シンセ番長・齋藤久師が送る愛と狂気の大人気コラム・第六十九沼 『テクノロジー沼!』

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2020.4.14

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「welcome to THE沼!」

沼。

皆さんはこの言葉にどのようなイメージをお持ちだろうか?

私の中の沼といえば、足を取られたら、底なしの泥の深みへゆっくりとゆっくりと引きずり込まれ、抵抗すればするほど強く深くなすすべもなく、息をしたまま意識を抹消されるという恐怖のイメージだ。

一方、ある物事に心奪われ、取り憑かれたようにはまり込み、その世界にどっぷりと溺れること

という言葉で比喩される。

底なしの「収集」が愛と快感というある種の麻痺を伴い増幅する。

これは病か苦行か、あるいは究極の癒しなのか。

毒のスパイスをたっぷり含んだあらゆる世界の「沼」をご紹介しよう。

第六十九沼 『テクノロジー沼!』

4月に雪が降り、夏には猛暑で人が死ぬ。

私が子供の頃は、どんなに蒸し暑い夏でも、窓を開けて蚊帳(かや)を張る。それでも侵入する蚊にはブタの陶器から煙立つ蚊取り線香で快適な夜を過ごせた。

もちろん、白いタンクトップにパンツ一丁だ。

 

現代であれば、夜中に窓を開けて寝るなど、セキュリティー上大問題があるように思うが、逆におおっぴろげの家に入る泥棒は少なかったハズだ。近所がみんなそうなんだから。

私の家にエアコンが入ったのは1977年当時としては早い方だった。

 

それまでは、団扇や扇風機で十分に暑さがしのげた。

 

いつ頃からだろうか、一部屋エアコン一台の時代になると、その快適さと引き換えに、私たちは知らずうちに環境を破壊し始めて久しい。

エアコンは一度使用すると、一年中快適な季節感の中に居られる。中毒性の強い家電である。

 

食糧の世界では、それよりずっと前からビニールハウスというものを作って「季節の食材」から「いつでも食べれる食材」を供給できるシステムを導入していた。

 

でも、冬にスイカを食いたいとは思わない。私は古い人間なのか。

 

テクノロジーによる文明の急激な進歩はとても素晴らしいが、それと同時に私たちは何かを壊しながら、もともと有りもしない偽物の安定した生活を、強引に、そして身勝手に手にしているのではないのかな?

 

私は毎年実験している事がある。

自宅の庭にテントを張り、数ヶ月(最長150日)にわたる屋外生活をしているのだ。

 

そこで肌で得られた情報は、人生の中でもう一度自分と世界を見つめるとても良い機会になっている。

 

外で生活してみると、もともとテクノロジーとは、究極の「怠け推奨方法」を担うのであると感じる。

 

人間は不便の中で、少しでも楽をしよう、効率的にしようとあらゆる発明をし、現代社会は急激なハイテクノロジー化を遂げた。

 

しかし、そこで人々は同時にとても大切なものを失い、そして大きな破壊を繰り返し続けているのも事実だ。

 

全ての事象には意味がある。

 

例えば、咳やくしゃみは身体の中の(ウイルスを含む)異物を外に吐き出すために生き物に備わった本能的機能だ。

 

そう考えると、いろいろと見えてこないかい?

 

現代でも、超進化した現代文明を受け入れず、古代の生活に近い暮らしをしている民族がいるが、彼らはとても眼が良く、耳もいい。おまけに嗅覚に優れ、綺麗で丈夫な歯を持ち、身体能力も並みではない。

更に「気配」を察知できる能力や、どんな遠くに行っても家に戻れる機能が失われる事なく搭載されている。

これは、ほぼ近代テクノロジーに依存していないため、本来人間が持っている素晴らしく研ぎ澄まされた能力を最大限に発揮しているのだ。

つまり、こう言った能力を持ち合わせなければ、即 自分の命を危機に晒す事になるために無くてはならない基本的に人間に搭載されている機能なのだ。

 

しかし、前世紀あたりからの急激なテクノロジー進化は、皮肉にも我々に元々備わった研ぎ澄まされた感覚的能力をことごとく退化させている。環境も破壊しながら。

 

それでもテクノロジーの素晴らしい面は計り知れないほどのワクワク感を我々人間に与える。

 

しかし、すぐに常に目に見えない傷を与え続けている。

文化的なものや、身体的に困っている人たちにテクノロジーをふんだんに使えたら良いね。

 

でも、リスクアセスメントを完全に解析にないまま誕生したテクノロジーは、常に人類を脅かす危険に満ちている。

 

原子力発電などの超効率的なエネルギー供給は、我々の生活に豊かさを与えた反面、「事故」や「処理」という重要な事柄を後手に回し導入したため、各地で甚大な被害を発生させている。

 

エネルギーと言えば、中でも最も身近なところだと、車などの乗り物だ。

 

私は大排気量の車に乗っているので言える立場では無いけれど、確実に大気を汚染している。

 

では、チャリンコにすればいいのか?いや、チャリンコを作るにも大量のエネルギーが必要になる。

 

徒歩が1番だ。

 

あるいは、廃材で作った木舟と竹の棒で運河を行き交えばいい。宮大工さんにたのんで、鉄の釘を使わない船を作ってもらえばいい。

宮大工さんへのお支払いはどうしようか?

私は音楽を作り、演奏し、原稿を執筆して対価を得る。しかし、これには電力が必要だ。

コンピューターも必要だ。

ああ、どうしたものか、私もテクノロジーに支配されている。

ここで出てきたテクノロジーの問題は全てにおいて「エネルギー」に起因する。

つまり、ものを動かしたり、生産するには、人力ではなし得る事のできない大きなエネルギーが必要になるのだ。

例えばガソリンというエネルギー資源には限りがある。だから、その限られたエネルギーを争奪するために戦争が起こっている。

数えきれない程の人々の命が消えていく。

馬が車になった名残で、車のパワーを馬力(ホースパワー)という。だったら車を馬にもどせばいいんじゃないかな?

一度味わった快適な生活レベルを落とす事は並大抵の事ではない。

重いものを軽く運ぶのがテクノロジーの根本であるから、人はその軽さを知ってしまったら重いものなどバカバカしくて持つ気も起きないだろう。

でも、ちょっと考えてみるといい事もたくさんある。

退化してしまった人間の能力を回復させるのにいったいどのくらいの年数がかかるのかは私にはわからない。しかし、人間がテクノロジーによる退化をしてしまったのはここ200年程の事ではないのかな?

人間が本来の能力を取り戻したら1キロメートル先の人の顔が見えて聴覚も優れているので対話ができるかもしれない。

交通手段を車を使わず馬や歩き、または木船に戻す事で、世界的な環境は徐々に回復に向かうのではないかな?

たまに起こる、きょうびのようなメガデス。深く考えずにはいられない。

ただでさえ奇跡的な確率でギリギリ生物が生存できる環境がたもたれているアンバランスな地球をこれ以上壊してはいけない。

すくなくとも、我々は太陽系グループの一員であるという事をもう一度かんがえてみたら、太陽が我々にもたらす益は計り知れないありがたいものだという事がわかるっつーもんだ。

そしてもう一つ私が疑問に思う問題がある。都市生活の中での高層ビル化だ。何で一箇所の面積にスペースを上積みしているのだろう。

少し郊外に出れば、環境を最大限に守りつつ使用出来るありあまる平野があるではないのか?

一般住居の2階建っていうのもスペース有効活用という名の変態行為だ。

横に広げればいいじゃん。都市に群れないで。

地球人って何なんだ?

やっぱり四季のある我が日本では夏にはスイカ、冬には牡蠣鍋を食いたいよね。

許されるなら、私は車から馬に乗り換えるよ。

しかし、もしも人間が全てのテクノロジーを一切排除し、元来備えられた本能的な能力を全て取り戻してしまった時、一つだけ怖い事がある。
それは言語というコミュニケーションテクノロジーも無くなった時、人間は意識と意識で対話する事が出来るはずだ。
 
すると、隠れた「理性」までをも相手に見透かされてしまう恐れが生じる。
 
人を憎しんだり、あるいは攻撃的意識をもった気持ちまで伝わってしまえば争いは確実に起こる。
 
これを泥沼という。

程よく人間らしさ(?)を保ちながら、五感で味わい、テクノロジーを上手に取り入れることが出来たらいいね。

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