《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 15 鶴澤友之助(文楽三味線弾き)
文楽に混乱し苦闘した10年間
文楽研修生としての友之助さんの同期は、のちに人形遣いの桐竹一暢の弟子となる桐竹一徳(現在は廃業)のみ。つまり三味線弾き志望は一人だったが、やはり2000年に歌舞伎研修生となった現在の豊竹芳穂太夫と仲良くなる。その様子は芳穂太夫が本連載のVol.9で語ってくれている(https://spice.eplus.jp/articles/331219)。
「三味線は、初めは少し弾きにくかったけれど、楽器歴が長いのでつかむのは早かったと思います。ただ、マイペース過ぎて、指導にいらしていた(鶴澤)清介師匠から『弾けるんやから、もうちょっと頑張らへんかな』『あんたはこういうのじゃないと、やる気出せへんから』と、2年目で『摂州合邦辻』合邦住家の段の段切(一段の終結部分)を教えてもらって。難しい聴かせどころですが、浄瑠璃がどうこうはまだ分かっていなかったものの、旋律としては一応弾いたんです。そういうのは楽しかったけれど、僕はずっと音楽畑だったからお芝居の楽しさがいまいち分からなくて。逆に芳穂くんは芝居畑で音楽的な教育を受けてこなかったからそっちに苦労していて、お互いに愚痴りながら『頑張ろう』と言い合っていましたね」
2002年、豊澤富助の弟子となり、豊澤龍爾と名乗って国立文楽劇場で初舞台。のちに廃業した兄弟子の龍聿には、芝居面で特に世話になった。
「龍聿さんは日芸の演劇学科出身で、芝居好きが高じて三味線弾きになった人なので、僕は『これ、誰ですか?』『なんて読むんですか?』なんて、頼りまくっていましたね(笑)」
もう一つ、友之助さんが苦闘したのが、ずっと弾いてきた洋楽器とは全く異なる、邦楽器の音程だ。
「プロになって10年ほど、ずっと混乱していました。4分の1音ぐらいの差が気持ち悪くて、『こんな音、自分の辞書にはない』と思いながら無理やり弾いて。気持ち悪さに耐えて弾いているから面白くないし、そのことがちょっと悔しくもあって、辞めるなら面白くなってからにしたい、と思って続けていたんです」
変化が起きたのは、10年を過ぎた頃。
「急に文楽の音が正しいと感じるようになったんです。もう一つの脳ができたというか。2018年に(豊竹)若太夫師匠と(桐竹)勘十郎師匠に声をかけていただき、文楽パートの作曲・演奏を担当した狂言風オペラ『フィガロの結婚』では、作曲部分は義太夫の音程で弾くけれど管弦楽アンサンブルと一緒にモーツァルトを弾く時は西洋の音程で弾いたので、プロのミュージシャンの知り合いが観に来て『なんであんなにすぐ切り替えができるの?』と驚いていました。洋楽器と邦楽器、2つの脳が出来上がったからこそで、そうなるまでに10年かかったんです。文楽のお芝居の部分が面白いと心底思えるようになったのも、やはり10年を過ぎた辺りから。そこからはとても気持ちよく弾けるようになりました」
一人で全てを弾く文楽の三味線は、様々な役割を果たさなければならない。文楽の三味線に通じる低音楽器ながら、他の楽器の下支えすることも多いエレキベースやコントラバスを弾いてきた友之助さんにとって、富助師匠から学んだ演奏スタイルも糧になっている。
「富助師匠は細かく教えるというより、見て覚えろ、というタイプでしたが、前に出る、気迫で押していくような演奏をと教わりました。『気持ちで押せ』と言われたことも印象に残っています。師匠自身、そうした演奏が得意な方ですよね」
2003年7月、天神祭の文楽船にて。人形遣いの吉田文司、三味線の竹澤宗助、鶴澤清志郎と。 提供:鶴澤友之助
≫清友師匠のもとで学び、作曲の才能も開花