《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 11 鶴澤清介(文楽三味線弾き)

インタビュー
舞台
19:00
鶴澤清介(文楽三味線弾き)

鶴澤清介(文楽三味線弾き)

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情景や心情などを描写し、横にいる太夫の語りを彩る、豊かで華やかな三味線の音色。舞台でのその音からも舞台を降りてのトークからも文楽愛が溢れ出るのが、芸歴50年を超える三味線弾き、鶴澤清介(72)だ。近年はYou TubeチャンネルやX(旧ツイッター)のアカウントを開設するなど、発信にも力を入れる。その文楽愛を大いに語ってもらった。

図書館で出会った文楽

天職が人を呼ぶのか、人が天職を手繰り寄せるのか。文楽愛好家でもないサラリーマンの家庭に育った清介さんは、普通に生活していれば文楽とは無縁の人生を歩んでもおかしくなかった。しかしながら、全くの偶然によって天職と出会ったわけでもない。

「中学生の時、昼休みに図書館で色々な古典を片っ端から読んでいたんです。『源氏物語』『今昔物語』『宇治拾遺物語』、謡曲……。『源氏物語』は文章が難しかったけれど、昔の話って面白いなと思いながらあれこれ読むうち、文楽の浄瑠璃(※)が引っかかってきて。岩波書店が出した『日本古典文学大系』の中に入っている『浄瑠璃集』上下巻と『文楽浄瑠璃集』のうち、『浄瑠璃集』は丸本(詞章全般を収めた版本)を活字にして注釈を加えただけものでよくわからなかったけれど、『文楽浄瑠璃集』は、八代目竹本綱太夫師匠が舞台で使用した床本を活字にし、そこに書かれた黒朱(くろしゅ)という演奏の簡単な注意書きを全部写して細かい注釈を加えていて、さらに大道具や人形のかしらなども描いてあったんですよ。その後、本屋さんで近松門左衛門作『冥途の飛脚』『女殺油地獄』の、表紙がビニールの豆本も買いました。『どうもこれは音曲で、節がついているらしいな、いっぺんこの節を聴いてみたいもんやな』と思ったけれどなかなか機会がなくて。そうしたらラジオで、八代目の師匠(綱太夫)と十代目竹澤弥七師匠の両名人の演奏があったんですよ。最初に聴いた演目は忘れたけれど、『冥途の飛脚』の封印切も聴くことができました」

中学生の時に図書館で出会った『文楽浄瑠璃集』(岩波書店刊)。2月に出演する『妹背山婦女庭訓』山の段(妹山背山の段)の舞台美術。         提供:筆者

中学生の時に図書館で出会った『文楽浄瑠璃集』(岩波書店刊)。2月に出演する『妹背山婦女庭訓』山の段(妹山背山の段)の舞台美術。         提供:筆者

両親からは、言葉がわからず眠くて退屈で仕方がないものだと聞いていた文楽。しかし清介さんの印象はまるで違った。

「何を言っているのか、よくわかりました。しかも八代目の語りだから、同じ泣くのでも悔しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか、手に取るように伝わってくる。三味線は三味線で、あ、今涙が流れたんや、あ、風が吹いたんや、この人が歩いてきたんや……というのが全部音に表れているんです。僕は小学校3年の時から姉に連れられて宝塚歌劇を観に行っていたのですが、感情が昂じると歌い出すところは、文楽もミュージカルも同じだなと思いました。中学校から急いで帰れば間に合う時間に『日本音楽みちしるべ』『邦楽百番』といったラジオ番組や舞台中継などをやっていたので、『英語の勉強をするから』と買ってもらったテープレコーダーで必死に録音し、繰り返し聴いて。高校に受かったら習わせてくれると親に言われて受験勉強に励み、合格すると、母親が相談した三味線屋さんからの紹介で、女流義太夫の三味線弾きの豊澤住造先生のもとに通い始めました」

実はこの高校受験では、周囲から大丈夫だと言われていた学校には落ちてしまい、第二希望の学校に進んだのだが、その高校がなんと住造の稽古場から歩いて5分ほどの好立地。一方、第一希望の高校はかなり遠かったというから、運命の導きもあったのだろうか。

「4月から語りを習っていましたが、夏に盲腸の開腹手術をし、先生から『お腹に力を入れていけませんよ』と言われて。『三味線は?』と聴くと『それくらいなら良いかな』。先生は恐らくおっとりとした三味線をイメージしていて、義太夫三味線がどんなに激しいものかはご存知なかったのでしょうね(笑)。ともかく許可が出たので三味線を習ったら、顔をぐじゃぐじゃにして語る太夫よりもこのほうがいいな、と。この頃やっと文楽の公演も観に行くようになり、八代目の引退前の最後の1年に間に合ったんです。初めて観たのが『仮名手本忠臣蔵』。八代目が弥七師匠と判官切腹を語る時の姿、カッコいいなと思いました」

高校を卒業した清介さんは、関西大学商学部に進学。

「大学で色々な人を見ましたし、アルバイトもしました。アルバイトは、盆暮れの百貨店の配送作業。注文が入ると伝票に書かれたものを取ってきて包んで送り出すというのを十何人でやるんです。僕は包むのが上手かったので包む役で、朝の9時ぐらいから晩の5時ぐらいまで働きました。そうこうするうち、『毎日、満員電車に乗って働くのは自分の性に合わないなあ』『文楽なら大好きな人の演奏も聴けるし、自分もできるし、定年もなくずっと元気でやれるからいいんじゃないか』と思い始めて。住造先生に相談したところ『(二世鶴澤)道八師匠はぶっきらぼうのようだけど腹が温かいええ人やから』と、先生が親しくしていた道八師匠を紹介してくれました。大学3年生の6月に挨拶に行ったところ、翌年3月に国立劇場の研修生の一期生が入ってくるタイミングだったため、『この子は弾けるのだからそれより前に初舞台を』ということになり、急いで試験をやって、翌年、正月に朝日座で初舞台を踏みました」

道八への弟子入りが1973年、初舞台が翌年の正月。大学在学中の初舞台だった。

「文楽に入ってからは学校に行きませんでしたが、大学紛争で授業がなくなりレポート提出になったので、友達に写させてもらいました。ところが一つ、不可がついている。友達に聞くと『他の人にもレポートを見せた』と言うんです。僕と友達とその人の席次が並んでいて、つまり同じ内容が3つ並んでしまっていた(笑)。再試験が行われ、周囲のアドバイスに従って答案用紙に『この試験に通ったらば卒業できます』と書いてしばらくして単位を見に行ったところ、『ご卒業おめでとうございます』と言われました」

※浄瑠璃 太夫と三味線による語り物

初めて一人で盆に乗って演奏した、国立劇場第33回文楽公演『一谷嫩軍記』弥陀六内の段(1975年2月)。この時の失敗談については「技芸員への3つの質問」【その1】を参照。           提供:国立劇場

初めて一人で盆に乗って演奏した、国立劇場第33回文楽公演『一谷嫩軍記』弥陀六内の段(1975年2月)。この時の失敗談については「技芸員への3つの質問」【その1】を参照。          提供:国立劇場


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