死と記憶を見つめる写真家、菅野幸恵「すべての夜が明ける前に」レビュー
菅野幸恵 個展「すべての夜が明ける前に」
またテロが起こった。たくさんの人が死に、たくさんの心が傷ついた。人々は冷めたコーヒーのような顔をして、逃げ場のない街を彷徨っている。疑心は不安を呼び、恐怖は不安を嘲笑っている。わからない事は恐ろしく、知らない事は寂しく、伝わらない事は苦しい。負の連鎖は記憶を混乱させ、やっと繋いだはずの手を、簡単に放してしまう。断絶はありふれ、鏡に映した自分の肖像さえ憎らしく思えてしまう。
菅野幸恵の個展、「すべての夜が明ける前に」は、人々に共通の記憶を見出そうとする写真展である。彼女は子宮から見た風景を、根本的な人間の記憶と位置づけ、他者とのコミュニケーションの為に、いつか見た共有できる風景であると提示する。彼女は、自らの子宮に鑑賞者を招き入れ、その血の色を透かして見せる。
彼女は制作活動において、死を一貫したテーマに位置づけ作品を発表してきた。 前作「別れの後の静かな午後」では、父親との死別と、彼女がその死へとたどり着くまでの静かな時間を、無重力空間での宇宙船のドッキング作業の様に、繊細に表現していた。そして今回の作品で彼女は、誕生以前へと記憶を呼び戻そうと試みる。
菅野の写真は、一見暴力的である。鮮烈な赤いイメージの連続は、グロテスクな血と胎盤の記憶を呼び覚ます。それは断絶の記憶であり、何かの一部であった安らぎから切り離され、個体となった忘れえぬトラウマであるからだ。しかし彼女は、その断絶のトラウマを乗り越えるために、血のイメージを逆説的に利用する。
彼女の表現はパーソナルでありながら、それほど内向きではない。
「どうか思い出して。私たちが同じ場所にいた時のことを」
彼女は強い言葉を持って、優しく語りかけている。
いつも通りの朝の地下鉄が、一瞬にして爆風に包まれた時。優しく微笑んでいたはずの隣人が、テレビの画面の中でテロリストだと言われている時。私たちは絶望し、微かに信じていたものも信じられなくなってしまう。疑いの種は血と涙を養分に、誇らしいエンブレムを守るべくすくすくと育っていく。不安な心が、また新たな断絶を生む。
しかし私たちはもしかすると、理解しようとし過ぎているのかもしれない。きっと本質とは、もっと暖かい場所にあるのだ。決して理解し合えなくとも、お互いの脈打つ鼓動の中に、同じリズムを感じられる。そして記憶を辿り合い、同じ景色を見ることができるのだ。菅野は恐ろしい暗闇の中に、果敢にもその両腕を突っ込み、迷える現代の盲者たちを、自らの体温を頼りに、正しい風景へと導こうとしている。
目に見えること以上のものを、写真という、視覚に頼らざる負えないメディアで表現しようとする彼女の試みに、今後も目を離せない。注目のアーティストだ。
※終了済み
会場:新宿 PLACE M
開館時間: 10:00 〜 17:30(日祝休館)