』を上演したのち、毎年、試行錯誤を積み重ね、改良をくり返した成果が、今回、第三部『大いなる平和』を含めた完全上演として結実した。これまでも第一部から第三部まで上演はされていたが、いくつかカットされた場面があったので、今回はカットなしの「完全上演」であり、上演時間も8時間になる予定である。

 そこで初の完全上演に向けて、座・高円寺の芸術監督であり、『戦争戯曲集・三部作』の第一部と第三部の演出を手がける佐藤信さんに意気込みを聞いた。

座・高円寺の芸術監督・佐藤信氏。〈戦争戯曲集・三部作〉第一部『赤と黒と無知』、第三部『大いなる平和』の演出も手がける。 撮影/宮内勝

座・高円寺の芸術監督・佐藤信氏。〈戦争戯曲集・三部作〉第一部『赤と黒と無知』、第三部『大いなる平和』の演出も手がける。 撮影/宮内勝

●上演することになるきっかけ

──はじめに、この戯曲を劇場創造アカデミーのテキストとして選ばれた理由を聞かせてください。

 出会いはね、1994年のアヴィニヨン演劇祭に、演出家のアラン・フランソンが招かれていて、野外スタジオで彼が演出した『戦争戯曲集・三部作』をひと晩かけて見たんですよ。そのときはまだエドワード・ボンドという劇作家にそんなに詳しかったわけではなくて……

──1986年には、文学座がアトリエの会で、エドワード・ボンド作『リア』を上演しました。

 そうですね。アーノルド・ウェスカーと同時代に出てきた演劇人のひとりという認識はあった。そのころ雑誌で、エドワード・ボンドの特集があるんですよね(現代演劇研究会編『現代演劇 no.9 特集:エドワード・ボンド』英潮社)。ぼくはよく知ってたわけじゃないけど、アヴィニヨンでの上演はすごくインパクトがあった。フランス語がぜんぜんわからないんで、まったく言葉はわかんないまま、夜が白むまでずっと舞台を見てた。それから梗概を読んだんです。

 それで、どこかで上演したいけど、この戯曲を上演するのは難しいなと思っていた。けれど、劇場創造アカデミーを作って、修了公演に何をやるのかを考えていたとき、アカデミーでは近代劇の方法論も教えるんだけど、日本の演劇教育は近代劇に特化してるという思いがあったんです。でも、現代劇の方法論は、じつはすごく多様なので、アカデミーではそれを超える発想というか、それだけじゃないことをやりたかった。

 どうせアカデミーで2年間学んで取り組むんだから、変な言いかただけど、ここを出たらしばらくは絶対やらないような演劇体験をして出るのがいいんじゃないかと。そのときに『戦争戯曲集』を思い出して、そこからもう一度、構想を練り始めた。

──『戦争戯曲集』は三部構成ですし、かなり長大な戯曲ですよね。

 すごい大作なので、いきなり最後まで上演するのは大変だから、毎年、すこしずつ整理して、くり返し上演しながら、だんだん劇場のレパートリーにしようという構想を立てました。ぼくは本来、劇場はレパートリーがベースだと思っていたので、座・高円寺でも再演を大切にしているし、実際、今、他の作品もレパートリーとして上演している。そのなかで『戦争戯曲集』みたいな大作を、毎年ずっとやっていけるフレームとして修了公演はいいんじゃないかなと思って。

 最初の公演は、2011年。時期を同じくして、3・11の東日本大震災が起こり、上演を延期しました。すると、にわかに戯曲の内容が修了生たちにリアルに響いてきて、そのときのみんなの体験みたいなものが、なんとなく潜在的にはDNAのように受け継がれている。今ではアカデミーへ入ったらこの公演をやるんだとみんなが思っており、覚悟を決めてやってるみたいですけど。

〈戦争戯曲集・三部作〉第一部『赤と黒と無知』(2014年) 撮影/宮内勝

〈戦争戯曲集・三部作〉第一部『赤と黒と無知』(2014年) 撮影/宮内勝

●年を重ねるたびに増す上演の意義

──2011年の初演は、第一部と第二部のみでした。そして再演を重ねるたびに、戯曲の存在感と重要性が増しています。

 最初の年は、演出のぼくと生田萬さん、そして翻訳者の近藤弘幸さんも含めて、戯曲を読むのにすごく時間がかかった。再演はありがたいことに、さらに戯曲を時間をかけて読むことができる。だから、アカデミーの一期生には「ぜんせんちがうこと言ってたよね。ごめんね」と言うこともあるんです。ただ、やっぱりブッキッシュに読んでてわからないことも、実際に上演してみるとわかることがよくあるので、再演はすごく重要だと思うんです。

 レパートリーは作っちゃったらそれで終わりではない。演劇は瞬時に消えてしまうから、くり返し上演していくなかで成長していくのは、本当に大切なことだと思います。日本はわりと短期決戦型で、初日に完璧なものを求められて、それを何回か上演しておしまいなんだけど、もともと歌舞伎でも、初日はまだ間に合ってない部分については「本日これぎり」と言って終わっちゃうんですよね。くり返し上演していくうちにできてくる。型もどんどん変えていく。そのようにしてできあがっていくものなので、演劇としてはそのほうが合ってるかなとは思うんですけど。

 それを『戦争戯曲集・三部作』で試みているのは、ぼくにとっても大きな体験ですね。こういう大作で、しかも戯曲を読み込んでいく。どんどんわかりやすくなっていく、というかな。だから、お客さんが見ても、演劇的面白味が増していく。

──初演された2011年には、近未来の寓話劇のように思われた舞台が、「特定秘密保護法」や「安保法制」が可決されるにつれて、にわかに具体的な世界として迫ってきました。

 そう思います。だから、最初は演出も、核戦争後の世界に重点を置いていたと思う。いわゆる近未来的な世界のなかで、SFではないんだけど、ひとつの作りものの世界。それがリアルになってきましたね。

 それから、リアルになるにつれて、カリカチュアとか寓話の意味が、すごく現代と結びついたものになっていった。はじめのころの上演では、カリカチュアはすごく抽象的なんですよ。たとえば「人はどうして争うのか」というテーマは、どちらかというと普遍的なテーマとしてあったのですが、じつは今、舞台上でカリカチュアライズされてるのは、ぼくたち自身の生活ではないかと感じます。

 たとえば、『缶詰族』に登場する缶詰族は、結局、いまのぼくたちの社会ではないか。食うことにこだわらないで缶詰だけ食ってる世界は、むしろぼくたちを描いている。そのなかで、理由がわからない死への恐怖が増大し、男の生殖能力がどんどん失われていく。女たちは待っているのに、だれも種付けすることができない。このことがまさに、いちばん大きな恐怖となっていることを考えると、80年代にこの戯曲を書いたボンドの想像力はすごいと思います。

──第一部『赤と黒と無知』は、高度な文明社会を描いているにもかかわらず、人々はきわめて暴力的で野蛮です。その一方で、第二部『缶詰族』は、それが崩壊し、すべてがなくなったにもかかわらず、登場人物が人間的であろうとする場面がたくさん出てきます。だから、どちらも今の人が見て、人間とは何かということをもう一度定義づけたり考えるうえで、大切な戯曲だと思うんです。

 もうひとつ、身近になったということでは、初演したときは、兵士になるのはリアルじゃなかったですよね。だから、兵士の物語というのは、理解はできるんだけど遠い物語というかな。

──海の向こうの物語というか……

 あるいは過去の物語。だから、参照するのも、そういう資料を参照したんだけど、いまは兵士になるというと、もう自分たちに密接に結びついているものになった。いま稽古場で言ってるのは「きみらはないけど、きみらの子供はこういう世界に向かうかもしれない」。そういうリアリティが増してることは確かにありますね。

〈戦争戯曲集・三部作〉第二部『缶詰族』(2014年) 撮影/宮内勝

〈戦争戯曲集・三部作〉第二部『缶詰族』(2014年) 撮影/宮内勝

●『戦争戯曲集・三部作』における3つの特徴

──『戦争戯曲集・三部作』は、1985年7月にバービカン劇場で、英国ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーによって初演されています。

 この作品は1980年代をものすごく意識して書かれています。『戦争戯曲集』の特徴は3つあると思うんですけど、ひとつは、登場人物たちが全員、中産階級以下なんです。知識階級はいっさい出てこない。『缶詰族』はちょっとそういうニュアンスがあるんだけど、あれは若者たちなので成熟していない。

 それから支配層が出てこない。戦争を起こした人たちが死んだ。でも、中産階級以下の人たちも、人殺しもするし、盗みもする。

──ぎりぎりのところで迷いつつも、生きるためにそういう選択を受け入れる。

 それは、おれたちは苦しいからやってるんだというふうにも受け取れるけど、ボンドはそれを超えてるところがあると思うんですよ。戯曲にも書かれてるけど、有史以来というか、ギリシア時代から、ヨーロッパでは同じことをやっている。つまり、非人間的なんだと。それで、唯一希望があるとすれば、それを非人間的だと名指す人間性なんだと。要するに、非人間的な行為をしてる人自身が、その行為が非人間的であることを知ってるという、すごく屈折したとらえかたですね。

 もちろん非人間的な行為のなかには、強いられるものもあります。エドワード・ボンドはそれを強いる者に対する憎しみも抱いてるけど、だからと言って、責任を全部そっちへ転嫁させない。強いられた者にも責任があるという、二項対立が存在している。

 つまり、その命令を受け入れるか、受け入れないかということなんだけど、たいていの人間は命令を受け入れる。けれども、軍隊から子供をひとり殺してこいという命令があったとき、自分の家族を殺すのか、それとも他人を殺すのかという究極の選択をするときには、すくなくとも演劇ワークショップの場では、全員が自分の家族を殺したと。それが人間性なんじゃないかとボンドは言ってるような気がする。

──第一部『赤と黒と無知』の第8場「人間という名を喜んで捨てられる者はどこにもいない」でも、軍隊からひとり殺せという命令を受けた青年が登場します。しかも、息子が家族を殺すという選択をしたあとで、殺された父親が息子を讃える言葉がずっと続く。

 あれが皮肉なのは、もし核戦争で死んだ子供が仮に生きたとしても、同じ世界に生きることになるだろう。だから、生きたとしても、死んだとしても、やっぱりそこに行き着くということが、もうひとつあると思うんです。

 上演にさいしてエドワード・ボンドが手紙をくれたとき、そこからヨーロッパ文明の贖罪的な感触を受けたんだけど、もうちょっと読んでみると、やっぱり同じことをくり返してしまうというか、灰のなかから同じ社会を作ってしまう人間について問いかけている。だから、ボンドは問いの演劇ですね。ボンドなりの世界観で解釈してみせたり、解決するんじゃなくて、ずっと永遠の問いかけ、残酷な問いかけをする。だから作品が古びない感じがします。

〈戦争戯曲集・三部作〉第三部『大いなる平和』(2014年) 撮影/宮内勝

〈戦争戯曲集・三部作〉第三部『大いなる平和』(2014年) 撮影/宮内勝

●再演を重ねるにつれて見えてきたもの

──完全上演にあたり、新たな演出はありますか。

 今回は、第一部『赤と黒と無知』を人間への寓話的な、つまり、いつの時代でもありうる物語にしたい。以前は核戦争にとらわれていたんだけど、そこで死んだ人間が生きていたとしても、やっぱりここで描かれている世界に生きることになる、くり返してしまうという寓話。

 第二部『缶詰族』は、現代社会のカリカチュアだとすると、第三部『大いなる平和』は、未来の神話的な世界。

 そして、第三部に出てくる、ある種の絶望の極致にあり、それでもひとりで生き続ける女性に人間性を見ることと、わずかながら新しいコミュニティーへの可能性の希望みたいなものの両方を描いて終わっている。

 どちらもたぶん今のぼくたちには現実的じゃない。つまり、あの最後の女性はいろんな経験を経て、最後にそこへたどりつく。だから、あの女性の一種の遍歴物語になっていると思うんだけど、それを「母」の遍歴物語にして、母と息子というテーマにしたところが神話的であると同時に、ボンドらしいなとも思う。だいたい神話の場合、それは父親と娘なんだけど。

──その女性は、現生人類すべての母でもあるアフリカのイブのような女性をイメージさせ、そこから人類は始まり、そしてすべてを壊してしまった後、もう一回それをくり返せるのかが問われていく。

 だから、第三部は神話のなかの女性性というかな。キリスト教のマリア信仰だって、そういうところから生まれてきてるんだけど、人間が持ってるいちばんの普遍性は、やっぱり女性と子供の物語。まあ、そのために生きてるみたいなものなので、男はその補助みたいなもんだから……

──歴史をつなぐものとしての女性ですね。命を生みだし、つないでいく存在。

 でも、結局、それを超えるというかな。要するに、ぼろ布を抱いて、それを「子供だ、子供だ」って言いつづけて……つまり、命をつなぐことを社会によってすべて拒まれたというか、つなげなくなってしまった女性が、それでも他人に頼らずに自分ひとりでずっと歩きつづける。そのとき、いったい何に向かってるんだろう。そのへんの神話的世界をうまく出せればなと思っているんですけどね。

〈戦争戯曲集・三部作〉第3部『大いなる平和』(2015年) 撮影/宮内勝

〈戦争戯曲集・三部作〉第3部『大いなる平和』(2015年) 撮影/宮内勝

●「死者」の視点から、今を語らせる

──第一部は登場人物が三人で、怪物、女、男。しかも、全員がプロの役者。黒テントの俳優が「怪物」を演じられます。

 一昨年と同じキャスティングですが、第一部は読みから演じることへの転換が難しい芝居なので、経験が相当ないと、お客さんまで届くかたちにはなりにくい。

──第一部は場面が変わるたびに、「怪物」が場面の説明をします。 はじめに「紹介」、次に「学習」、それから「愛」と続いていく。つまり、「怪物」から見た現実という感じですね。

 だから、ある意味では、本来生きることのなかった「死者」に生きている今を語らせるという構造になっているんで、ものすごく普遍的なことを語っていると思うんです。そこでの「学習」は成長過程のなかの学習で、いつの時代でも経験してるものだと思うけど、その積み重ねかたが面白いですよね。

──最後は「葬儀」で終わるから、ここでもう一度、死を予感させていますね。

 誕生しなかった人間の「葬儀」。だから、二重の意味があると思ってるんですけど。

──第一部はそのようにすべてが滅亡するかたちで終わり、第二部は、そのなかでかすかに残った細い糸のような希望が、最後につながるかもしれないというところで終わる。

 それで、第三部はそれを叩き潰すという(笑)。第三部の真ん中あたりで、第二部からの生き残りが出てきて、結局、あのコミュニティーはだめだったという話をし、そこでやっと授かった子供を、また母が置き去りにしちゃう。そういった展開はすごいです。

 核戦争後という設定ですが、戦争すらもひとつのファクターであって、いちばん描きたかったのは、やっぱり人間という感じがしますね。人間を両方の面から、つまり、人間は悪も善も持っているんだけれども、それでも善に希望を見出そうとするところが、面白いと思うんです。

でも、ただ善だけに割り切るのではなく、必ずその反対の面も抱え込んで、まるごとの人間を描く。それこそが人間的なものだと。

──人間は常に利己的にふるまうだけではない。利他的にもふるまうし、不合理なこともやると。

 非人間的行為のときに、それを「非人間的」と名付けること自体が持っている人間性だと思うんです。つまり、戦争はいけないということはすべての人間が知っている。それをわかっていることは人間的なんだけど、それでも戦争をやってしまう。それは逆に言うと、それ以外の言葉がすごく虚妄だと言ってるんだと思う。

──第一部の第6場「仕事」では、怪物が「人間らしくあるためには困難なときにこそ善行をなさなくてはならない/しかし困難なときに善行をなすのは不可能なのだ/全体にいきわたる量がないとき誰かに与えるということは誰かから奪うということである」と語ります。

 じつは盗まれつづけているのではないかと。そして、盗んでいる側の欲望は、限りないのではないかと。盗みつづけることに、歯止めがかかることはありうるんだろうか。すでに歯止めをなくしたところで、ふたたびどこで歯止めをかけるかが、いちばんの問題だと思うんです。

 学校では「ものを盗んではいけない」と教えますよね。劇場では「ものを盗まないと生きられない人間もいる」ことを見せるわけ。このふたつがセットになって、ものを盗んではいけないという原理が生きてくる。でも、学校では両方を教えられない。すると、盗んではいけないということを知っているだけで、知っていても人は盗んでしまうわけですね。そうなったときにどうするか。

 劇場の役割は、そっちを伝えることだと思うんですよ。それが実社会で展開するときには、このふたつをセットで頭に入れながら、それぞれの人間が考えていくことであって、結論は出せないと思うんですけども。

●初の『戦争戯曲集・三部作』完全上演 

──ついに、全三部完全上演ということで、観客の方々に見どころを聞かせてください。

 観客の方には、ぜひくり返し見ていただきたい。なぜなら、この戯曲のなかで問われていることをおたがいに考えつづけることが、今とっても大事な時代だと思うので。

 この戯曲は、何かを伝えたいとか、戦争はいけないものだという単純な問いかけではなく、人間っていったい何だろうと問うている戯曲なので、社会的なもの、あるいは政治的なものと無関係に見ても、問いかけられるものがあると思う。じつは今の時代にいちばん問われているものは、そういうものだと思うんですよ。

 実際には、社会的な構造とか、そのなかにある非人間性に反応しないと、たぶんだめだと思っているんです。そういう人間性ということ。

 もうひとつ、今度の公演は、第一部だけは外部の出演者に頼むんですけど、そのほかは全部、劇場創造アカデミーを出た生徒で作っているんです。そのことが案外早く来たなと思っている。ぼくは全部をアカデミーの生徒だけで上演するには10年かかると思っていたけど、今年の稽古を見ていると、もしかしたら来年には第一部もまかせられるかもしれない。

 毎年2月には、アカデミーの修了生が座・高円寺に帰ってきて、『戦争戯曲集・三部作』を上演すると、どこかのお祭りみたいになるのかもしれない。まあ、そういうふうになれば面白いと。

──高円寺には、8月の阿波踊りに加えて、2月には『戦争戯曲集・三部作』もありますよと。

 で、そういうなかで、今年帰ってきてる一期生とか二期生は、まだ華々しく活躍してはいないけど、やっぱりそれなりに成長していて、それはすごくうれしいですね。一度上演しているから自信があるんだろうけど、『戦争戯曲集』ならまかせとけみたいな感じが頼もしい。今年ぐらいから、役者も見てほしいと言えるような芝居になってきたかな。

(取材・文/野中広樹)

 
公演情報
座・高円寺劇場創造アカデミー第6期生修了公演〈戦争戯曲集・三部作〉

■日時:2016年2月21日〜25日
会場:座・高円寺1
出演:下総源太朗、重盛次郎(黒テント)、占部房子、三田圭亮(黒テント)、高橋佑介(黒テント)、劇場創造アカデミーの修了生。
■公式サイト:http://za-koenji.jp/home/
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