Noismの井関佐和子&山田勇気が語る、新体制と金森穣 演出振付による新作『Der Wandererーさすらい人』
■金森穣の新作『Der Wandererーさすらい人』に向けて
『Der Wandererーさすらい人』フライヤー表面
――新体制での第1弾が、先ほど話題になった金森さん演出振付による新作『Der Wandererーさすらい人』です。シューベルトの歌曲を扱い、出演者それぞれにソロが用意されているそうですね。井関さん、山田さんはNoism0として出演します。まず井関さん、国際活動部門芸術監督という立場として、上演の狙いをお聞かせください。
井関:就任前にさかのぼりますが、穣さんはスタジオの小さい空間で創りたいという話をしていました。当初は新作の会場としてりゅーとぴあの劇場を押さえていたのですが、急きょスタジオ公演に変更するために制作に動いてもらいました。今回の作品にはどこかに金森穣の夢や希望みたいなものが込められている気がします。一人ひとりがプロの舞踊家として舞台に立ち、本当に一人で踊る時、お客様とどう向き合えるのか。新潟では11公演あるので自分が成長していく過程も見えますし、穣さんも客席側で観ていて分かると思うんですね。何かが成功した、失敗した、という風な表面的な事柄ではなく、彼らには舞台に立つ人間の儚さや脆さや尊さを感じ取ってもらいたいです。
シューベルトの歌曲に関していえば、穣さんは全編を歌曲でいくことに迷っていました。もっと実験的な音楽との2部構成も良いかもしれないと。しかし私は「全曲歌曲でいいんじゃないですか?」と言いました。今までとは違う立場だからこそ率直に言えることがあります。私は金森穣という芸術家が、彼自身何か制約があるときに突き抜けるのを見てきました。演出振付家が上手くいく方法を見つけるのではなく、危ういギリギリのラインでも本当に創りたいものを創ってもらえる環境にしたいです。今回はそこに関しては、少なくとも国際活動部門芸術監督として振付家の背中を押せたかなと自負しています。
そして穣さんには「必ずしも舞踊家全員を使う必要はないですし、必要のないシーンはカットしてください」とはっきりいっています。「作品が芸術的に優れていて、観ている方々にベストを見せられる状況を作ってください」と。Noismとしては質と作品の芸術性が担保されていることが凄く重要です。私も舞踊家なのでメンバーたちの頑張りや痛みは分かりますが、「みんなのために」というのは、お客様からわざわざお金をいただいてやることではありません。
『DerWanderer-さすらい人』/金森穣インタビュー
――シューベルトの歌曲に関して、たとえばどういう曲を使うのですか?
井関:「野ばら」「魔王」のようなおなじみのものありますし、公演名の「さすらい人」も入っています。曲目はウェブサイトに載せているのでご覧ください。
山田:男声の曲もあれば、女声の曲もある。同じ曲で同じ女性の声でも、重たいものや軽いものもある。リハーサル中に曲を変えてみて「その人の踊りに、この声は合うかな?」みたいなトライもありました。
井関:私のあるシーンでは、もともとソプラノの声でやっていたんです。それをある日のリハーサルであえてテノールに変えてやってみたら、さすがに合わなさ過ぎてスタジオ中から爆笑が起こりました(笑)。
『Der Wandererーさすらい人』リハーサル Photo:Ryu Endo
――11人それぞれに1曲はソロがあるということですよね。それに加えて皆さんがさまざまに絡んだりするのですか?
山田:そうです。ソロをつなげただけではなくて、ソロが大きな要素になってはいますが、あくまでNoismという集団としての作品になっています。その中で、"さすらい人"ですから、”一人でいる“というのが一つテーマだったりします。
井関:あくまでも想像ですが、シューベルト自身がさまざまな人に出会っていった人生という目線で追うと観やすいかもしれません。そこに世界で起こっていることや鎮魂がテーマとしてあります。前半が愛にあふれているのに、後半になると死が近くなっていく。初めての通し稽古を観た浅海侑加(Noism1メンバー、Noism2リハーサル監督)が「人生そのものですね」みたいなことをいいましたが、まさにシューベルトの人生そのもの。観終わった時に感じる人の一生の流れや、誰かに思いを馳せることを感じられると思います。
『Der Wandererーさすらい人』リハーサル Photo:Ryu Endo
『Der Wandererーさすらい人』リハーサル Photo:Ryu Endo
――これだけ歌曲で踊る機会は珍しいですね。
山田:そうかもしれません。それにしても歌で踊るって凄いですね。深いところまで入って共感しないと、音楽と一緒に踊ることができない気がします。声って直接的なんですよね。身体が楽器なので、より感情的な部分に触れていったり、共鳴したり。そういう難しさがあります。
井関:私は最近、結構歌で踊っていることに気が付きました。『夏の名残のバラ』(2019年)や『Near Far Here』(2021年)、『お菊の結婚』(2022年)どれも歌曲です。勇気がいったように、歌曲で踊ると一段と深いところに入っていけるので楽しいです。音楽と舞踊家の次元とはもう一つ違うというか、3人で踊っているみたいな感じなんですね。自分が音楽にのせて気持ちよくなっていく変な感情の繋がりみたいなものを歌が切ってくれる。そして、歌が聴こえてきて一体になりそうな時には音楽がそれを切ってくれる。そのバランスが三角関係でおもしろいんですね。あと声って、強弱が凄いですね!
山田:アナログの極みみたい。
井関:歌っている人の声の太さが変わったりする瞬間が楽しくて、それを身体化できないかなと。舞踊と音楽だけだとBGMになってしまうことがあるんですね。逆に歌が入ると、そちらが主役になってBGMにはならないんですよ。でも、歌の方に持っていかれてしまうので、そうすると舞踊である意味がなくなってくるのがあからさまに見えてしまう。
山田:たしかに歌にのっているときに、ピアノとかが水を差してくるんですよね。リズムのないところに急にリズムが生まれることで、ハッとさせられたり。
井関:シューベルトが普通の作曲家とは違うという意味を、身をもって体験しています。
>(次は)さらなる今後に向けて