《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 9 豊竹芳穂太夫(文楽太夫)
歌舞伎から文楽の道へ
歌舞伎の研修生として2年間の研修に励むこととなった芳穂太夫さん。ここで初めて、文楽というものの存在が身近になる。
「女流義太夫の竹本朝重先生の、義太夫節の授業がありましたし、研修の一環として文楽が東京に来ると舞台稽古を見学させてもらいました。最初はわからず、『伽羅先代萩』の竹の間の段で寝てしまったり……罰当たりですよね(苦笑)。文楽の研修生も東京公演中は同じロッカールームを使うので顔見知りになり、『おはよう』『今回はいつまでいるの?』なんて会話をして、飲みに行くことも。特に仲良くなったのが、同じ時期に研修生になった(文楽三味線弾き・鶴澤)友之助くん。ある時、『歌舞伎の三大名作というのがあって』と教わったばかりのことをドヤ顔で話したら、『それ全部、文楽から始まっているんだよ』と言われ、『え!?』と。それから文楽の新聞記事などが目につくようになり始め、(野澤)錦糸さんの襲名の記事を見て『血縁でなくとも襲名できるんだ』と思ったり、滅多に上演されない『堀川波の鼓』成山忠太夫内の段を語る(八世豊竹)嶋太夫師匠のインタビューを読んだり。そしてある日、NHKで『人間国宝ふたり ~吉田玉男・竹本住大夫~』という番組を見て、ガーンと打たれたような感じになったんです。そこからは友之助くんを質問責め。研修生は長唄の三味線は習うのですが、義太夫の三味線も弾いてみたくなり、控室で弾かせてもらって。三味線の扱い方がよくわからずかなり雑だったので、友之助くんはハラハラしていたことでしょうね」
歌舞伎研修生時代の貴重な写真。歌舞伎俳優研修募集チラシより。 提供:国立劇場
歌舞伎の研修生を修了した芳穂太夫さんは、文楽入りを決意し、養成課の職員の口添えで嶋太夫に弟子入りすることに。ところが弟子入りする前に師匠が病気休演したため、1年間、“浪人”する。
「浪人中は、大阪で公演があるたびに舞台を見て自習していました。嶋太夫師匠には一度、病院にもご挨拶に伺っていましたが、2003年の1月公演で復帰された時に改めて楽屋へ行き、2月には自費で東京へ行って、半ば強引に弟子入りしました。僕は25歳と年が行っていましたから。」
そんな紆余曲折を経て、晴れて弟子入り。「芳穂」という名をもらう。「芳」の字の部首は師匠から「十十や」と言われたことから、可能な時には草かんむりではなく十を2つ並べて書くようにしているのだそう。
≫八世豊竹嶋太夫師匠のもとで