過去最大にして最高、謎多い桃山の巨匠に迫る『海北友松展』をレポート
桃山時代から江戸時代を生きた画家で、長谷川等伯、狩野永徳らと並んで天才と称される海北友松。しかしまだまだ謎の多い絵師とあって、彼の名を知る人は少ないかもしれない。現在、開催中の『京都国立博物館開館120周年記念 海北友松展』は、友松の名品はもちろんのこと、彼の人物像に思いめぐらすことのできる内容となっている。過去に彼の展覧会が開かれたのは昭和14年(同じく京都国立博物館)、2回目が昭和47年、そして昭和61年、平成9年の計4回。5回目となる今回の出展数は76点で、そのうち17点は重要文化財だ。過去最大規模にして最高の友松展といっても過言ではないだろう。数少ない初期の作品や初公開作品、自筆の文書など、彼の作品を初めてみる人にも、ファンにもじっくりと味わえる。さぁ、内覧会の様子とともに、みどころをいくつか見ていこう。
柏に猿図
狩野派とはいいきれない多様性
海北友松は、滋賀の武士の家に生まれた。しかし彼が3歳の時に父親が戦死し、京都の東福寺に預けられることになる。禅僧として活動するが、和尚の勧めで狩野派の門をたたいたと言われている。狩野元信(または永徳に習ったのではないかとも言われている)を師としたことが頷ける初期作品や、源氏物語を描いていたであろうと裏付けされる絵詞も現存している。若くして様々なスタイルの絵を描くことができる器用さを持っていたことを知ることができよう。海北友松とはどんな人物だったのだろう……そんなことを思っていると、目の前に現れたのは『海北友松夫婦像』。妻の妙貞とくつろいでいる人こそ、友松である。できあがったばかりの絵を二人で眺めて、何やら批評しているのか、そういいながらも話はそれて、よもやま話でもしているのか……、作品からまったりした空気が流れてくる。この作品を描いたのは、息子の友雪。そして作品の上部分の賛(書)には友松の偉業が書かれている。この部分を書いたのは友雪の子供、つまり友松の孫の友竹である。この箇所は解説がされているので、子供と孫が伝えたかった友松の功績をぜひ読んでみてほしい。
松竹梅図襖の梅図
龍といえば友松
狩野永徳が亡くなり、友松は狩野派を離れる。それ以降、友松はとくに派閥を作って群れることもなく、自己の想いを筆に託していくのであった。
じっくり鑑賞できる空間に『雲龍図』がずらり。
特に龍画が得意であり、日本国内どころか、隣国朝鮮にも評判は広がっていたようである。実際に友松の龍図がほしいと記された書状が展示されている。この龍だけの展示室は、龍とその周りを荒れ狂う渦巻く風。龍だけが対象ではなく、強い風や、妖しい音など、実際に目では見えないものも、友松は対象物として画面に描いている。
こちらも『雲龍図』の展示室
建仁寺、北野天満宮、勸修寺(かじゅうじ)などに備えられている友松の龍図。本展では、建仁寺の雲竜図が展示されているほか、龍だけを3面に配置した展示室も設けられている。彼の描く龍図は、空白の部分がない。この龍だけの展示室は、他の部屋に比べて照明を落としているため、電気などもちろんなかった時代を想像し、体感してほしい。
静かで満ちている
今回のみどころの1つはラストを飾る『月下渓流図屏風』である。薄暗い中での雲龍図をみて高ぶった気持ちが一気に、なんとも言えない淡い空気に包まれるように落ち着いていく。
月下渓流図屏風(左隻) 海北友松筆 ネルソン・アトキンズ美術館(米国) 桃山時代 17世紀 通期展示 Photography by Mel McLean, courtesy of the Nelson-Atkins Museum of Art
画面いっぱいの迫力から一転、余白が美しい作品である。この作品は、昭和33年アメリカのネルソン・アトキンズ美術館に所蔵されて初めての里帰りとなっている。60年ぶりの日本での公開作品なのだ。この作品がもつ、優雅で何も描かれていない部分から滲み出る表情。最後の天才と言われた友松の到達点なのである。
紹介した作品の他にも、彼と文化人との交流の記録や、大和絵など、十分に見応えがある展覧会となっている。ただ作品を楽しむだけでなく、友松とはどんな人物であったのかなど、自分なりに分析しながら観るのも1つの鑑賞法ではないだろうか。
『源氏物語絵詞』 源氏物語を描いていたということだが、書の部分のみ残っている。
婦女琴棋書画図屏風
取材・文=かわゆか 撮影=K兄