庭劇団ペニノ『地獄谷温泉 無明ノ宿』~境界を溶かす効能
庭劇団ペニノ『地獄谷温泉 無明ノ宿』より 撮影:杉能信介
「無明」の向こう側に見える異景
庭劇団ペニノの『地獄谷温泉 無明ノ宿』を森下スタジオで観た。
火山列島である日本には「地獄」を想わせる風景が多く、「地獄谷」という地名も各地にある。今回の「地獄谷温泉」は北陸の設定。その中でも人里離れた、地元の人にしか知られていない湯治宿「無明の宿」が舞台だ。
「無明(むみょう)」とは、煩悩の素となる「迷い」を意味する仏教用語。智慧の光に明るく照らされていないことによって生じる「苦しいと思う」精神状態を言う。そんな名のついた宿にやって来るのが人形劇師の親子だ。上演依頼の手紙を貰ってこの宿に来たというが、地元の年老いた女の湯治客に訊いても、ここは無人宿で、そんな手紙を出す者などいないと言う。依頼主不明のまま、帰りのバスも既になく、この宿に泊まるしかない親子。そこに盲目の男性湯治客や、口のきけない巨漢の三助(湯殿で背中を流す職業の男)、さらに二人の芸妓も加わって一夜が過ぎてゆく話である。
庭劇団ペニノは、2000年に昭和大学医学部在学中だったタニノクロウらによって結成された劇団である。シュルレアリスム感の漂う特異な作風や、空間や美術への徹底したこだわりが高く評価されて来た。数度に及ぶ海外公演も全て成功を収め、日本のアート系劇団の最前線として世界的な注目を集めている。作・演出を手掛ける主宰のタニノクロウは精神科医でもある。
ときに編集子は劇の観客として失格者だ。時間の流れが緩やかだったり、ストーリーに靄がかかっていたりすると、そういう機微を愛でる以前に雑念が色々と去来してしまうからだ。だから芸術性が高く、謎めいて、沈黙シーンの多い庭劇団ペニノを鑑賞する間にも、集中力を欠き、くだらないことばかり考えてしまう。そんな、まさに「無明」の客ともいうべき編集子が筋違いの俗論など述べれば、劇団に付く真面目で知力の高いファン諸氏から叱られるだろう。でも叱られることで我が「無明」に光が照らされるのであれば、それもまた本望だと思い、敢えて書きなぐることをお赦しいただきたい。
今回「地獄谷温泉」というタイトルからすぐに想起したのが、伊藤潤二のホラー漫画『地獄湯』だった。銭湯の先客が冥界の亡者らしき化け物ばかりで、どうやら風呂が地獄と通底しているらしいという話。それからしばらく後に出てきた漫画に、風呂が古代ローマと現代日本をつないでしまう『テルマエロマエ』(ヤマザキマリ)もあった。これらを読んで、風呂や温泉には何らかの境界や壁を曖昧化し、異なる世界を容易につないでしまう効能があるのだと編集子は思い込んでいる。
さて、その温泉に来た人形劇師の親子をマメ山田と辻孝彦(劇団唐組)が演じる。父親を演じるマメは今年70歳になる小人症の俳優(本業は奇術師とのこと)で、庭劇団ペニノの舞台にはしばしば出演してきた。
話は逸れるが、モンティ・パイソンの復活ライヴ(ロンドンO2アリーナ)がNHKのBS放送で放映された際、おなじみ「Always look on the bright side of life」を皆で合唱する大団円で、小人が一人混じっていたのを憶えておられるだろうか。彼はワーウィック・デイヴィスといい、『スターウォーズ』や『ハリーポッター』にも出演した有名小人俳優だ。出演作で一番面白かったのは『人生短し』という当人主演の英国コメディだった(『The Office』のリッキー・ジャーヴェイスが手掛けた作品だから当然)。おそらくその関係でモンティ・パイソンたちとも縁が出来たのか、ワーウィックはパイソンズ復活記者会見の司会を務め、その流れで復活ライヴという大いなる「晴れの場」にも登場することができたようだ。
『人生短し』は英国ばかりでなく、アメリカでも大人気だったが、日本においては(WOWOWで放映されたにも係わらず)知る人は少なく、モンティ・パイソンのライヴを見ても「?」という感じだったのではないか。何を述べたいかというと、、、諸外国ではテレビや映画など表舞台で小人をよく見かけるが、日本ではそういう機会がほとんどない。昔は小人プロレスやサーカスなどの見世物を収入源にしていた小人も多かったようだが、それらは現代において「差別的」と見なされ廃止された。職を失い表舞台から消えた小人たちは最近どうしているかというと、例の「ゆるキャラ」ブームで、小さな着ぐるみの「中の人」として頑張っているらしい。特権的身体を活かせる仕事にありつけることは結構なことではあるが、小人を「タブー」扱いして、それを可愛い「ゆるキャラ」の中に体よく隠蔽しているようにも思えるのは少し「何だかなあ」という気分だ。
話を戻すと、タニノは今回の作品をマメのために書いたと述べている。これまでマメというキャラを飛び道具的に使ってきたが、今回はメインに位置づけたとのこと。世間が「タブー」視して日常から遮断し隠蔽しようとしている存在を、タニノは覆いを取り払ってフィーチャーするのである。それが、悪趣味あるいは、浅薄な偽善的同情心によるものではないことは、劇中でのマメの淡々とした描かれ方を見れば明らかだ。
小人症の人にも色々なタイプがあるが、マメの場合、ひときわ小さく、テープの早回転のような声を発する(ヘルツォーク監督の伝説的映画『小人の狂宴』に出てくる小人たちもそうだった)。赤子のようである一方で明らかに老人であり、性別もよくわからない。可愛くもあり、不気味でもある。そんな多様性の凝縮したマメの性質を、タニノは舞台へ全面的に現前化する。そして役名が倉田「百福」。チキンラーメンやカップヌードルを作った人と同じ名をつけた意味は何か。彼を「湯」に浸せば、凝縮した多様性のエキスから幸福の味わいが滲み出るとでもいうのか。
一方、息子は正常な身躯を備えているが、「小人の子」という運命の下で生を受け、幼少より学校にも行かせて貰えず、ひたすら父の仕事を手伝わされるという、「一つ」の選択肢しか彼の人生には与えられなかった。そんな役回りを象徴するかのうように、役名を「一郎」という。演じる辻は、唐組での特権的怪演技をここでは抑えて、寡黙にストイックに立ち振る舞う。まるで「一郎」は「百福」に虚勢され、操られる人形のようなのだ。
この親子に対して劇中、二つの倒錯的な欲望の視線が注がれることになる。一つは盲目の男性湯治客から息子「一郎」に対して。盲人の視線とは矛盾した表現になるが、光なき「無明」の性的迷妄に起因する、「一郎」を見たいという欲動のベクトルが明らかに視線のように客席から見えてしまうのだ。ただし盲人は無理なエネルギーを消費した分、自身の体力を消耗させてしまうのだが。
もう一つの視線は、口のきけない巨漢の「三助」から父「百福」に対して注がれるものである。「三助」は入浴する「百福」を覗き見ては自慰に耽る始末である。彼は一体何に欲情をそそられたのだろうか、「百福」の可愛らしい“小ささ”に対してであろうか(そういえば昔タニノが「小さいもの大好き」と言っていたことを編集子はよく覚えている)。それとも、(老若男女の)“未分化”ぶりに何ともいえぬエロスを感じたのだろうか。「三助」は言葉を発さない。言葉は事物を他から分け隔てるための線引きとしてあるものだが、その機能を喪失している「三助」にとっての「欲望の曖昧な対象」として、「百福」の“未分化”な凝縮性はまさにうってつけのものであったのかもしれない。
ところで、劇の後半に「百福」が皆の眼前で人形芸を披露する場面がある。トランクから取り出された人形は裸で、ペニスがやたらデカい。そこから来る自信なのか、人形はまるで自分のほうが親子を支配しているかのように傲慢な顔つきで、所作も何だか横暴で野蛮だ。これが一体どういう人形で、親子との関係性がどうなっているのかよくはわからない。が、とにかく人形のペニスの絶対的デカさが「無明の宿」を一時的に支配したと編集子は見る。しかし、少し前に見た映画『最後の一本~ペニス博物館の珍コレクション~』では、ペニスのデカささえもが人の心に「無明」を宿すことが描かれていた(説明は省くが、気になる人はその映画を見て欲しい)。
そして、何と言っても気になるのはタニノクロウにとってペニスとは何かという問題だ。劇団名のペニノとは、タニノとペニスの合成語だ。なぜタニノはペニスに自己同一化させ融合させたがるのか。明瞭な回答は出せないが、「三助」が「百福」に倒錯的な欲情を覚える場面にヒントがあるのかもしれない。つまり「三助」は「百福」という珍客にペニスを投影しているのではないか。役者の名前はマメだけど、そして身躯も小さいけれど、彼の支配者ぶりはペニス的だ。そして今回の作品はタニノクロウにとって「ペニスをめぐる自分探しの旅」なのかもしれない。
舞台装置に話を移せば、今回もまたトンデモないことになっている。「無明の宿」が、玄関、宿所(二層)、脱衣場、湯殿の4つの場が回転舞台で次々に壮大な転換を繰り広げる。とりわけ終盤近く、これが回転する中を「一郎」が壁を次々に抜けて移動する場面が鮮やかだ。装置の壁だけでなく、人の精神の見えない壁をもすり抜けながら、異なる世界を通底させたり融合させたりするのが、とどのつまりのペニノらしさだと思う。その原動力としてタニノは今回「無明」の迷妄を有効活用したのだ。
そして、もう一つ。精神科医は、患者とのコミュニケーションを重ねるうちに「正常」と「異常」との境界が曖昧化して、いつしか治療を施すべき患者から逆に影響を受けてしまう場合があるという。というか、そもそもそういう資質のある人こそが精神科医という職業を選ぶのだとも。庭劇団ペニノの作品を見ているとやはり、「正常」と「異常」との境界の溶解した世界観が浮かび上がってくるのだが、それも主宰のタニノクロウが精神科医であることの特権的表現といえるのだろう。
今回の作品の中で興味深い要素はまだまだあってとても語り尽くせぬが、とりあえず今日はここまでとする。これまで述べてきた如く『地獄谷温泉 無明ノ宿』は随所謎だらけで、不可解きわまりない芝居ではあったが、それでも終盤近くで登場人物たちが皆で温泉の岩風呂に浸かる場面には格別な楽しさを覚えた。人は、衣服という世界を分け隔てるものを脱ぎ捨て、湯に浸ることにおいて、制度的な“分化”から解放され、心地よい一体感を得られることが改めてわかった。もしここでモンティ・パイソンの「Always look on the bright side of life」でも合唱すれば、「無明」性を「明転」化させえるのではないか、などと、またまた集中力を欠いて勝手な迷妄が働いた。
会場:森下スタジオ・Cスタジオ
期間:2015年8月27日(木)~30日(日) 全8ステージ
作・演出:タニノクロウ
出演:マメ山田 辻 孝彦(劇団唐組) 飯田一期 日高ボブ美(ロ字ック) 久保亜津子 石川佳代 森 準人
声の出演:田村律子
公式サイト:http://niwagekidan.org/