クロード・モネの恋〜水彩画で彩るアーティストの恋〜/コラム『とあるアーティストの恋』

コラム
アート
2017.10.25

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コラム企画『とあるアーティストの恋』。アーティストの恋のエピソードと、それをもとにした水彩画をあわせてお届けします。第2回目は、日本人がこよなく愛する印象派画家「クロード・モネ」の恋に迫りたいと思います。

クロード・モネと言えば、煌めく光の表現が有名です。 そのことからクロード・モネは「光の画家」と呼ばれましたが、印象派画家として成功を収めるまでにはいくつもの苦難を乗り越えなくてはなりませんでした。 彼を支え、彼の人生に希望の光を与えたのは2人の女性だったのです。

1人目の女性は、あなたも目にしたことがあるかもしれません。モネの代表作「散歩、日傘をさす女性」のモデルとなった女性です。名前をカミーユ=ドンシューと言います。

若い画家たちの唯一の登竜門であったサロン(官展)に挑戦するモネは、年下の恋人であるカミーユをモデルに数多くの作品を描きました。

1866年にサロン入選を果たした「カミーユ(緑衣の女性)」という作品は、当時モネが26歳、カミーユが19歳の作品です。カミーユは、恋人として、そしてモデルとして、夢を追うモネを懸命に応援していたのでしょう。

1868年のサロン後、モネはル・アーブルへと向かいますが、2人の関係は彼の父親から認められず、生活の援助を受けられませんでした。経済的に困窮する中、1867年に息子ジャンを産み、1870年に2人は入籍しました。当時のモネの作品である「昼食」や「庭のカミーユ・モネと子ども」は、家族への温かな眼差しと喜びに溢れています。

また、冒頭に紹介した「散歩、日傘をさす女性」では、愛する妻子の一瞬をドラマチックに捉えています。草原を吹き抜ける風と、煌めく光ーー。何気ない家族との幸福の瞬間を、モネは愛おしむように描きました。

しかし、幸せな日々は続かないもの。1875年にはフランスで急激な景気後退が始まり、モネにとって最大の顧客である資産家エルネスト・オシュデが破産し、国外に単身で逃亡してしまいました。

残されたのはオシュデの妻、アリス・オシュデと6人の子どもでした。モネは彼らとの同居生活を営みます。もともと、モネはオシュデを頼っていたため、苦しい貧困生活を余儀なくされます。

そんな中、1878年にカミーユが次男を出産。カミーユは妊娠をきっかけに体調を崩し、徐々に衰えていきました。1879年、熱心なカトリック教徒のアリスの勧めを受け、モネとカミーユは教会での結婚式を挙げました。

カミーユが帰らぬ人となったのは、わずか1ヶ月後のことでした。

カミーユの臨終を看取ったのも、モネの悲しみを癒したのも、アリスでした。アリスはモネ家と生活を共にし、自分の子どもに加えてモネの2人の子どもを育てました。ヴェトゥイユで過ごした時期はモネの芸術と生活にとって転換期となります。妻のカミーユの死を乗り越え、モネはアリスとの関係を徐々に深めていきました。

アリスと過ごす明るい生活は、1881年の不朽の名作「ヴェトゥイユのモネの庭」にも見出すことができます。太陽の光を浴びたヒマワリがキラキラと輝いています。

当時、モネがアリス宛に送った手紙には、モネとアリスとの親密な関係を明らかにしています。

  「僕があなたを愛していて、あなたなしでは生きていけないことを
しっかりと覚えていてください。」(1883年)
 「僕の心は、いつもジヴェルニーにあります。
あなたは、子どもたちと共に僕の人生の全てです。」(1884年)

 

精神的に落ち着いた生活の中、モネは「連作」という手法を見出し、より自由で自分らしい描き方を手に入れました。モネは、1891年で開かれた個展に連作「積み藁」を出品し、大成功を収めます。そしてエルネスト・オシュデの死後、1892年にモネとアリスは正式に再婚しました。

儚くも光に満ちたモネの恋はいかがでしたか。また、アーティストの恋を水彩画とともにお届けしたいと思います。

 

水彩画・撮影・文 =堀 有希子
磁器=根本 幸一(https://ivorycastle.wixsite.com/ivorycastle

〈参考文献〉
安井裕雄 『もっと知りたいモネー生涯と作品(アートビギナーズ・コレクション)』2010,東京美術.
シルヴィ パタン『「知の再発見」 モネー印象派の誕生』1997,創元社.

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