シンセ番長・齋藤久師が送る愛と狂気の大人気コラム第三十二沼(だいさんじゅうにしょう) 『左沼!』
「welcome to THE沼!」
沼。
皆さんはこの言葉にどのようなイメージをお持ちだろうか?
私の中の沼といえば、足を取られたら、底なしの泥の深みへゆっくりとゆっくりと引きずり込まれ、抵抗すればするほど強く深くなすすべもなく、息をしたまま意識を抹消されるという恐怖のイメージだ。
一方、ある物事に心奪われ、取り憑かれたようにはまり込み、
その世界にどっぷりと溺れることを
「沼」
という言葉で比喩される。
底なしの「収集」が愛と快感というある種の麻痺を伴い増幅する。
これは病か苦行か、あるいは究極の癒しなのか。
毒のスパイスをたっぷり含んだあらゆる世界の「沼」をご紹介しよう。
第32沼(だい32しょう) 『左沼!』
私は昔からなぜか左右でいうと左側に縁があったようだ。
左側の悲劇
幼稚園の頃、近所で焚き火をしていた。
当時は住宅地で焚き火をすることがあまり珍しい事ではなかった。
私は轟々と燃え盛る焚き火の炎の中に、足元に落ちていた空の牛乳瓶を投げ込んでみた。
しばらくすると
バンッ!
というものスゴイ爆発音と共に牛乳瓶が破裂し飛散した。
そして、その破片の一欠片が
私のサンダルを履いたほぼ素足の左足の指に落ちた。
その時の火傷は今でも残っている。
小学生になった私は、友達と追いかけっこをしていて、ものスゴイ速さで逃げていた。
そして、そのままの勢いで階段下の斜めのコンクリートに激突し、
左の頭を
ザクっ
と切り、血だらけに。
5針も縫う大怪我をした。
その傷跡(禿げ)は未だに残っている。
ある日、林檎が食べたかった私は、使った事もない包丁を持ち出し、林檎では無く己の中指の第一関節を皮一枚で繋がるくらい切断した。
部屋中血まみれになったが、なんとか指は繋がった。
モチロン、いまだにその傷跡はくっきりと残っている。
更に近所の通称グルグル公園(高さ5mほどの螺旋の滑り台がある)頂上から転落した時、たまたま左足から落下。
母上に怒られる恐怖から何もなかったふりを貫き通したが、おそらく確実に骨折していたであろう。
現在でも左足が若干内股の状態だ。(雪が降った時に自分の足跡を見ると一目瞭然だ)
小学校高学年になると、更に遊びの過激度が増す。
友達と作っていた材木置き場の秘密基地。
ある日遊びにいくと、正面玄関が木でバッテンに打ち付けられていた。
きっと材木屋のオッさんにバレて入り口を閉められたのだ。
そんな事を想定し作っておいた裏口(狭く、高い位置にある)によじ登り、真っ暗な秘密基地内に飛び降りた。
すると、左膝あたりがなんだか生温い。
外に出てみると足は血まみれになり、骨まで見える程深く切っていた。
それを見た瞬間気を失った。
その傷跡も未だに生々しく残っている。
小学6年の時、空手を習っていた私は背が高い事もあり、高校生と組手をさせられた。
試合が始まり相手の蹴りを跳ねる為に左腕で防御した瞬間
ボキっ
と言う音と共に左手首を骨折し、左手は明後日の方角を向いていた。
中学生になったある冬。
お風呂から素っ裸で出て椅子だと思って座った所が石油ストーブだった。
またもや左尻に大きな火傷を負った。
その傷跡は石油ストーブの天板模様を残したまま、尻に刻まれている。
16才になり、原付免許を取った。
走行中、マフラーの異音に気づき、バイクを停めてマフラーあたりを調べようとした瞬間、
ジュッ!
と言う音とともに、左膝を火傷した。
モチロン、そのメカニカルな模様の傷跡は今現在も残っている。
そのバイクで左路肩を走っていたら、急に左折した車に跳ね飛ばされたが、忍者のような見事な振る舞いで着地した。
しかし、左膝の皿を割った。
初めてのマイカー。
二週間で消火柱に左から激突し大破。
大人になってもまだまだ続く左側の事件
20歳の頃、シンセサイザー(ARP odyssey rev.1)を左足親指に落下させ、爪をはがした。
ある日、ライブ後に酔っ払ったバンドメンバーのシモンズドラムを音源ごとかついで運んだ私は、仙骨ヘルニアをやってしまい、後10年にも渡り左足の痺れに悩まされた。
DAWのやり過ぎで頚椎ヘルニアになり、左肩痙攣の苦痛を5年間に渡り味わった。
大阪名村造船所のライブイベント。
本番寸前、楽屋からステージへの分厚い重厚な鉄のドアに左手中指を挟み粉砕骨折。
血まみれで演奏する。
翌日爪剥がれる。
爪が無事生えた頃、自宅雨戸に再び同左手中指を挟み、爪剥がれる。
お嫁さんを貰った。左利きだった。
友達の殆どが左利きだ。
現在、左膝が腫れている。
原因は定かでは無い。
どうしてこんなにも左側ばかりに事件が起こるのか、
単なる偶然なのか、
それとも・・・・・
あなたもまだまだ遅くはない。
一緒に左側の沼の住人にならないか?