わたしのものではない世界――「鈴木理策:水鏡」展レポート

レポート
アート
2015.8.22
鈴木理策 水鏡(15, WM-193)2015年 (c)Risaku Suzuki/Courtesy of Gallery Koyanagi

鈴木理策 水鏡(15, WM-193)2015年 (c)Risaku Suzuki/Courtesy of Gallery Koyanagi

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 初台にある東京オペラシティアートギャラリーでは、7月から「鈴木理策写真展 意識の流れ」が開催されている。国内外で評価の高い写真家・鈴木理策の大規模な個展で、未発表作や新作、映像作品を含め、およそ100点が展示されている。もう観に行ったという人も多いかもしれない。

 さて、今回のオペラシティでの大規模個展に合わせて、銀座のGALLERY KOYANAGIでも小さな展示が行われている。それが「鈴木理策:水鏡」展だ。こちらのギャラリーでは、新作《水鏡》シリーズが数点展示されており、まるで鏡のように周囲の景色を映し込んで揺らめく、静謐な水面の写真を眺めることができる。

 〈鏡-水面-写真〉という組み合わせ自体は、けっして珍しいものではない。だが、大型のアナログカメラで撮影したという鈴木の写真は、驚くほど精密かつ稠密で、とても人間のなまの視覚ではとらえきれないほどの膨大な情報量に満ちている。そのせいで、私たちは《水鏡》の前に立つと、そこに写し出されている青々とした木々が、はたして実際に大地に根を張っているのか、水面に映り込んでいるのか、それともその二つが融け合っているのか、にわかには判別できなくなってしまう。被写体をかぎりなく精巧に映し出しているにもかかわらず、いや、逆にそれだからこそ、人間には解読不可能な映像が生み出されてしまうのだ。

 鈴木の関心も、まさにこの点に向けられている。

実際に湖沼のほとりに立って水面を見る時には、水を囲んで立つ木と水面に映る木の違いを判別できる。片方には触れられるが、もう片方には触れることができない。それらは行動に働きかける可能性を持つものと、持たないものとしてある。だがカメラのレンズを通すと、地面に根を張って立つ木と水面に浮かぶ虚像の木の違いは判断し難く、それらが写真の中では等しく表れることに興味がある。[鈴木理策「水鏡」より]

 人間の身体に埋め込まれた視覚は、カメラのレンズのように対象を機械的・無差別的に写し取るわけではない。そうではなくて、見えているもの/見えていないものが私たちの生にとってどのような〈意味〉をもちうるのか、つねに取捨選択しながら環境を読み解いている。水面に映った鏡像と気づかずに手を伸ばしたら、溺れてしまうかもしれない。だからこそ、私たちは焦点をずらしたり、見る角度を変えたり、少しずつ近づいたりしながら、視野内のさまざまな変化を手がかりに、それが本物かどうかを察知する。

 このように考えると、写真の魅力、とりわけ《水鏡》シリーズの魅力とは、次のようなものだと言えるかもしれない。それはつまり、人間的な意味に汚染された世界から、被写体を、そして私たち自身の視覚を救い出すことにある、と。大型カメラのレンズは、人間によって見られ、意味づけられた環境の膜をやすやすと引剥がし、この生から解放された非人間的な世界をかいま見せてくれる。

 鏡のなかに棲む小人、私たちが日々投影する理想や願望、諦念や断念を喰らって生きる小人がいるとしたら、おそらく彼らにとっては、世界とはこのような姿をしているにちがいない。

イベント情報
鈴木理策:水鏡

 日時:2015年7月23日(木)〜2015年9月5日(土)
 会場:ギャラリー小柳
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