ショパン国際ピアノ・コンクール 優勝者エリック・ルーらのファイナルステージを振り返る【現地レポート】
(C)W. Grzędziński/NIFC
世界三大コンクールとひとつとされる『ショパン国際ピアノコンクール』。2025年は10月3日~10月20日までポーランドのワルシャワで開催され、一位はエリック・ルー(Eric Lu/アメリカ)、二位にケヴィン・チェン(Kevin Chen/カナダ)、三位にワン・ズートン(Zitong Wang/中国)、そして日本からは桑原志織がリュウ・ティエンヤオ(Tianyao Lyu/中国)とともに第四位入賞を果たしている。SPICEでは音楽ライター・朝岡久美子氏による現地からのレポートをお届け中。ここでは、ファイナルステージの演奏を前後編に分けて振り返る。
※日本人ファイナリスト二人(桑原志織、進藤実優)の演奏については【前編】(https://spice.eplus.jp/articles/341704)へ
前記事では本選における日本人出場者二人の演奏について焦点をあてたが、本記事ではそれ以外の出場者について振り返ってみたいと思う。
Eric Lu/エリック・ルー
(C)W. Grzędziński/NIFC
三日間にわたる本選審査の一日目に登場したEric Lu。周知のとおり第一位を獲得した。第三次審査では手の故障を理由に一日出場を先送りするという特例措置が取られたが、本選は予定どおり初日に登場した。
「幻想ポロネーズ」―――この人が本気でFazioliを鳴らすとハッとさせられる凄さがある。エンハーモニックの感じ方や構成感、いわゆる持っていき方の巧さも素晴らしいが、何よりも一つひとつの音が紡ぎだす憂い、ためらいなどの感情表現が、生きたそれのごとくに音響空間に沁みわたり、聴き手の心にストレートに訴えかけてくるのだ。
もちろん、それは今に始まったわけではなく第一次予選、そしてこのコンクール以外でもつねに彼の持つ音自体がそうなのだが、「幻想ポロネーズ」という作品を通してその魔性ともいえる特性が伝わってきた(しかし、Luの音も音楽性も実に健康的なので“魔性”ではなく、むしろ“マジック”といったほうが良いのかもしれないが……)。
(C)W. Grzędziński/NIFC
(C)W. Grzędziński/NIFC
コンチェルト第二番―――彼の師であり、当コンクールの審査員を務めているダン・タイ・ソン氏が45年前に第一位を獲得した際にも第二番を選んでおり、第二番での第一位獲得は実にほぼ半世紀ぶりだ。そのような意味でも、結果発表後のインタビューで第二番を選んだ理由を聴いてみたが、「今回、全ラウンドを通して、今までとは違う新しいレパートリーで挑戦してみたかった」と述べたにとどまり、特段ダン・タイ・ソン氏からのアドバイスや影響があったという言葉はなかった。
いずれにせよこのピアニストには第二番のような若き日のショパンのリリックな感情がストレートに描き出された作風がふさわしい。特に第二楽章はこの人の為にあるのではないかと思わせるほど、あの流麗で甘美な旋律をLuは自分のものにしていた。音一つひとつに色彩があふれているが、それは“弾ける”というタイプのものであなく、“奥ゆかしく深い”響きが何とも耳に心地よく、心を打つのだ。これはどのピアニストにも実現できるものではないだろう。
(C)K. Szlęzak/NIFC
天性の音楽性もさることながら、一本一本の指が生みだす奇跡はこれからも多くの感動を与えてくれることだろう。ちなみに、Luは話してみると、実に冷静で理知的だ。恐らく、演奏においても”知・情・意”のバランスが整っていることも大きな強みなのだろう。
Tianyao Lyu/リュウ・ティエンヤオ
(C)K. Szlęzak/NIFC
そして、初日最後に登場したのが、あの中国の16歳最年少出場者のTianyao Lyu。第4位に入賞し、コンチェルト賞までも獲得した。
概して、コンチェルトの演奏というのは場数、すなわち経験値がモノを言うというところがあり、一説には今回もそれを補うために「幻想ポロネーズ」というソロ作品演奏が課されたと言われているところもあるが、最年少出場者がコンチェルト賞をかっさらうという予期せぬ展開になってしまったのだ。
(C)K. Szlęzak/NIFC
「幻想ポロネーズ」―――この舞踊のリズムが持つ勇壮さを堂々と響かせ、自信に満ち溢れたピアニズムを序盤から高らかに表現した。しかし同時に晩年の超円熟期の作品が持つ幽玄な幻想性すらも見事に歌い上げ、一筋縄ではいかないこの作品の最も難解な点をいとも容易く突き破っていたかのようだ。
独特の情感に満ちた和声感と緩急を巧みに効かせたフレージング(この作品の場合“節回し”と言ってもよいかもしれない)は時に官能的でもあり、16歳の演奏とは思えない程の成熟度を、さらにこの大舞台でも印象付けた。
コンチェルト第一番―――前ラウンドの演奏後のインタビューで、「ステージの上ではショパンの音楽を自然に感じていたいから特に多くのことは考えていない」と語っていた彼女だが、その発言の通りのストレートフォワード(まっすぐで明快)な演奏ぶりだ。全身でオーケストラに同調し、演奏を楽しんでいる様子がありありと伝わってきた。
(C)W. Grzędziński/NIFC
(C)W. Grzędziński/NIFC
中盤展開部に近いところでのストレッタ風の箇所でのアクセントの付け方も何ともカッコよく、まさに大家を思わせる風格だ。しかしこれが決して、大家たちの真似や勢いで突っ走っているものでないことは、全体の構成感、そして、対して細部の精緻なつくりなどからも一目瞭然であり、天才的な運動神経(反射神経といったほうが良いのか)とともに、完璧な音楽的基礎に裏付けられていることがコンチェルトというかたちを通してさらに感じられた。このような点はコンチェルト賞獲得にあたり審査員に対して大いにアピールするものがあったのだろう。
(C)W. Grzędziński/NIFC
Piotr Alexewicz/ピォトル・アレクセヴィチ
(C)K. Szlęzak/NIFC
(C)K. Szlęzak/NIFC
二日目に登場した中で書き留めておきたいのは、ポーランド出身のPiotr Alexewicz。この人は地味に正統派に、しかしほぼ完璧にまとめ上げる秀才型と言えるかもしれない。しかし、「幻想ポロネーズ」などの円熟期の作品においては、行間にある詩的な表現の美しさが大変印象的だった。恐らくこの人の目指す美学なのだろうが、完全なる“静”の中に描き出された“間”の訴えかけるものがこの日の演奏でも心に響いた。そして、この大作品をもって、いわゆる日本人が愛でる“序・破・急”という幽玄の美までもが感じ取れたようにも思える。
Kevin Chen/ケヴィン・チェン
(C)W. Grzędziński/NIFC
(C)W. Grzędziński/NIFC
本選最終日に登場したKevin Chen。ご存知のように彼は二位を獲得した。しかしファンには申し訳ないが、個人的にはこの本選ラウンドが最も「彼らしくなかった」というのが本音だ。
まずはこのステージが「幻想ポロネーズ」とコンチェルトの演奏に限られているのも理由だろうが、この日の演奏は特に重い腰が上がらず最後まで行ってしまった感があった。もちろんこの人が確立している押しも押されもせぬピアニズムに基づくスタイルというのは前面に押し出されてはいたが、やはり精神性という観点からは訴えてくるものが感じられなかった。と言っても序盤と後半でのコントラストを効かせた構成感など、良く考え抜かれていたのは確かだ。
コンチェルト第一番も残念ながら終始、「無難に演奏していた」というのが感想だ。もちろんこの人の持つ音もEric Lu同様に言葉では尽くしがたい“引力”のようなものを持っており、おのずと耳が惹かれてゆくのも確かではあるが……。指揮者も牽引しようとするが、なかなか彼自身がそれに応じないというような姿勢も感じられたように思えた。ただ、終楽章の中盤以降はこの人らしく技巧が冴えわたり、特に中盤以降は煌めくピアニズムで聴衆を魅了してしまうところはさすがだった。
David Khrikuli/ダヴィッド・フリクリ
(C)W. Grzędziński/NIFC
(C)W. Grzędziński/NIFC
最後に触れたいと思うのは、今回、進藤実優と同様、全ラウンドを通して好演に次ぐ好演で多くの聴衆からの評価も高かったジョージアのDavid Khrikuli。
今回、公式に採用されたスタインウエイのピアノは個体としてかなり地味な音の持ち主であったような印象があるが、だからこそ、どう料理するかでまったく紡ぎ出す音色が違ってくるのが興味深かった。そして、相性が良いのか、この人が演奏するととりわけ深く味のある音がするのだ。
最終結果発表後日の取材で本人に聞いたところによると、祖国のジョージアにいる頃から完全に伝統的なロシアン・ピアニズムを叩き教え込まれたという。聞かなくとも音を聴けば一目瞭然だが、本選ステージでの「幻想ポロネーズ」にしてもコンチェルトにしてもその美点がここぞとばかりに引き立っていた。中音域をよく鳴らし、歌い、甘美な旋律はどこまでも抒情的歌い上げ尽くす。陰翳を帯びた色彩美は音響空間でさらに燻(いぶ)され、得も言われぬ醸成感のある音が紡がれてゆく。オーケストラとの対話も見事で、心にずしりと響くものがあり、聴き手としても大いに敬意を表したくなるピアニストだった。残念ながらアワード獲得には至らなかったが、これから歳を重ねるにつれての音楽的な成長がますます楽しみでならない。
*最後に素直に申告するが、第三位(兼ソナタ賞)を獲得したZitong Wang(ワン・ズートン)の演奏は、つねに日本人出場者の後で、毎回インタビュールームに行っていたため、一度も生の演奏を会場で聴くことができなかった。しかし、10月21日開催された受賞者演奏会において初めてステージでの演奏を聴き、この女性ピアニストの紡ぎだす音一つひとつの驚異的な存在感と言葉の雄弁さに圧倒された。
取材・文:朝岡久美子
関連情報
ショパン国際ピアノコンクール、第二次予選通過者が発表 日本人出場者は3人が第三次へ
https://spice.eplus.jp/articles/341411
ショパン国際ピアノコンクール、第二次予選を振り返り~注目コンテスタントをプレイバック!
https://spice.eplus.jp/articles/341442
https://spice.eplus.jp/articles/341515
https://spice.eplus.jp/articles/341521
▼記事まとめはこちら
https://spice.eplus.jp/featured/0000172838/articles
■ショパン国際ピアノ・コンクールHP(英語)https://www.chopincompetition.pl/en
公演情報
「第19回 ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル」
2025年12月16日(火) 19:00 東京芸術劇場 コンサートホール
[特別協賛]
UBS SuMi TRUSTウェルス・マネジメント株式会社
三井住友信託銀行株式会社
https://chopin.japanarts.jp/recital.html
「第19回 ショパン国際ピアノ・コンクール2025 入賞者ガラ・コンサート」
2026年1月28日(水) 18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
[特別協賛] 野村不動産グループ
https://chopin.japanarts.jp/gala.html
[学生サポートパートナー] 株式会社 豊田自動織機 / 豊田通商株式会社
https://chopin.japanarts.jp/gala_ngy.html
1月22日(木) 熊本 熊本県立劇場
1月23日(金) 福岡 福岡シンフォニーホール
1月24日(土) 大阪 ザ・シンフォニーホール
1月25日(日) 京都 京都コンサートホール
1月29日(木) 川崎 ミューザ川崎シンフォニーホール
各公演の詳細は、特設サイトをご参照ください。
https://chopin.japanarts.jp/index.html