ピアニスト・角野隼斗は何をなし得たか~単独ツアーの最終地・東京国際フォーラム公演を振り返る

レポート
クラシック
2022.4.16
@Hamburg @ogata_photo

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 2022年1月より、全国9カ所を巡る単独ツアーを行なった角野隼斗。東京国際フォーラムのホールA にて、2月20日に最終公演を行ったことは記憶に新しい。ツアー終了後、角野はパリ、パルセロナ、ハンブルク、ニューヨークと世界を駆け巡り、コンサートや音楽家との交流を通じて、刺激的な日々を送っている。

 もはやコンサートからは月日が経過し、すでに数々のメディアから公演の流れを詳細に伝えるレポートが出ている。よって、本稿ではあらためて2月ツアーの最終公演の筋書きを追うことはやめておこう。それよりも、角野隼斗がこの「ホールA」でなし得たことの音楽文化的な意義に思いを馳せながら、今後も角野隼斗という音楽家の動きに着目していく上で、今一度あらためて強調しておきたいポイントを振り返っておきたい。

 東京有楽町にある東京国際フォーラムはその名の通り、数々の国際的なイベントが催される施設である。複数あるホールの中でも、ホールAは客席数約5000席の最大規模の空間だ。クラシック音楽との関わりで言えば、日本では16年間におよび開催されてきたラ・フォル・ジュルネ音楽際のメイン会場として使用され、過去にはイーヴォ・ポゴレリッチやマルタ・アルゲリッチといった伝説的なプレイヤーたちも熱演を繰り広げてきた。

 巨大ホールだけに、ここでピアノ1台のソロ公演というのはほとんど行なわれない。筆者も今回の角野公演で初めて体験したと思う。後半にはオーケストラとの協奏曲が控えているが、前半の独奏では、角野がこの大きな空間でどう聴衆とのコミュニケーションを図ってくれるのか楽しみであった。

 角野が冒頭に演奏したのは、ショパンのワルツ第1番「華麗なる大演舞曲」だ。音色変化を豊かに付け、テンポの揺れはセンス良く、華やかでエレガントな演奏。繊細なコントロールを効かせ、弱音も躊躇わずに繰り出した。このあまりに大きなホールで、弱音表現を多用することは、実は極めて果敢な姿勢と言える。一瞬でも「自分の音は後方まで届いているだろうか」という不安がよぎれば、文脈と切り離された強いタッチや、不本意なダイナミクスを繰り出してしまうリスクがあるからだ。しかし、角野は無駄な力を一切かけず、伸び伸びと“攻めた弱音”も扱いながら、「自分の音楽」を表現した。音価(音符の長さ)に見合った質量を持たせ、声部やハーモニーの性格を浮き立たせる角野の表現力は、とにかく鮮やかで楽しい。

 ここで鍵となるのは、高度な音響技術への信頼感だ。立体的な音楽表現を殺すことのない、自然な音響的増幅を施す技術者に、角野は委ねるべきところ委ね、自分の音楽に集中した。ごく自然にテクノロジーを味方につけることができるのは、日頃からアコースティックと電子音響の領域を自在に泳ぐ角野ならではの強みかもしれない。冒頭から、まずそのことに驚きと感動を覚えた。ショパンのマズルカop.24-2、エチュード「木枯らし」でも、微細なコントロールを随所に効かせた演奏をホールAで堂々と展開し、ワルシャワのショパン・コンクールでの演奏を彷彿とさせるものがあった。

 本公演の中でも、おそらく多くの聴衆の心に深く刻まれたのは、「追憶」という作品のパフォーマンスではないだろうか。舞台中央のグランドピアノから離れた角野は、後半のために並べられたオーケストラ用の椅子を通り過ぎ、ステージの下手後方へと歩いていった。そこで彼を迎えたのは、温かな光を放つルームスタンドと、小さなアップライトピアノであった。

 そこからは、5000人が新感覚のステージを味わうことになった。角野がそのアップライトピアノでショパンのバラード第2番冒頭のモチーフを弾き始めた瞬間、空間が幻想的に収縮するかのようだった。巨大なホールAが「小さな部屋」と化したのだ。もはやステージと客席は、親密で居心地のいい、心の安らぐリビングのようである。上前板を取り外したアップライトからは、ハンマーに貼られた羊毛フェルトの質感を伝える柔らかで温かい響きが繰り出される。一部内部奏法も取り入れながら、照明効果による光と影のコントラストの中で(19世紀はオイルランプやキャンドルの灯りに彩られ、このような色彩感の中でショパンは音楽を奏でたのではないか)、奏でられるショパンへのオマージュ。なんという哀愁、なんという優しさ。わたしたちは初めての経験をしているはずなのに、とても懐かしい。

 「追憶」は、ショパンのモチーフを断片的にコラージュさせながら、角野自身によるハーモニーやパッセージを絡み合わせて展開していく内容で、個人的で、内省的で、フラジャイルな空気感を纏う作品だ。角野のショパンに対する個人的な記憶はしかし、表現として突き詰められることによって、逆説的に普遍的な様相を帯びる。つまり聴き手も、それぞれが経験してきた個人的なショパンの記憶をくすぐられ、どこか懐かしく感じたり、安堵を覚えたりするのだ。その効果を大きくもたらす表現手段として、角野はアップライトピアノの音色を選び、そしてそれを「そばで」聴いている感覚を与えてくれる音響技術を取り入れたのだ。それを、生演奏で、しかも巨大空間で行ったことに、大きな意義がある。

 多様な音楽様式に精通する角野ならば、20世紀末から聞かれるようになった「リコンポーズド」や、2000年代半ばから注目されるようになった「ポスト・クラシカル」と呼ばれる音楽ムーヴメントにも、着目してきたはずだ。アップライトピアノと音響機器の活用(マイクのセッティングや増幅効果をクリエイティヴに活かす)等による近年の創造行為は、ひとつの潮流となって久しいが、このように、5000席を誇る巨大ホールでのライヴ公演によって、ここまで効果を上げた試みは、まだあまり例を見ないのではないだろうか。この一点においても、角野がこのツアーファイナルで東京国際フォーラムのホールAを使用したことの意義は一段深いものになったと思う。

 前半の締めくくりは、ショパンのソナタ第2番である。一転して、真っ白な照明の光り輝く大きなコンサートホールへと戻った。誠実に構築されていくソナタが実に美しい。大きな空間に音が放たれ拡散していく状況にも関わらず、角野はやはり自分の音楽を丁寧に形成していく。巨大ホールでの祝祭的なコンサートであることは重々わかってはいたが、正直もったいない気持ちにもなった。つまり、小ホールのアコースティックな響きだけで、じっくりと鑑賞したくなるクオリティでもあるのだ。そうした複雑な思いを味わうことができたのも筆者にとっては初めてのことで、角野隼斗はやはり新しい音楽経験をもたらしてくれるアーティストだと思った。

 後半に披露したガーシュウィンのピアノ協奏曲へ調(藤岡幸夫指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)では、オーケストラとピアノとが一体となり、ビックバンド風の輝きを見せながら、大きなうねりを生むアンサンブルが見事だった。第2楽章では鍵盤ハーモニカも使用して、木管とのアンサンブルを洒脱に聞かせたり、第3楽章のカデンツァではガーシュウィンの他作品のモチーフも忍ばせたりと、角野にしかできないユニークで楽しさ溢れる演奏となったことも言及しておこう。

 この東京国際フォーラムの公演で、あらゆる意味で「レンジの広い」アーティストであることを、改めて感じさせてくれた角野隼斗。巨大ホールだから巨大な音を出すのではなく、また単に通常のクラシック音楽コンサート的なアコースティック風の音響を増幅・再現するのでもなかった。音響テクノロジーを表現行為として創造的に取り入れ、リアルに時空間を共有する5000人の聴き手を複雑な音楽体験へと導いた、記念的で意義深いステージを成功させたのである。

 冒頭で触れたように、角野はツアー終了後、文字通り世界を駆け回っている。そうした中で、NHKのニュース番組「サタデーウオッチ9」の番組音楽担当が決まり、4月下旬からは「sings ジブリ」コンサートのツアーも始まる。また、4月末には「JAZZ AUDITORIA ONLINE 2022」の豪華ゲスト陣の一人として出演し、6月の日比谷音楽祭にも登場だ。

 多様なステージが待ち受ける中で、9月に来日するポーランド国立放送交響楽団のツアーで、彼らと共に全国11ヶ所を巡り、ショパンのピアノ協奏曲第1番の独奏を務めることにも決まった。ワルシャワの風を感じさせてくれるであろう、角野とオーケストラとのコラボレーションが今からとても楽しみだ。

取材・文=飯田有抄

公演情報

ポーランド国立放送交響楽団 来日公演ツアー
 
出演
ポーランド国立放送交響楽団
マリン・オルソップ(指揮)
角野隼斗(ピアノ)
 
演奏予定曲目
バツェヴィチ/序曲
ショパン/ピアノ協奏曲第1番(ピアノ:角野隼斗)
ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」 もしくは ブラームス/交響曲第1番
 
公演日時
2022年9月7日 (水) 埼玉:川口総合文化センター・リリア
2022年9月8日 (木) 東京:サントリーホール
2022年9月10日 (土) 大阪:ザ・シンフォニーホール
2022年9月11日 (日) 静岡:グランシップ
2022年9月12日 (月) 愛知:愛知県芸術劇場
2022年9月13日 (火) 福岡:福岡サンパレス ホテル&ホール
2022年9月14日 (水) 岡山:岡山シンフォニーホール
2022年9月16日 (金) 石川:金沢歌劇座
2022年9月17日 (土) 長野:キッセイ文化ホール
2022年9月18日 (日) 山形:山形テルサ
2022年9月19日 (月) 神奈川:神奈川県民ホール
 
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