「千人の交響曲」の饗宴がはじまる
1909年のグスタフ・マーラー
グスタフ・マーラーが51年の生涯に書き残した交響曲(未完の第一〇番、「大地の歌」まで含めるなら11曲)のうち、評価の高い作品となればよく演奏されている第一番、第五番あたりの作品となるだろうか、それとも最後に完成された第九番が挙げられるだろうか。もし、生前世界最高の指揮者として活躍していたマーラー自身にそう尋ねたなら、間違いなく交響曲第八番、通称「千人の交響曲」を挙げただろう。マーラーの音楽を愛好する方はこの評価を「第九番を作曲する前の話では?」と、疑問に感じるかもしれないが、第九番を完成して第一〇番に着手してなお「第八番が最高傑作である」と、生前のグスタフ・マーラーは評価していたという。
1910年に自ら指揮して行った初演が空前の大成功を収めたこともあるが、「千人」と興行主が煽ったほどの大編成を使いこなした作曲の冴え、第二部におけるゲーテの「ファウスト」終結部の音楽化という偉業の達成(長大な作品からみればごく一部だが、戯曲そのものの音楽化は稀だ)、全曲を通じてポジティヴな作品の性格などを考えればその評価にもうなずけるところだ。誰かに作品を献呈しなかったマーラーだが、唯一この作品を愛する妻アルマ・マーラーへ献呈されていることからも、その愛着は伺えるだろう。
※生前のマーラーについては、前島良雄氏の著作をぜひ参照してほしい。通説とされるマーラーをめぐるエピソードには、発信者の”お話”が多かれ少なかれ入り込んでいることを事実によって示す、スリリングなマーラー論が楽しめる。
作曲者が認める傑作にあえて”欠点”を探すならば、その巨大な編成ゆえ演奏機会に恵まれないことだ。なにせこの交響曲を演奏するには、”千人”とも言われる大人数が必要となる。別働隊の金管楽器、大小オルガンを混えた巨大なオーケストラに二群の混声合唱、児童合唱、そして八名もの独唱者は揃えるだけでも大事となる、そう気軽に演奏できるものではない。
だが聴き手は「大編成だから」、などと身構える必要はない。緩急も強弱も自由自在の、空間的な演出も施された劇的な音楽が約一時間半にわたって展開するさまはあたかもオペラのよう。会場で体験してみればすべてがわかろうというものだ。だからもしこの傑作が演奏されることを知ったなら、マーラーの音楽を愛する方は何をおいても会場に向かうべきなのだ。
……と、ふだんならば申し上げるところだが、ことし2016年に首都園ではプロ・アマ含めて四回もこの作品が演奏される。特に記念年ではない今年、巨大な交響曲が同時期にこれだけ演奏されるのは何故か?などとつい考えてしまうけれど、そんな答えの出ないそんな問いを弄んでも仕方がない。それぞれに思いを込めた、それぞれに特別な演奏会が四つ、重なってしまっただけのことだろう。たとえばすでに公演が終了したアマチュアによるふたつの演奏のうち、先陣を切って行われた井上喜惟とマーラー祝祭オーケストラによる演奏(2月開催)が、自らのマーラーの交響曲全曲演奏の完結編としてこの大作を披露している。そしてこれから開催される、プロのオーケストラによる「千人」の演奏会もまた特別の、思いのこもった演奏会として開催されることになる。
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この7月1日(金)から三公演が開催される、ダニエル・ハーディング指揮する新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会は、ファンにとっては”早く演奏は聴きたいけれど、できればその日は来てほしくない”、そんな悩ましい演奏会として以前から話題を呼んでいた。新日本フィルハーモニー交響楽団にとっては音楽監督不在の厳しい時期に「ミュージック・パートナー・オブ NJP」として数多くのコンサートで共演を重ねたハーディングとの一時代が終わり、上岡敏之新音楽監督の時代が始まる、そんな大きな節目の演奏会となるからだ。
ダニエル・ハーディングと新日本フィルハーモニー交響楽団は、2007年に急な代役での出会いから現在まで、あの東日本大震災も乗り越えて関係を深めてきたが、その一時代がここで区切りを迎える。退任演奏会となる定期演奏会にハーディングがこの作品を選んだ理由には、これまで共に音楽を作ってきた仲間たち皆とまた音楽がしたい、そんな想いがあったことだろう。足かけ10年に及ぶ協力関係のフィナーレには我々聴き手でさえ様々な想いが去来するのだ、”仲間たち”にとっては如何ばかりの感慨があるだろう。
もちろん、そんな思い入れを抜きにして、彼のマーラー演奏は世界的に評価の高いものだ。ソプラノのユリアーネ・バンゼ、テノールのサイモン・オニールら彼自身が選んだ独唱陣、そして彼の「パートナー」の新日本フィルハーモニー交響楽団、栗友会合唱団、そして東京少年少女合唱隊が集まるこの特別な演奏会に、最高の演奏を期待させてもらおう。
ハーディングと新日本フィルの忘れがたい名演奏の集大成となるだろう (c)Harald Hoffmann
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そしてもうひとつは団にとっての大きな節目を迎える老舗オーケストラの特別演奏会だ。1926年に「新交響楽団」として活動を開始した現在のNHK交響楽団は日本を代表するオーケストラとして長年君臨し、ことし10月にはめでたく創立90周年を迎える。昨年からパーヴォ・ヤルヴィを首席指揮者に迎えてますます好調のオーケストラが、9月にはじまる新シーズンに開催する一連の記念コンサートの冒頭に持ってきたのもマーラーの交響曲第八番なのだ。ファンとしてはこのめぐり合わせに感謝しなければならないだろう。
パーヴォ・ヤルヴィは就任前からN響を全面的に信頼してその実力を発揮できるプログラムを組み、自身が特に好きだと語るブルックナー、マーラーの交響曲を次々と取り上げていることはご存知のとおりだ。独唱陣にはソプラノのエリン・ウォール、テノールのミヒャエル・シャーデ、バスのアイン・アンガーをはじめ世界で活躍する面々が、合唱は新国立劇場合唱団と栗友会合唱団、そしてNHK東京児童合唱団が参加とこちらも素晴らしいメンバーで大作に取り組む。
彼はこの交響曲で記念すべきシーズンに「創造主なる精霊」を招こう、と考えたのだろうけれど、それはそのまま記念シーズンの先へと続いていくだろう、NHK交響楽団とパーヴォ・ヤルヴィの黄金時代を始める特別な機会ともなろう。
パーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団は未来を見据えてこの作品を取り上げる (c)Julia Baier
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パーヴォ・ヤルヴィとダニエル・ハーディングはパリ管弦楽団の首席指揮者としていわば「先輩/後輩」の関係となる。そしてパーヴォ・ヤルヴィはオーケストラを退くにあたって先日行われた演奏会でマーラーの交響曲第三番を演奏したばかり、9月の新シーズンの開幕演奏会にダニエル・ハーディングはシューマンの「ファウストからの情景」を演奏する。「ファウスト」、マーラー、パリ管弦楽団と東京、これらのキーワードを重ねあわせると浮かび上がる不思議な交錯には何かの縁を感じずにはいられない。この奇妙な偶然に導かれて演奏されるマーラーは彼らにとっても特別なものとなると信じ、いずれも名演を期待しようではないか。
●トリフォニー・シリーズ
会場:すみだトリフォニーホール 大ホール
日時:2016年7月1日(金) 19:15開演、2日(土) 14:00開演
●サントリーホール・シリーズ
会場:サントリーホール 大ホール
日時:2016年7月4日(月) 19:15開演
独唱:
罪深き女:エミリー・マギー
懺悔する女:ユリアーネ・バンゼ
栄光の聖母:市原 愛
サマリアの女:加納 悦子
エジプトのマリア:ゲルヒルト・ロンベルガー
マリア崇敬の博士:サイモン・オニール
法悦の教父:マイケル・ナギー
瞑想する教父:シェン・ヤン
合唱:栗友会合唱団(合唱指揮 栗山文昭)
児童合唱:東京少年少女合唱隊(児童合唱指揮 長谷川久恵)
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
マーラー:交響曲第八番 変ホ長調
https://www.njp.or.jp/
日時:2016年9月8日(木) 19:00開演
会場:NHKホール
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ソプラノ:エリン・ウォール、アンジェラ・ミード、クラウディア・ボイル
アルト:カタリーナ・ダライマン、アンネリー・ペーボ
テノール:ミヒャエル・シャーデ
バリトン:ミヒャエル・ナジ
バス:アイン・アンガー
合唱:新国立劇場合唱団、栗友会合唱団
児童合唱:NHK東京児童合唱団
管弦楽:NHK交響楽団
曲目:
マーラー:交響曲第八番 変ホ長調
http://www.nhkso.or.jp/index.php