ピアニスト角野隼斗が教えてくれた自由の風、そして前進し続ける勇気
角野隼斗 ©Photo_ogata
20世紀の音楽界に君臨し、“デューク(公爵)”と呼ばれたジャズ奏者はかつて、こんな言葉を残した。「音楽にジャンルはない。グッドミュージック、バッドミュージック、それだけ」。いま、角野隼斗ほどこの言葉を体現するアーティストがいるだろうか。
2018年、国内最大級のピアノコンクールである「ピティナ・ピアノコンペティション」優勝後、ピアニストとして活躍する一方で、東京大学情報理工学系研究科を卒業。フランス音響音楽研究所 (IRCAM) で自動採譜の研究に従事するなど、工学研究者としての顔も併せ持つ角野。Cateen名義で展開するYouTubeチャンネルでは、ジャズ、ポップス、アニメ・ゲーム音楽なども自在に奏で、登録者数77万人を誇る。クラシックで確かな位置を築きながら、ここまで多彩かつ本格的に活動の幅を広げ、それぞれの第一人者から愛されるピアニストには出会ったことがない。
そんな角野が7月、「ショパン国際ピアノコンクール」へ向けワルシャワへと飛び立った。誰もが注目する、五年に一度の晴れ舞台。新たなステージに、彼はなにを求めたのだろう。未来に思いを馳せながら、6月に出会った2つのコンサートを振り返る。
■HAYATO SUMINO@ブルーノート東京(2021.6.6-7)
Photo ogata
東京・南青山。骨董通りの奥に鎮座するジャズの聖地。Today's showの看板には、しっかりHAYATO SUMINOの文字。1988年のオープン以来、ニューヨークの本店同様、日本の音楽シーンを彩ってきたジャズクラブのステージに、角野隼斗は立っていた。
海外アーティストの渡航が制限される中、ブルーノート東京は「Blue Note meets Classic」というシリーズも開催している。しかし、角野はあくまで「ピアニスト、角野隼斗」。ジャンルを超越した角野の魅力を、ブルーノート東京はわかっている。彼の音楽に感じる圧倒的な「自由の風」を、ここなら存分に味わえるだろう。ついにその時が来たのだ――。青い照明が差し込む舞台を見つめる観客たちの熱気が、期待を高めていく。
割れるような拍手とともに角野が現れ、まろびでるように最初の一音を奏でた。1曲目の〈HUMAN UNIVERSE〉。バロック風の旋律からはじまるオリジナル曲だ。スポットライトに照らされた角野が紡ぎだす音は次第に熱を帯び、会場をグルーヴが包み込む。照明が、音楽に同期しリズムを刻む。「これがブルーノート東京!」と興奮に叩き込むオープニングだった。
2曲目は、そのままバッハの〈インヴェンション〉へ。シンセサイザーを駆使して古典を再生したあとは、3曲目〈We Will Rock You〉で、ピアノと同時にスピーカーのような打楽器カホンを打ち鳴らす。4曲目は〈Frog Swings〉。カエルの歌を元にしたというオリジナル曲では、カホンによるドラムソロも披露。その表情のなんと楽しそうなことか。本気で音楽と戯れる彼を見つめながら、体が揺れるの(Rock)を止められなくなる。
5曲目〈愛の夢〉は、フランツ・リストの名曲のジャズ・アレンジ。アルバム『HAYATOSM』収録の人気曲だ。ショパンと同時代の華麗なヴィルトゥオーゾの、ともすると過剰になりがちな音を「間引く」という発想の裏には、緻密な楽譜研究の痕跡が垣間見える。
ルーパーが登場した6曲目〈ココドコ〉は、スタイリッシュなエレクトロニカ。7曲目〈猫ふんじゃった〉や8曲目〈One Minute Hourglass〉では、演奏をメモリーし自動演奏できるスタインウェイのピアノ「SPIRIO」を使用し、“ふたりの角野隼斗”によるデュオを披露した。指を鳴らして最後の一音を操る姿は、まるでマジシャンだ。
9曲目〈Spain〉は、今年2月に逝去したチック・コリアの名曲。ルーパーとSPIRIOを総動員し、バンドのような熱演を繰り広げる。クラシック同様に愛してきたジャズへの愛を捧げたあとで、角野は語りだした。「クラシックの演奏家になりたいわけじゃない。唯一無二の音楽を作りたいと模索している中で、メンターのような存在になってくれた人がいます。今日、ここにいらっしゃいます。小曽根真さん!」
客席にいた小曽根を紹介し、なんと飛び入りゲストとして招待したのだ。10曲目〈Gotta Be Happy〉は、作曲した小曽根本人とのセッション。冒頭のインプロビゼーションでは、「こいよ」と煽っては躱し「どうだ」と攻める駆け引きも。ドンピシャの音が鳴ると、ふたり破顔する。なんてドラマティック。”音楽”を信じる男たちの音の殴り合いがあまりにも楽しそうで、悔しいほどで、思わず涙がこぼれた。
そして最終曲〈Rhapsody in Blue〉へ。オーケストラとの共演も多いガーシュインの名曲を、ひとりピアノで再現する角野。それまでの彼の演奏の中で、最もグルーヴィーで、情熱的な音楽だった。セッションのあとの興奮の残り火がはじけたのかもしれなかった。
圧倒されるしかない。このようにして角野隼斗は人と出会い、音楽を消化し、急速に進化してきたのだ。
■ALL CHOPIN PROGRAM@KIOI HALL(8810 HAYATO SUMINO OFFICIAL FANCLUB)
Photo ogata
2週間後、ショパンコンクールの予行演習としてコンサートを開くと聴き、急ぎ紀尾井町へと向かった。オールショパンプログラム。通いなれたクラシックホールの見慣れた照明と、静寂。ステージに登場した角野は、先日とは別人のように凛としている。もちろんMCはない。
ピアノに向かい、長い沈思のあとで紡がれていく1曲目〈マズルカ 作品24〉。ショパンが生前、失われた故郷ポーランドを想い書き続けた舞曲は、コンクールで重要視される。ステージも、客席も、どことなく緊張している。つづいてエチュードから2曲。有名な〈木枯らし〉も含む超絶技巧が披露される。
ふいにチャンネルが変わったのは、4曲目〈ピアノソナタ第2番〉のときだった。陰鬱な序奏から、ほの昏い情熱がほとばしる本編へ。第3楽章、葬送行進曲の深い残響を奏でる角野は、完全にゾーンに入っているようだった。5曲目〈スケルツォ第3番〉も鬼気迫り、ゾクゾクと鳥肌が立つ感覚がつづいた。彼の音楽が放つこの凄味を、ポーランドの人々に聴いてほしいと心から思った。
休憩中、評論家たちの「すごい若手が出てきましたね」という会話にほくそ笑みながら後半へ。6曲目は〈マズルカ風ロンド〉――のはずが、これまでのクラシックとはまったく違う響き。思わずプログラムを二度見した。あえかな音は重なりあい、やがて〈ノクターン第2番〉のメロディを形づくっていく。
弾き終わった角野は、おもむろに立ち上がって語りだす。「前半はシリアスなショパンでした。ここからはリラックスしたショパンを楽しんでください」。試演につき合ってくれた聴衆への恩返しなのだろうか。〈バラード第2番〉〈ポロネーズ第6番「英雄」〉と大曲が続くなかにもたっぷりのグルーヴがあふれ、会場は歓びに包まれていく。
クラシックとジャズ。静かに集中している孤独な背中と、はじけるような笑顔。どちらもが角野の自然体であり、裏も表もないのだ。
その夜、角野が語った「巨人の肩の上に乗る」という言葉が忘れられない。先人たちが積み重ねてきた学問や技術があってこそ現在がある、ということのたとえで、科学者ニュートンが用いて有名になった一節だ。
ショパンやリストのような、200年前のコンポーザー・ピアニストたち。小曽根真のような、現在進行形で彼に影響を与え続ける先達たち。彼らに対するまっすぐなリスペクトと、そこに到達するための血を吐くような努力、そして、新しいステージや振りかざされる常識にひるまない勇気。それこそ角野を支えている強さだと確信する。
「彼は虚勢を見せない」という小曽根真の言葉を思い出す。「あんなに頭がいいのに、わからないときはわからないって言っちゃう。僕ね、わからないって言える人が大好きなんです。カッコつけないでそれを言うことで、一歩でも前に進もう、進もうとすることにつながるから。できないって認められる人間は強いです」
角野隼斗は強い。そして絶対に進化を止めない。世界のトップピアニストが集うコンクールでなにを見つけ、なにを得て帰還するのか、楽しみでならない。
取材・文=高野麻衣
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