ショパン国際ピアノ・コンクール 桑原志織、進藤実優のファイナルステージを振り返る【現地レポート】
授賞式の模様(C)K. Szlęzak/NIFC
世界三大コンクールとひとつとされる『ショパン国際ピアノコンクール』。2025年は10月3日~10月20日までポーランドのワルシャワで開催された。SPICEでは音楽ライター・朝岡久美子氏による現地からのレポートをお届け中。本記事では、前後編に分けてファイナルステージの演奏を振り返る。
10月20日、三日間にわたる最終予選(本選)最終日の夜半に最終結果が発表された。周知のとおり、一位はEric Lu(エリック・ルー)、二位にKevin Chen(ケヴィン・チェン)、三位にZitong Wang(ワン・ズートン)という結果が発表された。ここでは最終的な順位等に関係なく、三日にわたるファイナルステージの演奏を、前半で日本人出場者二人にフォーカスをあて、後半記事(第二弾)では、他にも印象に残った奏者を中心に振り返ってみたいと思う。
コンクール最終課題、今年の変更点をおさらい
撮影=朝岡久美子
長年にわたりショパン国際ピアノ・コンクールの本選ステージでは、ピアノ協奏曲一作品のみが課題曲とされてきたが、今回からコンチェルト(協奏曲のこと)に加え、「幻想ポロネーズ」が付されたことはすでに前回の記事でもお伝えした通りだ。
多くが予想した通り、出場者は本選ステージにおいてコンチェルト演奏前にオーケストラ団員全員が見守る中で「幻想ポロネーズ」という大作を演奏するという、かなりの重圧を背負うことになった。これについては出場者それぞれの受け止め方があったようだが、いずれにせよ、「幻想ポロネーズ」という作曲家晩年に書かれた極めて高い精神性が求められる作品と、若書きの協奏曲(第一番・二番ともに)を一つのステージで連続的に演奏し、しかもその評価が大いに最終的な結果を導きだす要素となり得るという事実は、さすがこの世界最高峰のコンクールらしい“最終課題”といえるだろう。
このコンクール審査員を(今回で)三回務めているピアニストの海老彰子氏にその点について尋ねてみたが、「重圧に関しては想像以上のものがあるだろうと思うが、一人の演奏家としてまったく違う二つの側面をアピールすることができるのであれば、それはかなりの大きなプラスにもなり得るし、演奏作品が増えることでアピールの仕方がそれなりに相乗する可能性もあるのでは」と語ってくれた。まさに「勝負に出る」といったところだろうか。採点は二作品トータルで審査されるが、その基準は各審査員に委ねられているというのも興味深いところだ。
では二人の日本人本選出場者、進藤実優と桑原志織の本選での演奏について振り返ってみたい。
進藤実優(C)K. Szlęzak/NIFC
桑原志織(C)W. Grzędziński/NIFC
個性的な音の響きとエレガンス~進藤実優
(C)K. Szlęzak/NIFC
進藤は本選二日目のトップバッター。「幻想ポロネーズ」では、導入部のアルペッジョを密度の高い完璧なまでのピアニッシモによって紡ぎ、あの世とこの世をつなぐ結界のごとく静謐な、むしろ霊的ともいえる世界観を呈示した。そして、そこからは天上の中で繰り広げられるファンタジーの世界へ。進藤の持つ独特なタッチが創りだす漆黒の輝きに包まれた音色は、優雅な貴婦人が見せる憂いのある表情を描き出すかのように陰影のある彫の深いエレガンスに満ちていた。
緩急やダイナミクスの繊細な変化を通して描き出す感情の機微は、驚くほどに柔軟性があり、次第に優雅さという範疇を超えて破壊的な危うさにも満ちていた。進藤はその危うさを高貴な輝きに満ちた薄く上質なベールで包み隠していた。再びアルペッジョが織りなす暗示的な響きは、この世への最期の想いを託すかのような不気味な響きに聞こえると同時に、最期の耀きを放とうとする精神の高みをも感じさせ、凄みのある演奏だった。
(C)K. Szlęzak/NIFC
(C)K. Szlęzak/NIFC
コンチェルト第一番。第一楽章―――やはり進藤の個性的な音の響きはピアノが独奏的に入ってからすぐに聴き手を惹きつける。この楽章に与えられた(楽想の)高貴さや高潔さを、譜面上に与えられたすべての要素を最大限に活かし、精緻に表現していたのが印象的だった。
第二楽章では甘美な旋律に溺れることなく、淡々と、しかしスケールの大きな音楽を作ろうとする進藤の想いがよく伝わってきた。大きな弧を描くようにゆったりとした歌い方が心地よく、聴いていても自然と同調してしまう。オーケストラとの巧みな対話もよく感じられる演奏だった。
第三楽章―――走りがちになりそうな旋律の応酬だが、丁寧に慈しむように一つひとつのフレージングを紡いでゆく。美しいエンハーモニック(異名同音のこと。しかし演奏の際には異なる和声感の中での響きが求められる)などもその延長上にあり、聴き手を緩やかな流れとともに幻想へと誘う。しかし、“急”を効かせた音の世界へと戻る際の持っていき方や、緩急のコントロールを自在に効かせたアゴーギク(いわゆる速度の伸び縮み)なども自然の流れの中で呼吸をするかのように自由自在に作り上げられていた。フィナーレのアッチェレランド(次第に速度が増す様)も見事に決まり、曲が終わる前から客席の大喝采が聞こえた。
(C)K. Szlęzak/NIFC
(C)K. Szlęzak/NIFC
終演後のインタビューでは「オーケストラとの対話も楽しめ、演奏していてとにかく嬉しかった」と語っていた。「幻想ポロネーズとコンチェルトではまったく異なる世界観を描き出すことを第一に考えていた」というが、まさにそのメリハリがしっかりと感じられる一連の演奏だった。
(C)W. Grzędziński/NIFC
力強さと繊細さを併せ持つ~桑原志織
(C)K. Szlęzak/NIFC
もう一人の日本人ファイナリスト桑原志織は最終日の大トリ、本選ステージもいよいよ終わるという高揚感の中で登場。桑原の気合いに満ちた凛とした姿とオーラは客席の期待に応えるのに十分だった。
「幻想ポロネーズ」―――冒頭のアルペッジョから力強く意志の強い、しかしむせび泣くような響きを聴かせた。それは、この時期のショパンが現実的に対峙していたであろう精神の弱まり、そして、悲壮感をも超越した、もう一段高いところにある精神性の輝きを感じさせるものだった。その後は流れるように雄弁にストーリーが語られ、桑原の持ち味である安定感に満ちたブレのない大らかな歌いっぷりは、憂いもなく、しかし、時に悲壮感を美しく漂わせていた。
コンチェルト第一番。桑原が描き出すフレージングは長大で、彼女が得意とするブラームスのコンチェルトを思わせる底深いエネルギーに満ちていた。しかし、ディテールは実に繊細でショパン的な様式を見事なまでに意識して作り上げており、このピアニストの音楽的知性を多分に感じさせる演奏だった。
(C)K. Szlęzak/NIFC
(C)K. Szlęzak/NIFC
第二楽章では、力強い桑原本来の音からは対極的なところにある天上を漂うようなピアニッシモの煌めきが全編を通して美しかった。経過的な箇所では、時に妖艶さも漂わせ、幽玄な世界を描き出していた。桑原の人となり、そして芸術的な理解や興味の広さと奥行きが感じられる好演だった。
そして終楽章。冒頭からパワーが感じられ、よりいっそう集中力が高まっているのが聴いていても見ていてもわかる。よりいっそう終盤に来て調子を上げてゆくのは、このピアニストがいかに能力のみならず、体力的にも精神的にも恵まれているかがわかる(もちろん桑原のコンディションの持っていき方の上手さもあるだろう。さすがに大コンクールで経験を積んでいる余裕が感じられた)。
(C)K. Szlęzak/NIFC
クラコヴィアクのリズムを主体としたフレーズの応酬は、つねに絶妙な緩急の効かせ方が求められる。しかし、桑原は安定した流れの中でそれをいとも簡単にコントロールし、オーケストラを完全に牽引していた。指揮者のボレイコも桑原のパッションにつられ、ノリノリなのが客席から見ていてもわかるくらいだった。このプラスの連鎖が本選最終日の最終演奏という特別な空気感の中で会場を席巻し、客席空間は何とも言えない高揚感にあふれていた。最後のフレーズを弾きあげると満面の笑み(しかし、アルカイックに)を湛えていた。
(C)K. Szlęzak/NIFC
オーケストラが鳴りやむと客席からの大喝采。多くの聴衆がスタンディングオベーションで最終演奏者を労った。終演後のインタビューでは、「すべてのラウンドを通して用意してきた作品全部をワルシャワで演奏することができた」という喜びと、「自分自身で、どれほどショパンが好きかということを再認識できた」と語っていたのが印象的だった。
撮影=朝岡久美子
取材・文:朝岡久美子
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■ショパン国際ピアノ・コンクールHP(英語)https://www.chopincompetition.pl/en
公演情報
「第19回 ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル」
2025年12月16日(火) 19:00 東京芸術劇場 コンサートホール
[特別協賛]
UBS SuMi TRUSTウェルス・マネジメント株式会社
三井住友信託銀行株式会社
https://chopin.japanarts.jp/recital.html
「第19回 ショパン国際ピアノ・コンクール2025 入賞者ガラ・コンサート」
2026年1月28日(水) 18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
[特別協賛] 野村不動産グループ
https://chopin.japanarts.jp/gala.html
[学生サポートパートナー] 株式会社 豊田自動織機 / 豊田通商株式会社
https://chopin.japanarts.jp/gala_ngy.html
1月22日(木) 熊本 熊本県立劇場
1月23日(金) 福岡 福岡シンフォニーホール
1月24日(土) 大阪 ザ・シンフォニーホール
1月25日(日) 京都 京都コンサートホール
1月29日(木) 川崎 ミューザ川崎シンフォニーホール
各公演の詳細は、特設サイトをご参照ください。
https://chopin.japanarts.jp/index.html