Official髭男dism、BE:FIRST、SixTONES、V6、あいみょん等のサポートや楽曲提供を行う宮田’レフティ’リョウ。マルチな活動をしながら挑戦を続けるそのヴィジョンに迫る【インタビュー連載・匠の人】

インタビュー
音楽
2022.10.7
宮田'レフティ'リョウ

宮田'レフティ'リョウ

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音楽プロデューサー、編曲家、作詞家、作曲家、ベーシスト、キーボーディスト、ギタリスト、マニピュレーター……肩書が多岐にわたる宮田’レフティ’リョウは、まさしく音楽のプロフェッショナル=匠の人だ。eill、MISIA、Superfly、sumika、CHEMISTRY、V6、あいみょん、ALI、yama、BE:FIRST、SixTONESなどへの楽曲提供やプロデュース/編曲を手掛け、Official髭男dism、藤巻亮太、柏木由紀等のライブサポートも行っている。海外クリエイターとのコライト、クリエイターズユニオン「REVEL MUSIC」の旗揚げ、アーティストとファンが音源の権利を共同保有できるマーケットプレイス「OIKOS MUSIC」の始動など、新たな挑戦も重ねている彼に活動の軌跡、見据えているビジョンについて語ってもらった。

――最初に触れた楽器は何だったんですか?

小学校の低学年から高学年くらいまでエレクトーンをやっていました。小5くらいからピアノに転向したんですけど、あんまり肌に合わなくて結局やめちゃったので、クラシックはあまり通っていないです。

――その頃の印象深い思い出というと?

僕が通っていた学校がキリスト教系で、教室にオルガンが置いてあったんです。小5、小6くらいの時、流行っている曲をオルガンで弾くと女子にモテるっていうことに気づいてしまい(笑)、オルガンを弾いていると人が寄って来て盛り上がるのが楽しかったですね。

――(笑)最初にバンドを組んだのはいつですか?

中学校2年生くらいの時に学園祭で先輩がGLAYのコピーバンドをやっているのを観て、「これはバンドをやらなければいけない」っていう使命感に駆られて、同じようなことを思っている人たちとバンドを組みました。当時、僕はキーボーディストで、THE YELLOW MONKEY、ザ・ハイロウズのカバーをやっていました。そういうことをしていく内に「キーボードって前に出られないな」って思い、高1くらいの時に部室に置いてあったベースを弾くようになりました。

――「音楽を職業にしたい」という意識はバンドを始めた頃には芽生えていました?

そうですね。小6の時の担任の先生に「宮田くんは将来キーボーディストになるんじゃないかな」って言われたことがあって、それが僕の中にずっと残っていたんです。ベースに転向してからも「音楽を職業にするのかも」っていう朧気な意識がずっとあって、音楽以外の道がイメージできなくなっていたというか。

■何としても曲を供養するのが大事だと思います

――音楽を仕事にする第一歩はバンドでのCDデビューだったようですが、高校在学中だったんですか?

はい。『TEENS' MUSIC FESTIVAL』の関東甲信越大会の決勝まで行ったんです。その時に声をかけてくださった会社からCDデビューすることになりました。高校卒業のタイミングくらいでしたね。

――音楽業界にいろいろなお仕事があることも、その辺りから知るようになったんじゃないですか?

そうですね。当時、agehaspringsの田中ユウスケさんがプロデューサーとしてついてくださって、僕らを見つけてくださったのも田中さんだったんです。田中さんのお仕事を見て初めて「音楽プロデューサー」という仕事を意識するようになりました。レコーディングエンジニアさんとか、様々な音楽の仕事のことを知ったのもその頃です。

――いわゆる「裏方」と呼ばれる職業に興味が芽生えました?

「プロデューサーになりたい」とかまではまだなかったです。やっていたバンドが売れると思っていたので(笑)。でも、バンドの糧になるように様々なことを身につけていくようになりました。当時のエンジニアさんが「メンバーでDTMをやれる人がいた方がいいと思う」って言ってくださって、いろいろ手ほどきを受けてやり始めたのもその頃です。

――バンドでの活動は、何年間くらいだったんでしょうか?

7、8年間でしたね。26歳くらいの頃に活動休止に至り、軽く路頭に迷いながらも興味があったゲーム音楽や映画音楽の制作会社に履歴書を送りました。でも、どこにも引っかからないまま、少しずつ作家業をやり始めました。そういう中で音楽プロデューサーの松岡モトキさんに紹介していただく機会があったんです。松岡さんはご自身ではDTMに触れない方で、編曲のマニピュレーターをいつもつけていたんですけど、ちょうど人を探していらっしゃったんです。そんな頃に僕の曲がコンペで決まったりもしたんですけど。

――コンペに送ってもなかなか採用されないのは、クリエイターのみなさんにとって非常につらい体験だとお聞きしています。

そうですね。でも、僕は初めて出したコンペで通ったんですよ。『テニスの王子様』の主人公の越前リョーマくんの曲(「ありったけの気持ち込めて」)です。当時のバイト先に作曲家やダンサーがたくさんいて、「こういうコンペがあるから出してみたら?」って言われて出したら通ったので、「いけるんじゃない?」と思いました。でも、そこからが大変でしたね。なかなか決まらなくて精神的に擦り減りましたから。僕は最近オンラインサロンをやっていて、駆け出しのライターから相談をもらうことがあるんですけど、決まるのかもわからないことに取り組み続けるってやっぱりきついと思います。

――その大変さに向き合い続けるためには、どうしたら良いと思っていますか?

相談を受けたら、「音楽を作ってるやつが偉くて、選んでる人は何も偉くないっていうマインドを持ってやりなよ。選んでる方が悪いって思うマインドは大事だよ」って言ってます(笑)。あと、何としても曲を供養するのが大事だと思います。僕はコンペに出し始めたのがボカロをやりだしたタイミングだったんですけど、コンペで落ちた曲を供養するためにボーカロイド化してニコ動に上げたらヒットしたっていう話を結構聞きますね。そういう音楽のアウトプットの仕方も考えられると、「コンペ落ちた。ラッキー!」みたいな思考にいくこともできるので、お勧めしたいです。

■ヒゲダンの「Cry Baby」はひとつの発明みたいなもの

――コンペやマニピュレーターとしてのお仕事を重ねながらeillさん、MISIAさん、Superfly、sumika、CHEMISTRY、V6、あいみょんさんとか、様々なアーティストへの楽曲提供、プロデュース、編曲、ライブサポートのお仕事をするようになったんですね。

はい。これは人の繋がりです。ありがたいことですね。松岡さんとケラケラの楽曲をアレンジしている時に知り合ったスタッフさんから「宮田くん、パソコン得意じゃん? 鍵盤弾けるんだからマニピュレーター兼キーボーディストでライブサポートやってよ」っていう話になったのが、サポートのステージデビューです。27、28歳くらいの頃ですけど、それが今のヒゲダンとかに繋がっていきました。

――Official髭男dismとのご縁は、その頃まで遡るんですね。

そうなんです。ケラケラで島根の学園祭に出た時、僕がぶん回して投げたタオルをキャッチするのをメンバーが見て、「ヒゲダンが売れたら宮田さんにサポートキーボードをお願いしたいね」って話をしてくれていたらしいです。当時のヒゲダンはマネージメントと契約する前の段階で、「いいバンドがいるので宮田さんも観に行きませんか?」って誘われてライブを観ました。「めちゃくちゃいいバンドだから契約した方がいいんじゃないですか?」っていう話をしていたら、気づいたらこういうことに(笑)。元々彼らはAORをベースにしたグッドミュージックを作っていましたけど、洋楽的エッセンス、モダンミュージックの作り方をバンドに取り入れてからは、まさに今の僕が作りたい音楽なんです。そういうアーティストに関わることができてすごく嬉しいです。

――ものすごい転調をする「Cry Baby」とか、聴く度に驚かされます。

あれはひとつの発明みたいなものだと思います。僕も初めて聴いた時にびっくりしました。リリースする前からサポートミュージシャンとして楽曲をいろいろ聴かせてもらう機会があるので、「これがリスナーにどう届くんだろう?」って想像できない感じがありました。そういう楽曲が評価されるようになったわけですからね。毎回チャレンジと実験をして今までにないサウンドを形にしているのはかっこいいですよ。ヒゲダンメンバー全員の音楽性の高さは一緒にライブをやりながらも感じています。

■BE:FIRSTの「Betrayal Game」では日高くんのプロデューサーとしてのすごさを感じた

――ヒゲダンとかのサポートのお仕事と並行して、作家としてもご活躍ですが、作詞も手掛けていらっしゃいますね。例えばV6の「It's my life」とか。

これもコンペでした。どちらかというと僕は作詞の人というよりはアレンジメントや音楽プロデュースの人として自認しているんですけど、そういう機会をいただけるのはとてもありがたいことです。歌詞を書くのは作曲やアレンジメントとはまた別の脳を使う感覚があって、それがすごく楽しいんですよ。

――他にも、SixTONESの「Curtain Call」の作曲クレジットは「Mattias Olofsson /Anders Dannvik/Ryo'LEFTY'Miyata」で共作ですが、歌詞と編曲は宮田さんが担当されています。

はい。僕は数年前からスウェーデンでコライトをするようになって、そこでマティアスとアンダースと書いた曲です。先に楽曲が決まって、作詞家を探しているということだったので、「僕にトライさせてください」とお伝えしました。

――楽曲提供に関しては、最近ですとBE:FIRSTの「Betrayal Game」も印象的です。

eillが日高くんとセッションして作ることになって、僕も誘ってくれたんです。僕がメインテーマみたいなベースを弾いて、「それいいね!」みたいなところからすごいスピードで作ったんですけど、最終的にそのスケッチから形にしていく中で、日高(光啓)くんが歌割りとかも含めてメンバーの特色を活かしてくれました。セッションの段階から彼の中でイメージがあったんだと思います。日高くんのプロデューサーとしてのすごさを感じました。

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