23年ぶりに国宝・百済観音が東京公開 特別展『法隆寺金堂壁画と百済観音』報道発表会レポート
法隆寺金堂壁画(摸本) 第1号壁 釈迦浄土図 桜井香雲摸 明治17年(1884)頃 東京国立博物館蔵 前期(3/13~4/12)展示
※展覧会の中止が決定しました。前売券の払い戻しなど詳細は展覧会公式サイトをご確認ください
日本ではじめて世界遺産に登録された法隆寺。今から約1300年前の飛鳥時代に金堂に描かれた壁画は、戦後の火災によって大半が焼損した。しかし、日本画家達によって描かれた模写や写真などの記録から、当時の姿をうかがい知ることができる。
国宝 法隆寺金堂と五重塔 写真飛鳥園
来春より(2020年3月13日〜5月10日)東京国立博物館にて開催が決定した『特別展 法隆寺金堂壁画と百済観音』では、焼損後に再現された現在の金堂壁画や、国宝・百済観音をはじめとする金堂ゆかりの諸像を紹介。江戸時代から昭和にかけて制作された、金堂壁画の貴重な模本も併せて出品される。
国宝 観音菩薩立像(百済観音) 飛鳥時代・7世紀 法隆寺蔵 通期 写真飛鳥園
1949年1月26日に法隆寺金堂で起きた火災をきっかけに、国内では1950年に文化財保護法が成立。1月26日は文化財防災デーに制定された。東京国立博物館副館長の井上洋一氏は、「法隆寺金堂の被害は、多くの文化財を未来に伝えるための活動へと、日本人を突き動かした大きな転換点となった」と文化財保護活動の大切さを強調した。法隆寺執事長の古谷正覚氏は、23年ぶりに東京で公開される百済観音について「昨今の世の中は、不幸な出来事が度々起こっている。お経の中には、観音さまを拝むとすべての事柄をお救いくださるということが書かれている。どうか、観音さまの力で世の中を平和にしていただきたい」と思いを語った。
本展では、壁画に魅せられた人々の物語や、最先端技術を用いた文化財保護活動の記録にも目を向ける。9月24日に催された報道発表会より、展覧会の見どころをお伝えしよう。
焼損前の金堂壁画を忠実に写した模本から、焼損後の再現壁画まで
法隆寺金堂壁画は、釈迦浄土図や阿弥陀浄土図など、仏の群像を描いた大壁4枚と、単独で菩薩像を描いた小壁8枚の、全12面から成る壁画群。どれも縦3メートルほどの巨大絵画であり、東南の大壁から時計回りに、1〜12までの番号がふられている。
現在、焼損した金堂壁画の原本は土壁ごと取り外されて、境内の収蔵庫に納められている。本展では、江戸から昭和にかけて描かれた貴重な模本を通じて、仏の表情や彩色など、かつての姿を読み取ることができる。
日本で最初に金堂壁画全12面の原寸大模写をおこなったのは、明治時代の画工・桜井香雲(こううん)。東京国立博物館 保存修復室長の瀬谷愛氏は、「焼ける前の金堂の姿を伝える、最古の模写として大変貴重なもの」と紹介した。特に、火災の際の消火活動によって、阿弥陀如来の顔が損壊した第6号壁の《阿弥陀浄土図》は、桜井の模写が貴重な記録となっている。
法隆寺金堂壁画(摸本) 第6号壁 阿弥陀浄土図 桜井香雲摸 明治17年(1884)頃 東京国立博物館蔵 後期(4/14~5/10)展示
日本画家の鈴木空如(くうにょ)は、桜井が一人で壁画12面を写したという画業に感銘を受け、大正から昭和期にかけて金堂壁画の模写をおこなった。売り絵を一切描かず、仏画のみで生計を立てていた鈴木は、生涯のうちに一人で全12面の壁画を3回模写したそうだ。
法隆寺金堂壁画(摸本) 第10号壁 鈴木空如摸 大正11年(1922) 大仙市蔵 前期(3/13~4/12)展示
現在、金堂の中に展示されている壁画は「再現壁画」と呼ばれ、これらは焼損前の壁画を知る前田青邨(せいそん)ら日本画家たちによって描かれたもの。明治・大正・昭和の各時代に描かれた優れた模写や、火災後に再現された現在の壁画の展示から、金堂壁画が誇った崇高な姿が浮かび上がる。
法隆寺金堂壁画(再現壁画) 第12号壁 十一面観音菩薩像 前田青邨ほか筆 昭和43年(1968) 法隆寺蔵 後期(4/14~5/10)展示 写真便利堂
国宝百済観音をはじめ、金堂ゆかりの諸像も公開
1997年にルーブル美術館で公開され、その後は法隆寺の外に出ることがなかった国宝「観音菩薩立像(百済観音)」が、本展で23年ぶりに東京で公開される。百済観音は、かつて金堂内に安置されていた仏さま。百済観音と法隆寺の由縁について、法隆寺執事長の古谷氏は以下のように説明した。
国宝 観音菩薩立像(百済観音)(部分) 飛鳥時代・7世紀 法隆寺蔵 通期 写真飛鳥園
「百済観音が法隆寺にいつ伝わったのか、はっきりしていない。江戸時代の記録にはじめて『虚空蔵菩薩』という名前で確認できる。その記録に『百済国より渡来した』との記述もあった。明治時代になってから法隆寺の土蔵より宝冠が見つかり、観音菩薩であることがわかった(阿弥陀如来の化仏がついている宝冠をかぶっているのが、観音菩薩の特徴であるため)。その後、和辻哲郎氏が著した『古寺巡礼』の中で百済観音という名前で紹介され、一般的にその名で親しまれるようになった」
高さ約2メートルのすらりと伸びた体躯や、柔和な表情、水瓶をつまむ指の美しさなど、展示室では360度の角度からじっくり拝見できるとのこと。
国宝 観音菩薩立像(百済観音)(部分) 飛鳥時代・7世紀 法隆寺蔵 通期 写真飛鳥園
さらに、国家安泰や人々の幸せを祈る修正会(しゅしょうえ)の御本尊である、国宝「毘沙門天立像」と国宝「吉祥天立像」も同時に展示される。
国宝 毘沙門天立像 平安時代・承暦2年(1078) 法隆寺蔵 通期 画像提供;奈良国立博物館(撮影:森村欣司)
国宝 吉祥天立像 平安時代・承暦2年(1078) 法隆寺蔵 通期 画像提供;奈良国立博物館(撮影:森村欣司)
瀬谷氏は、「どちらも平安時代に造立され、当時の彩色が非常に美しく残っている」とコメント。百済観音と合わせて楽しみたい。
昭和から令和に続く、文化財保護活動の記録
1949年の金堂火災より以前、法隆寺では昭和の大修理が行われてきた。その間に、京都の印刷会社・便利堂が壁画の写真撮影を行い、1939年には壁画を保存するための調査会「法隆寺壁画保存調査会」が設置された。この頃から、日本画家たちがチームを編成し、金堂壁画の模写を開始。その後、戦争激化によって模写は一時中断されたものの、終戦後に活動を再開する。金堂火災は、法隆寺全体の建築物や、壁画等の修理を行なっている最中に起きた出来事だったという。
1949年 焼けた金堂壁画に合掌する佐伯定胤・法隆寺貫主
火災の翌年にあたる1950年に、文化財保護法が制定される。5年後には金堂が修理されて落成するなど、非常に早い期間で金堂の再建が成し遂げられた。
法隆寺金堂壁画(複製) 第3号壁 観音菩薩像 便利堂制作 明治12年(1937) 安田一氏寄贈・東京国立博物館蔵 後期(4/14~5/10)展示
瀬谷氏は、焼損後の壁画の扱いについて、「合成樹脂や鉄枠で補強する処置は、戦前から行われていた保存調査委員会の調査を活かしている。ヨーロッパの技術を取り込んだ保存処置に関する調査が進んでいたからこそ、火災後の処置も速やかにできた」と解説。本展覧会では、焼損壁画の保存や将来的な一般公開を見込んだ、最先端の文化財保護活動の記録も紹介される。
模写は創造の基礎であり、大切な画法のひとつ
金堂壁画の模写の歴史は江戸時代までさかのぼる。なかでも、明治時代にイギリスの外交官アーネスト・サトウが画工に依頼し、母国に持ち帰った第9号壁の模写は、「日本でも金堂壁画を資料として残すことが重要であるという動きが出てくるきっかけになった」と瀬谷氏は説明する。
作者や発注者が、それぞれの立場で模写を行い、文化財保護に働きかけてきた歴史をふまえて、瀬谷氏は「模写は創造の基礎であり、大切な画法のひとつである」と語る。報道発表会の最後には、中国の最も古い画論書『古画品録』の中で、模写が6つの大切な画法のうちの1つであることが言及されていると紹介した。
さまざまな時代につくられた金堂壁画の模写や、金堂ゆかりの仏像を通して、かつての荘厳な姿を感じ取れる機会に、ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。