【スペシャル対談】チャップリンの映画『街の灯』、舞台化の醍醐味とは? 与次郎役(文楽)人形遣い・桐竹勘十郎×トランプ役(バレエ)奥村康祐
(左から)桐竹勘十郎、奥村康祐
今年の日本の舞台業界は、チャップリンの映画『街の灯』が熱い! 8月に文楽、10月にバレエで、ともに新作として舞台化されるという“当たり年”なのだから。8月の文楽『まちの灯』公演中にスペシャルな対談が、大阪の国立文楽劇場で実現。映画でチャップリンが演じたキャラクターを、文楽で与次郎役として表現した人形遣いの桐竹勘十郎と、バレエでトランプ役として踊る奥村康祐だ。
言葉を発せずに表現すること
ーー文楽は大阪の芸能。勘十郎さんは大阪府出身ですが、奥村さんも大阪のご出身なんですよね。
奥村:はい。大阪市鶴見区です。今は移ってしまったのですが、幼い頃は、文楽劇場のすぐそば、生玉神社の坂を降りたところ(天王寺区生玉寺町)に、母(地主薫)がやっている地主薫バレエ団のお稽古場があって、ずっとそこで稽古していたので、懐かしいです。
勘十郎:そうでしたか。
奥村:それなのに、恥ずかしながら文楽は、学生時分に学校教育の一環で観に行ったことがあるくらいで。対談させていただくにあたって、事前に勘十郎さんが八重垣姫を遣っていらっしゃる『本朝廿四孝』の映像を拝見したら、指先の動き、目の使い方などが本当に繊細でものすごく感動して、「なんでこれまで観なかったんだ?」と。見ているうちにどんどん人形であることを忘れるし、人形の横に勘十郎さんがいるのもまるで見えないような瞬間があって。もう一つ感動したのは、バレエを踊っていても一歩引いて俯瞰して自分を見ているようなところがあるのですが、文楽の人形を動かすことにもそれと似たところを感じて。両方とも、言葉を発しないですし。ちょうど新国立劇場バレエ団で『人魚姫』の魔女の役を踊るところだったので、何回も巻き戻して拝見して、女性らしい仕草など参考にさせていただいたんです。
(左の写真)新国立劇場バレエ団『人魚姫』より。中央が魔女役の奥村康祐 撮影:鹿摩隆司 提供:新国立劇場 (右の写真)奥村康祐
勘十郎:確かに言葉を出さないというのは同じですね。文楽も、太夫の語りと三味線の演奏がない時は、よく考えたら僕らがやっていることはパントマイム、昔の無声映画と一緒。人形の首(かしら)は小さいですから、目などを動かして表情を変えることもありますが、客席のどこからでもよく見えるかというと、見えないんですよ。結局は全身を動かすことで表情を出している。肩をどれくらい落とすか、落とした時の首はどれくらい傾けるか。そういう角度の組み合わせみたいなところがあるのですが、僕も勉強不足であんまりバレエのことはわからないんですけども、身体で全部表現して自分は何も喋らないのが、すごいですよね。
奥村:いやいや、文楽はそれの極みです。『まちの灯』を生で拝見しましたが、本当に素晴らしくて。今、人形を拝見しても本当に小さいですが、舞台ではもっともっと大きく見えました。それはやっぱり見せ方。ほんの少しの動き、本当に小さな動きの組み合わせが効果的なんですよね。ダンサーも、いいダンサーは大きく見えるけれど、未熟なダンサーは小さく見えてしまうんです。
勘十郎:いかに大きく見せるかという世界ですので。人形の衣裳は人形遣いが自分で全部着付けするんですが、衣裳の中心となる胴(どう)にどんな大きさを選ぶかも、遣い手に任されているんです。若い頃はつい大きな胴で作ってしまうけれど、小さく作って大きく見せろと、よく師匠や先輩方に言われました。「芸で大きく見せんねん」と。
ーー実際、文楽『まちの灯』の与次郎も、ちょび髭があったり眉が動いたりというのも面白いけれど、それ以上にしょんぼりしている時の可哀想な姿や溺れている時の面白い動きなどが魅力的でした。
勘十郎:溺れる場面は本当に大変なんですよ。水の下は2尺8寸、85センチくらいしかなく、そこを、水の中に一度隠れたりまた出たりと滑らかに動かなければならないんです。足腰にかなり来ています(笑)。
(左の写真)『まちの灯』与次郎の人形(右の写真)桐竹勘十郎
チャップリンを目指し、日々進化
ーー勘十郎さんは『街の灯』のチャプリンがやった役をやるっていう風になった時にどういう研究をされたんですか。
勘十郎:そんなに偉そうに言えるほど研究はしてないんですけど、僕はずっとチャップリンが好きで、映画もほとんど見ているんです。文楽では人形の足を持つ足遣い、人形の左手を遣う左遣い、そして最後に人形の首(かしら)と右手を遣う主遣いになるんですが、僕がまだ若い足遣いだった頃、チャップリンの映画『黄金狂時代』の、パンにフォークを刺して足のように動かす場面を観て、ショックを受けて。
奥村:ああ、有名なシーンですよね!
勘十郎:あの人は人形遣いやないのになんであれができるのか、僕は人形遣いやのにまだまともに足も遣えないなんて恥ずかしい!と。それから一生懸命頑張りました。あの映画に出会えてよかった。「なんであんなに見事に足に見えるの? なんで踊っているように見えるの?」って考えるのが良い勉強になったんです。動きも非常に面白いですし、素晴らしいなと。『街の灯』の作曲も手がけていますし、チャップリンは天才ですよね。
ーーそのイメージを、今回も頭のどこかに置きながら遣ったのでしょうか?
勘十郎:基本的にはチャップリンのイメージというのは僕の中にありますが、久しく見てなかったのでDVDを取り寄せてもう一度観ました。さあ、それをどうするか。ここなんですよ。同じことはとてもできませんが、初日からじわじわとチャップリンに近づくように……一気には無理ですけれども、初日から千秋楽まで、多分毎日違っていると思います。昨日も相撲の場面の動きなどをちょっと変えました。
ーー動きを変えると言っても、文楽は三人遣いですから連携が必要です。
勘十郎:はい。文楽ではいつも、主遣いが左遣いと足遣いに合図を出して動くんです。合図がきちんと受け取れる人なら、足遣いも左遣いも「こういう風に変える」と言わなくてもついてこられるはずで、それは新作と言えど変わりません。
奥村:すごいなあ。
奥村康祐
勘十郎:毎日同じことをやっていると、気持ちが緩んでくる。主遣いも「あ、こいつ油断しとるな」と分かるんです。だから左遣いや足遣いをやっていると、主遣いの師匠に急に違うことをされることがあります。その瞬間、合図を見逃したらもう終わりですから、ものすごい神経を使う。特に左遣いは、絶対によそ見はできないですよ。
ーーそうやって左遣いとして鍛えられる経験が、その人が主遣いになる時にも生きてくるのでしょうね。バレエは三人遣いではないですが、特に男性ダンサーは女性ダンサーをリフトしたりサポートしたりしますから、どこか通じるところがあるのではないでしょうか。
奥村:そうですね。リフトやサポートなどは女性のダンサーがメインになるので、女性が違うことをしたら男性は合わせます。その方がバンッと勢いよくいったらそれに従う。ちょっとしたタイミングや音の取り方も、日によって違います。そういう意味では、左遣いの方のようにずっと女性を集中して見ていなくてはならない瞬間がありますね。一方、演技のシーンなどは自由度が高いから、相手に反応しつつ、こちらにもこちらの感情があるので、それをその都度合わせていく感じでしょうか。
ーー舞台ではジャンルを問わず、表現する情熱と、冷静で客観的な感覚の両方がないとできないところがありそうです。
勘十郎:僕も人形を遣っている時はもう一人、分身が近くにいてる感覚ですね。
桐竹勘十郎
奥村:『本朝廿四孝』の映像を観た時にそれがわかって、すごいなと思ったんです。もう本当に達観されているくらいの感じなのに、今うかがったらまだまだ研究して、毎日成長しようとされているので……本当に、やっぱり人間国宝って素晴らしいですね!
勘十郎:いえいえ(笑)。有難うございます。
奥村:僕は本当に、もっとたくさんの人に文楽を観てもらいたい、広めたいなって思ったんです。「こんなにハイレベルなことをしてるのに、何で皆気づいていないんだ!」って思って。僕も実際、今まで気づいていなかったからもったいないことしたと思っています。これからも本当に観に行こうと思っていますし、まだまだ進化しようとされていることにも驚いて、恐ろしいなと感じました。
大切なのは、技術と心
ーー10月には新作バレエ『街の灯』が開幕します。
勘十郎:全部、振付が決まっているんですか? 自分で考えるところもあるんでしょうか?
奥村:振付はこれからですが、自分なりの工夫もしたいと思っています。ポスター撮影でも僕は色々と工夫をして、例えば杖をしならせたい!などとこだわりました。本当はもっとしならせたかったんですけど、あんまりやると折れるからやめてくれと言われて(笑)。
勘十郎:僕、チャップリンが使ったものと同じ杖を持ったことがあるんですけど、硬くなくてキュッと押すと曲がるので、普通のステッキとしては使えないんですよ。『まちの灯』の脚本・演出をしてくれた大野裕之さんは日本チャップリン協会の会長で、チャップリンが買った10本のうちの一つ、撮影には使わなかったものを持っているんです。昔、ロサンゼルスかどこかでお土産で売ってたステッキらしいです。本当にぐにゃっと曲がるので、面白かったです。
奥村:ポスター撮影の時のメイクは、チャップリンの写真や映像を参考にしたのですが、色々と見ていくと演目とシーンによって、眉毛の高さが変わっているんです。そんなところまで工夫しているのか!と驚きました。
新国立劇場バレエ団『街の灯』
勘十郎:僕らも古典の演目、『本朝廿四孝』もそうですが、どなたがやっても大きくは変わらない。まず、曲は絶対に変えられませんし、言葉も何百年も前からある本で、カットすることはたまにありますが、一字一句自分勝手に変えることはないんです。その中で、人形は工夫ができる余地が多く残っている。ここが楽しいですね。「うちの師匠はこうしたけども、あれはうちの師匠がやったからいいんで、僕があれをやっても多分あかんやろ」というところは自分流でやるんです。まずは師匠や先輩を真似するところから入りましたけども、師匠からも「わしの真似なんかできへん」と言われ、本当にできなくて、これはいかんなと途中から切り替えて、目標が師匠やなしに自分流の動きを作ることに変えたんですよ。それから非常に気が楽になりましたね。
奥村:すごくよくわかります。バレエも、振付も音楽も決まっていて、変えられるのは人形の代わりに自分本体だけ。これを自分がどうやって変えていくかですね。あと、人間はみんな違うので、もちろん僕も欧米のダンサーのように小さな顔、長い手足で生まれたかったけど、それを変えることはできない。若い頃は真似して真似して努力したんですけど、やっぱりある時、自分の身体でどういう風に見えるか、どう使えるかということを、人形と同じように意識するようになりました。
ーーダンサーの方にも様々なタイプがいらっしゃいますが、ご自身としては、例えばコンプレックスがある時から強みや個性だと思えるようになったという経験はありますか?
奥村:僕は色々な役を踊っていて、例えば次はチャップリンの役ですが、王子も女王も踊るし、仏像の役をやったこともあります。違う役だけれども踊るのはこの身体しかないので、コンプレックスを上げればキリがないくらいだけれど、とにかくどうすれば目指すものを見せられるかというところに集中しています。王子を踊る時、そりゃあ、背が高くてヨーロッパ系の顔なら王子に見えるのに対して、僕はパット見、海外の王子にはなかなか見えないかもしれない。それはもう本当に振る舞い、動き方で、観ているうちに自然とそう見えるように持っていくのが自分の仕事だと思ってやっています。
勘十郎:僕も人形遣いとして条件がいいわけではないんです。背も低いし、身体も柔らかくないし。体力もなかったですし。主遣いは高下駄を履いて遣うのですが、大きな人形になるとほかの人より高い下駄を履かないといけない。文楽に入ったのは中学2年生の時でしたが、最初に足を持ったのが鎧人形で、本当にもう重たくて足が震えて。でもやっているうちにどないにかなるものでね。この『本朝廿四孝』の八重垣姫のようなお姫さんの人形を通称「赤姫」と言うんですが、不思議なことに若い人が勉強会などで遣うと、段々、お姫さんに見えなくなるんですよ。人形は悪くないのに、赤姫の立ち居振る舞いになっていないから。これが怖い。僕はいつも若い人に、同じ呼吸してなあかんで、と言います。お姫さんが今呼吸しているその呼吸を自分もしているか? 多分ほとんどの若手はしていません。しんどくても、はあはあしながら遣っていたらお姫さんに見えない。もっと静かに大きく吸うて静かに大きく吐く。で、何か事件があったら「ハッ」。呼吸は常に変わるはずやでと、言っています。
奥村:本当に、勘十郎さんの人形にはすごく呼吸が見えました!
勘十郎:僕は、手負いの役が好きなんです。矢が刺さっているとか、切腹しているとか。呼吸が刻々と変わって最後はこと切れる。そこそこへ行くまでみんなじーっとしている。歌舞伎役者さんは顔を見せるために上げはるという決まりがあるようですが、僕はそれを人形でやっている人を見ると、「あんなとこ突かれてあんな格好でじっとおれるか」と言います。文楽はそこはもっとリアルに、刺されてもそれでも呼吸をしていて、何か一言言うたら呼吸が速くなる、また静まる……。それを表現できる手負いが、大好きなんですよ。
奥村:僕も舞台でよく死んでいます(笑)。たとえば『マノン』という作品のレスコー役は最後撃たれて死ぬんです。最初、悪巧みする役として出てきて、途中で酔っ払いになって泥酔したままずっと踊っていて、最後はボコボコにされたところから撃たれて死ぬんですけれども。
勘十郎 泥酔で踊るんですか?
奥村 そうなんです。振りも完全に泥酔したような踊りで。でも本人は酔っているつもりはないのですが身体が言うことを聞かないというような振りなので、その頃合いがすごく難しいんです。気分は高揚していて、でも目はちょっとうつろで焦点が合っていないというような。それも本当に呼吸がすごく大事です。僕は若い時にもその踊りをやったことがあるのですが、技術的にも難しくて、酔った感覚の動きとリズム感で踊らないとダメなんですが、やっぱり回ったり跳んだりする時にどうしてもいつもの呼吸になってしまうんです。
勘十郎:いやー、難しいやろなあ。僕、泥酔は得意ですね。