片岡仁左衛門と松本幸四郎が交互出演でそれぞれの『沼津』をみせる 『秀山祭九月大歌舞伎』夜の部観劇レポート
『秀山祭九月大歌舞伎』
『秀山祭九月大歌舞伎』が、歌舞伎座で上演中だ。「秀山」は、初世中村吉右衛門の俳名のこと。「秀山祭」とは、初世吉右衛門の功績を顕彰し、芸を受け継ぐべく、二世中村吉右衛門が牽引してきた興行だ。9月恒例の興行となり20年目を迎えた。2021年に二世吉右衛門が他界した後も、ゆかりの俳優たちが初世・二世吉右衛門が得意とした演目を中心に、9月の歌舞伎座を盛り上げている。16時開演「夜の部」をレポートする。
一、雛鶴三番叟(ひなづるさんばそう)
能「翁」をもとにした歌舞伎舞踊の「三番叟」を、女方3人で華やかに踊る。「ヨォ」と響く声に、笛、太鼓が重なり、舞台は厳かにはじまった。中村雀右衛門の千歳が登場すると、清らかな愛らしさが観客の目を引く。歌舞伎座の空気が澄んでいくようだった。中村魁春の翁は、金色の狩衣。ふわっと両手を広げた時、金粉が舞ったような気がした。気のせいにちがいないが、祝福されたような幸せな気持ちになった。そこに自然な拍手が湧いたので、同じ幸せを受け取った人が、あちこちにいるのだろうと想像し、もう一段うれしい気持ちになった。
夜の部『雛鶴三番叟』(左より)三番叟=中村萬壽、翁=中村魁春、千歳=中村雀右衛門
神事のように始まった踊りは、男女の縁を嫋やかに描きはじめる。曲調が変わり、中村萬壽の三番叟へ。片方の手に鈴、もう一方の手に扇。熱を帯びていく演奏を背に、ひと振りひと振りに、祈りと艶が込められているようだった。魁春、萬壽、雀右衛門。円熟の女方3人の舞が、「秀山祭」夜の部のはじまりを寿いだ。
二、伊賀越道中双六 沼津(ぬまづ)
呉服屋十兵衛役に、片岡仁左衛門(Aプロ)と松本幸四郎(Bプロ)がWキャストで出演している。
舞台は、東海道の沼津。賑わう茶店に、旅姿の十兵衛がやってきて、一息つくところから始まる。ひょんなことから荷物持ちを(有料で)かって出てきた老人・平作との珍道中は、のどかなロードムービーだ。十兵衛のスピード展開のラブストーリーから、家族の悲哀、情と忠義の物語へ展開し、思いがけない形で彼らなりの解決に行きつく……。
夜の部『沼津』(左より)呉服屋十兵衛=片岡仁左衛門、平作娘お米=片岡孝太郎
演劇でWキャストといえば、同じ作品のある役を2人が交互に演じる形式をまず思い浮かべる。しかし今月は、仁左衛門と幸四郎で、十兵衛の羽織ものや笠などの扮装だけでなく、茶店の賑わいや大道具まで変わってくる。ひとつの興行を2 人で分担するのではなく、今回は「ひとつの興行の中で、2つの上演を交互に見せる」試みだ。コスパは後回しの贅沢なひと月。
夜の部『沼津』呉服屋十兵衛=片岡仁左衛門
仁左衛門の十兵衛は、可愛らしかった。笑っても困っても、美しい顔が優しく破顔すると、つられて柔らかくて温かい気持ちになる。呉服商として、お客さんからさぞ愛されているに違いない。平作の家を後にしようと草鞋を履く時、お米に向けた目にはこれ以上ないほどの情がこもっていた。そんな目でみていたら、いつ気づかれても不思議ではない。それほど素直で情深いからこそ、終盤の覚悟がいっそう悲痛に感じられた。
夜の部『沼津』呉服屋十兵衛=松本幸四郎
幸四郎の十兵衛は、荷物持ちの安兵衛が言うように、いつもは綺麗な宿を探していそうな佇まい。親しみやすさの中にも、すっと通った芯があり、同業からの信頼が厚そうな呉服商だった。真実に気づいてからは、それを隠そうとする覚悟に漢気が滲む。事情を知らなければ、冷たい人間に感じられそうな瞬間さえあり、十兵衛の孤独が深く描き出されるよう。幕切れへ向かうほど、内へ溜めた悲しさが熱く溢れるようだった。
ふたりの十兵衛を相手に、すべての日程で、雲助の平作を中村歌六、娘のお米を片岡孝太郎、孫八を中村隼人がつとめる。一方、荷持安兵衛は、仁左衛門の十兵衛では片岡松之助、幸四郎の十兵衛では中村吉之丞がつとめる。両プログラムで、物語をひっぱり続けるのが、歌六の演じる平作だ。印象的だった場面のひとつが、客席通路を歩く演出だ。舞台上の俳優が、自分が歩くのと同じフロアを歩く。それだけでもサービスタイムのような楽しさがある。ただ歌六の平作が通った時、舞台から飛び出してきたというよりも、舞台の『沼津』の空気をそのままの濃度で客席へ運びこみ、それに包まれるような感覚を覚えた。十兵衛と平作が共に歩いたひとときが、一観客にとっても忘れたくない思い出となった。
夜の部『沼津』左より、雲助平作=中村歌六、呉服屋十兵衛=松本幸四郎
クライマックスは、二世吉右衛門とも多くの舞台をともにした人間国宝の竹本葵太夫が義太夫を語る。平作と十兵衛の情と覚悟が、お互いを追い詰めていく。仁左衛門と幸四郎、十兵衛による『沼津』は、見比べの面白さをこえて、それぞれの十兵衛の物語として立ち上がっていた。
三、銘作左小刀 京人形(きょうにんぎょう)
主人公は、江戸時代に実在したと伝わる、名工・左甚五郎(ひだり・じんごろう)。甚五郎(尾上松緑)が、花を手に上機嫌で家へ帰ってくるところから、お芝居ははじまる。女房おとく(坂東新悟)には、「身請けした太夫」とお酒を飲むのだとゴキゲンな様子。しかしその太夫とは、甚五郎が彫った傾城の人形(中村時蔵)のこと。廓の小車大夫に惚れた甚五郎が、生き写しのような人形を作ったのだ。おとくが仲居役をつとめ、揚屋のお座敷にいるかのように、人形を相手にお酒を飲み始める。やがて人形が動きはじめて……。
甚五郎の“遊び”は、紙一重でだいぶホラー感の強い光景にもなりうる。しかし、そんな余計な思いが入る隙は一瞬もなかった。理由のひとつが、松緑の甚五郎がみせる明るさだ。花道の登場は、軽快な足どり。女房おとくと話す時も、後ろめたさを微塵も感じさせなかった。甚五郎のわくわくが、観客をもウキウキとさせ、大らかさの下地を作っていた。
女房おとくもノリが良い。日頃から甚五郎に大事にされ、仲良く暮らしているのだろう。そうでなければ、夫が執心する太夫の人形を相手に、揚屋ごっこなんて付き合えたものではない。新悟のおとくの気立ての良さから、思いがけず甚五郎の愛妻ぶりを想像した。
夜の部『京人形』(左より)左甚五郎=尾上松緑、京人形の精=中村時蔵
「京人形」と書かれた大きな木箱のふたが開いた時、時蔵の人形姿は、客席のため息を誘った。甚五郎、本当に腕がいいのだな、仕事が美しいのだな、と思わせる人形だ。甚五郎を真似て動き始めると、高嶺の花の太夫にちぐはぐした動きが加わり可笑しみを生む。時蔵は、物である人形と、魂の入った甚五郎モードの人形と、太夫の心が入った人形を、自在に行き来する。やがて廓の風情をしっとりと漂わせ、かと思えばまた賑やかに。世話物のように始まり、踊りで楽しませ、めでたしめでたし…と思われたところへ、栗山大蔵(中村吉之丞)、娘おみつ実は義照妹井筒姫(尾上辰之助)、続いて奴の照平(坂東亀蔵)が登場してさらなる展開をみせる。姫も奴もキャラクターがあまりにしっくりきているから、唐突感はあっても異物感がない。最後は大勢の大工たちを相手にした、甚五郎ならではの立廻りへ。松緑と時蔵を筆頭に、俳優と常磐津と長唄の息のあった一幕は、喝采で結ばれた。
四、一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり) 奥殿
市川染五郎が、一條大蔵長成をつとめる。染五郎の高祖父・初世吉右衛門、大叔父・二世中村吉右衛門の当たり役であり、祖父の松本白鸚、父の幸四郎も得意とする大役だ。
物語の舞台は、平家が栄華を誇った時代。大蔵卿の屋敷で、夜、吉岡鬼次郎(中村歌昇)と女房お京(中村種之助)が落ちあう。常盤御前(中村雀右衛門)は、牛若丸の母でありながら、夫を亡くした後は敵対する平清盛の側室となり、今は“阿呆”で知られる大蔵卿の妻として暮していた。常盤御前に、源氏再興の気持ちはないのか。鬼次郎とお京は真意を探ろうとする。毎晩、楊弓遊びに耽っていると思われた常盤御前だが、実は……。
夜の部『一條大蔵譚 奥殿』(左より)一條大蔵長成=市川染五郎、常盤御前=中村雀右衛門
染五郎にとって、21歳の若さで初めて挑む大蔵卿だ。御簾の向こうから響かせた声の豊かさに、まず圧倒された。姿を表した染五郎の大蔵卿は、堂々としていた。勢いよく八剣勘解由を仕留め、舞台を大きく使い、颯爽と、華やかに踊る。大蔵卿の家臣の勘解由は、幸四郎。「死んでも褒美の金がほしい」という台詞が、そのまま自己紹介になるような敵役だ。『逆櫓』の樋口次郎兼光、『沼津』の呉服屋十兵衛をつとめた俳優が、同じ月に八剣勘解由もつとめるという、稀有な番組。これを楽しそうに引き受けつとめあげる、幸四郎の懐の深さとバイタリティも見どころだ。妻・鳴瀬は市川高麗蔵がつとめた。
夜の部『一條大蔵譚 奥殿』(左より)お京=中村種之助、吉岡鬼次郎=中村歌昇、八剣勘解由=松本幸四郎
幕切れで、大蔵卿は阿呆に戻っていく。笑いながら泣き、泣きながら笑っていた。キャリアを重ねた俳優の大蔵卿を観ると、「この先も本心を隠し、阿呆として生きていくのだろう」と想像し、「名残惜しい」では済まない寂しさに襲われることがある。しかし染五郎の大蔵卿では、無意識に、21歳という演じ手の若さを役に重ねていた。いつか本来の自分で生きられる日がくるかもしれない。きてほしい。別の未来を願う気持ちが生まれたことが新鮮だった。この先、染五郎が何十年にもわたり向き合うに違いない役。だからこそ、スタート地点となる最初の一條大蔵卿を見逃さないでほしい。
『秀山祭九月大歌舞伎』は、2026年9月26日(土)まで。
取材・文=塚田史香
公演情報
会場:歌舞伎座
昼の部 午前11時~
一、春調娘七種(はるのしらべむすめななくさ)
三社祭(さんじゃまつり)
〈春調娘七種〉
曽我五郎:市川染五郎
曽我十郎:市川團子
静御前:尾上辰之助
〈三社祭〉
悪玉:中村歌昇
善玉:中村種之助
二、ひらかな盛衰記(ひらがなせいすいき)
大津宿屋
笹引き
逆櫓
〈大津宿屋・笹引き〉
腰元お筆:八代目尾上菊五郎
鎌田隼人:中村錦之助
番場の忠太:中村萬太郎
駒若丸:中村秀乃介
宿屋亭主:市村橘太郎
山吹御前:上村吉弥
船頭権四郎:中村又五郎
およし:中村雀右衛門
〈逆櫓〉
船頭松右衛門実は樋口次郎兼光:松本幸四郎
畠山重忠:尾上松緑
お筆:八代目尾上菊五郎
船頭明神丸富蔵:市川染五郎
同 灘吉九郎作:尾上辰之助
同 日吉丸又六:市川團子
遠見の松右衛門:中村種太郎
駒若丸:中村秀乃介
畠山の臣:澤村宗之助
同:大谷廣太郎
同:市川男寅
同:中村吉之丞
所化雲念:松本錦吾
船頭権四郎:中村又五郎
およし:中村雀右衛門
夜の部 午後4時~
一、雛鶴三番叟(ひなづるさんばそう)
翁:中村魁春
千歳:中村雀右衛門
三番叟:中村萬壽
伊賀越道中双六
二、沼津(ぬまづ)
沼津棒鼻の場
平作住居の場
千本松原の場
呉服屋十兵衛:片岡仁左衛門(Aプロ)
:松本幸四郎(Bプロ)
平作娘お米:片岡孝太郎
荷持安兵衛:片岡松之助(Aプロ)
:中村吉之丞(Bプロ)
池添孫八:中村隼人
雲助平作:中村歌六
※Aプロ(9月2・3・7・8・12・13・16・17・21・22・25・26日)
※Bプロ(9月4・5・6・10・11・14・15・19・20・23・24日)
銘作左小刀
三、京人形(きょうにんぎょう)
左甚五郎:尾上松緑
京人形の精:中村時蔵
娘おみつ実は義照妹井筒姫:尾上辰之助
栗山大蔵:中村吉之丞
女房おとく:坂東新悟
奴照平:坂東亀蔵
奥殿
一條大蔵長成:市川染五郎
吉岡鬼次郎:中村歌昇
お京:中村種之助
鳴瀬:市川高麗蔵
八剣勘解由:松本幸四郎
常盤御前:中村雀右衛門