菊五郎のお婆さん、白鸚の甚五郎、芝翫の弁慶、 猿之助の日蓮も登場! 仁左衛門と玉三郎の奇跡の桜姫が大団円へ~歌舞伎座『六月大歌舞伎』観劇レポート
『六月大歌舞伎』
2021年6月3日(木)、東京・歌舞伎座で『六月大歌舞伎』が開幕した。千穐楽は28日(月)。第一部は尾上菊五郎、中村芝翫、続く第二部では片岡仁左衛門と坂東玉三郎、さらに第三部では松本白鸚、市川猿之助らが出演し、「大歌舞伎」と呼ぶにふさわしいバラエティに富んだ演目が並ぶ本公演をレポートする。
■第1部 11時開演
一、御摂勧進帳 加賀国安宅の関の場
「芋洗い勧進帳」の通称で親しまれる本作の主人公は、武蔵坊弁慶(芝翫)。
オープニングから、新庄鈍藤太(中村松江)や出羽運藤太(中村吉之丞) の掛け合いが楽しく、歌舞伎十八番『勧進帳』とは明らかに世界観が違う。
兄の頼朝に命を狙われる源義経(中村雀右衛門)は、忠臣の四天王(大谷桂三、中村歌昇、市川男寅、中村歌之助)、そして弁慶を伴い、都から逃げている。山伏に変装した一行は、安宅の関を突破しようとするが、関守に呼び止められてしまう。義経、大ピンチ! そこへようやく弁慶が追いつくのだった。
花道からドカドカ登場する弁慶は、歌舞伎十八番ver.の弁慶の品のある装いと思慮深いキャラクターと、まるでちがう。緋色の衣(ベスト?)に毬栗鬘。足元は金色の鋲(スタッズ?)が入った緋色の履物(レギンス?)というド派手な出で立ち。関所で呼び止められるのもいたし方ない。勧進帳こそ読み上げるが、今回の弁慶は(主君への申し訳なさとは別の理由で)わんわん泣いたり、暴れたり。クライマックスには巨大な天水桶の上に立ち、桶の中の番卒たちの生首を金綱杖でゴロゴロかき混ぜる“芋洗い”を披露する。
興味深いのは、『芋洗い勧進帳』が、歌舞伎十八番の『勧進帳』よりも歴史が長いところだ。決して歌舞伎十八番のパロディではない。現代劇で再現したら物騒&シュールすぎる“芋洗い”が、大らかな荒事のハイライトとして成立するところに、歌舞伎の懐の深さを感じる。観ている側は、縁起の良いものを観た気持ちにさえなる。それもそのはず。江戸時代、疱瘡(天然痘)のことを「芋」と呼び、緋色には疱瘡除けの力があると信じられていた。芋を洗う本作には、疫病退散の願いが込められている。芝翫の弁慶による豪快な芋洗いに、大きな拍手が贈られた。
二、夕顔棚
2演目は、大らかな時代物から一転、清元の舞踊『夕顔棚』が上演される。菊五郎がお婆さん役を、市川左團次がお爺さん役を勤める。お風呂上がりの2人が、庭先で夕涼みをする。軒先には夕顔が咲き、空には白い月がぼんやりと浮かぶ。そこへ、花燈籠を頭に掲げた里の男(坂東巳之助)と里の女(中村米吉)が、お揃いの浴衣で手をとりあって訪ねてくる。盆踊りへの誘いだ。瑞々しく愛らしい若い2人に、爺と婆は、昔の自分たちを重ねてみるのだった……。
爺と婆がお互いに向ける眼差しが優しい。蚊を追い払ったり入れ歯を探すなど、笑いと生活感のある要素もある中で、印象に残るのは、淡い幻想的な美しさだ。菊五郎と左團次が創る穏やかで幸せな景色に、ひととき心を遊ばせてほしい。
■第2部 14時10分開演
桜姫東文章 下の巻
4月、仁左衛門と玉三郎による『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』が、36年ぶりとなる奇跡の再演を果たした。その後編が、「下の巻」として第二部で上演されている。「上の巻」では、高僧の清玄(仁左衛門)が、吉田家の息女・桜姫(玉三郎)を、元恋人の稚児・白菊丸(玉三郎)の生まれ変わりであると信じ、桜姫のために破戒僧となる。堕ちた清玄が、桜姫と権助(仁左衛門)の間に生まれた赤子を抱き、桜姫を恋しがる哀れな姿が、目に耳に残る中での「下の巻」だ。
清玄は、ますますボロボロになり、ほの暗い地蔵堂の草庵で、かつての弟子・残月(中村歌六)と、かつての吉田家の局・長浦(上村吉弥)の世話になっている。しかし長浦と残月は、青トカゲの毒で清玄を殺そうとする。揉み合いの末、清玄は殺されてしまう。そこへ折よく権助が訪ねてきて、墓穴を掘る。さらに折よく桜姫が、かどわかされて連れられてくる。偶然が続き、清玄は落雷で奇跡的に息を吹き返す。ついに桜姫と再会するも、思いが叶わないと知った清玄は、出刃包丁を持ち出して……。
清玄は、思いが強いばっかりに、踏んだり蹴ったりの目に遭っている。今生に執着したばっかりに心中に失敗し、白菊丸(と重なる桜姫)に執着があったばっかりに破戒僧となり、桜姫への思いが切れなかったばっかりに落命する。抜群の執着心の賜物だろうか、清玄の声は、今も異様に耳に残っている。
一方、権助は混じりっけなしの悪さとワイルドな格好良さで、今月も客席を震撼させる。穴を掘る姿さえ美しい。夫婦になった桜姫を、ライトなノリで女郎屋に預けるサイコパスぶりも発揮する。そんな権助を、なぜか恋慕う桜姫は、時には戸惑いをみせつつも、常に軽やか。悲壮感のなさが、可憐さを愛嬌にする。姫から遊女へ、そしてまた姫へ。唯一の軸と思われた権助への恋心さえ、切り捨てていく姿は清々しい。4月、6月ともにすぐさま完売となった公演だ。次は36年後と言わず、またすぐにでも再演してほしい。
■第3部 18時開演
一、銘作左小刀 京人形
『京人形』は、彫り物職人の左甚五郎(白鸚)が主人公のごきげんな舞踊劇だ。甚五郎は、日光東照宮の「眠り猫」の作者として知られる江戸時代初期の伝説の名匠。京の廓で小車太夫に一目惚れし、太夫そっくりの人形(市川染五郎)を等身大で彫り上げる。女房おとく(市川高麗蔵)に“仲居役”をお願いし、自身は“御大尽気分”で人形を相手に酒を飲みはじめる。すると人形が動き始め……。
白鸚の甚五郎は、観ているこちらまでニヤついてしまうほど嬉しそう。それほど惚れ込むとは、どれほど素敵な太夫だろうか。いよいよ染五郎の京人形が箱から姿を現すと、端正な美しさに、マスクの中でため息がもれたのは1人や2人ではないはず。カクカクとした可笑しみある人形振りは、見た目の美しさとのギャップで笑いを誘う。人形に太夫の魂が宿ると、人形っぽさを絶妙に残した女方の振りが楽しませた。白鸚は、染五郎、そして大谷廣太郎の奴照平、中村玉太郎の井筒姫といったフレッシュなキャストを、深く大きな芸でエレガントに包み込む。京人形をしまい、井筒姫を逃がしてからは、白鸚の独壇場だ。大工たちを相手にユニークな立廻りをする甚五郎は、そこまでの何倍もスケールアップしてみえた。
二、日蓮ー愛を知る鬼(ひと)ー
最後の演目は、横内謙介の構成・脚本・演出、猿之助が演出・主演の『日蓮 ー愛を知る鬼(ひと)ー』。「日蓮聖人降誕八百年記念」として企画されたもので、主人公は日蓮聖人。ただし本作が描くのは、日蓮がその名前で日蓮宗を開くより前の、蓮長と名のっていた頃のことだ。
時は、鎌倉時代。戦乱や天災、疫病の流行、蒙古襲来などの苦難が人々を苦しめていた。舞台となるのは、天台宗の開祖・最澄が建てた比叡山延暦寺だ。蓮長は、他の修行僧たちと折り合いが悪くなっていた。その一因は、蓮長の思いの強さにあるらしい。蓮長は修行を積むうちに、釈迦の教えとしてたくさんの経典がある中で「法華経だけが唯一の尊い経典だ」という結論に至る。これを強く主張するあまり、法華経以外に対して否定的な態度をとっていたのだ。
猿之助は、5月に行われた会見で「日蓮さんはスーパースター。良くも悪くも色がある」と、本作のテーマの扱いの難しさについて言及していた。劇中では、蓮長の思想を描くことから一歩も逃げることなく、ひとりの人間である蓮長の葛藤と、そこから見いだす希望を描く。そして蓮長の激しい気性と表裏一体の、深い愛に光があたりはじめる。
これを支えるのが、澤瀉屋一門の俳優陣だ。市川猿弥、市川笑也、市川寿猿、市川弘太郎、市川右近たちが安定感抜群の芝居で、横内と猿之助のイメージする物語にレールを敷く。市川笑三郎の賤女おどろが起爆剤となり、突き抜けた先で、市川門之助の最澄が光をみせ、中村隼人が清廉な成弁で、華を添えていた。猿之助は、台詞に緩急をつけながらギアを上げ、ラストには圧倒的な存在感でカタルシスを生む。清らかで眩しくてあたたかい衝撃が、歌舞伎座を満たした。
本水や宙乗りといったケレンこそないが、現代的な音楽や、踊り、そして時代を超えて人間に向けられる愛はスーパー歌舞伎に通じるものを感じさせる。万雷の拍手の中で終演した。
名優がそろい、スーパースターが続々と登場する『六月大歌舞伎』は、東京・歌舞伎座で28日(月)までの上演。
取材・文=塚田史香
※公演が終了しましたので舞台写真の掲載を取り下げました。
公演情報
判人勘六:嵐橘三郎
―愛を知る鬼(ひと)―
麒麟坊:市川弘太郎