新国立劇場『ワルキューレ』名唱の饗宴で初日開幕!【シリーズ『ワルキューレ』#6】

レポート
クラシック
舞台
2016.10.4
新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)


リヒャルト・ワーグナー作曲の楽劇「ニーベルングの指環」第一日、『ワルキューレ』が2016/2017シーズン新国立劇場オペラの開幕公演だ。「ワルキューレの騎行」や第一幕、第三幕の大詰めなどは抜粋でもよく演奏され、それらが映画やテレビなどでも使われるワーグナー最大の人気作のひとつである。鬼才ゲッツ・フリードリヒ最後の「指環」は、2015年の『ラインの黄金』に続いて今回の『ワルキューレ』、そしてシーズンの最終公演となる来年6月の『ジークフリート』、そして先日には新シーズンの開幕公演として来年の10月に第三日『神々の黄昏』が上演されることが決まっている。

直前に行われた公開リハーサルも大好評で迎えられた新国立劇場の新しい『ワルキューレ』、初日の公演は、衣替えには少し暑すぎる好天の10月2日の昼下がりに、先日来各地で上演されているワーグナー愛好家、開幕を待っていたオペラ愛好家が場内を埋めたオペラパレスで開幕した。シーズンラインアップを発表した会見で”『ラインの黄金』の経験を踏まえてよりいい上演にしたい”と語っていた飯守泰次郎新国立劇場オペラ芸術監督の意気込みは熱く、しかし演奏や解釈については「ぜひ上演を聴いていただきたい」と謙虚に、しかし言外にその強い自信を感じさせてきた。飯守監督とも交遊のあったフリードリヒ最後のプロダクション、名歌手を揃えた新国立劇場としては二つめとなる「指環」チクルスは、この日の開幕によって本格的にドラマが動き出す。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

それぞれの苦難の末に出会ったヴォータンの血を引く兄妹が禁断の愛に落ちる第一幕は、斜めに傾いたフンディング家で展開される。家の中心にまっすぐそびえ立つトネリコの樹が強調するその傾きは聴衆の心理を否応なく不安定にするものだ。公演に先立って開催されたオペラトークの際に山崎太郎氏が指摘していたとおり”過酷な経験により精神的外傷を抱えた”、いわゆるPTSD的キャラクターとして彼女が描かれることを示すと同時に、この第一幕の雰囲気は彼女が作り出していることも示すだろう(この傾きが舞台前方に作るスペースがジークリンデのシェルター、身を隠す場所としても使われることはその読みを強めるものだ)。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

ジークムントはそんな不安定な家に傷だらけの身一つで転がり込む、腹蔵のない一本気な英雄的キャラクターとして描かれる。その気高さ、素朴さは彼をして死に至らしめることになるのだが、それはまだ先の話だ。フンディングとその一党は昔風の西部劇で見たスタイル、残念ながら誤解の余地なく悪党として示される。敵同士の緊迫感の高いやりとりを経て、お互いそれと知らぬままに惹かれ合う兄妹の触れ合いはあたかも作曲者の『トリスタンとイゾルデ』(1865年)を彷彿とさせる濃密なもの、それ故に幕切れの逃避行は自然な成り行きとしてこの舞台では示される。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

よからぬ状態にあるフンディング家の不幸、不穏をより重く感じさせるかのように舞台は暗く、トネリコの樹に突き刺された魔剣ノートゥングは決定的な瞬間までほとんど客席からは見えない。この幕では大道具的な動きはほぼなく、ワーグナー最後の”アリア”とも言われる「冬の嵐は過ぎ去り」の直前に部屋の壁が木漏れ陽さす森を映す紗幕に変わるのみに留められ、第一幕はどこまでも三人の心理描写に焦点をあてている。幕切れは愛の高揚のままに高まるオーケストラの音楽が響く中、森へと走り去る二人。長大なドラマはまだ始まったばかりだ。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

第二幕は『ワルキューレ』にとって、そして楽劇全体にとって重要な出来事がいくつも起きる、晦渋ではあるが内容の詰まった重要な場面が連続する。”ヴォータンの槍を模った”という舞台中央の長い廊下に見えるセットは、ヴォータンが集めた死せる英雄たちの血で塗られたかのようにまだらな赤で、しかも彼の二枚舌を糾弾するかのようにはじめから二層になっている、しかもその下層にはなにか途中で打ち捨てられた廃墟のような乱雑な装置が置かれている(後にそこが神々に見下されている人間世界であることがわかるのだから、なかなかに厳しい表現だ)。そんな彼の思惑すべてが見えてしまっている舞台ではヴォータンはフリッカの詰問の前に策謀を断念せざるを得ない。前作『ラインの黄金』で布置されたこの世界を彼なりに良い方向に動かさんと諸々の手をうち、第一幕で描かれたドラマが切り開く未来を期待していたヴォータンの詐術は、契約を司る神である以上断念する以外に道がないのだ。神であり妻であるフリッカがヴォータンを問い詰めるならば、彼は人間に産ませた子を優先させることはできない、かくしてヴォータンは世界の終わりをのみ願望する存在へと変わる。その断念の瞬間に照明を落とす演出の印象的なことときたら! 軍服を思わせる衣装と、前作での衣装との切替だけでその時どきのヴォータンの心情が明示されるのはわかりやすくも恐ろしい描出だ。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

第二幕の後半ではヴェルズング(ジークムントとジークリンデの父であるヴォータンが、兄妹に対してヴェルゼと名乗ったことから、兄妹はヴェルズングと呼ばれる)の兄妹ふたりの逃避行から、ブリュンヒルデによるジークムントに対する死の告知、そしてジークムントに影響されて変化、成長するブリュンヒルデの姿が印象的に描かれる。この変化がどう描かれるかが『ワルキューレ』ではもっとも重要な要素の一つだ、なにせこの作品のタイトル『ワルキューレ』は三幕で登場する戦乙女たちすべてではなく、彼女一人を指し示しているのだから。神々しく使いとして現れたまだ幼いところのあるブリュンヒルデが、ジークリンデへの愛を語りヴァルハラへの召喚を断るジークムントに感化され、父が諦めた希望の側に立つ(すなわち最後に受けた命令に背く)と決めるまでの長大な対話の場面は、大きな舞台上の動きこそないけれど、ワーグナーの音楽と相まって濃厚な時間となった。しかし強力にすぎる神であるヴォータン苦渋の決断が覆せるわけもない、ジークムントは敗北し、勝利したフンディングは神の怒りに触れて斃れる。残されるジークリンデとブリュンヒルデは激怒するヴォータンから逃げることしかできない。この幕で描かれる戦いに、勝者はいない。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

続く第三幕の舞台となる岩山は、この舞台ではトンネル状の滑走路として描出される。この置換えだけでヴォータンの企ての不穏当なることは明らかだし、トンネル内という不便な場所に滑走路が据えられることでそれが隠された施設であることに示される。この幕冒頭の有名な「騎行」の最中”陽気な戦乙女たち”はストレッチャーで運んできた英雄たちの死体と無邪気に戯れるのだから、演出家がヴォータンの(そしてそれはもちろんワーグナーの)空想に対して蔑まれた人間族の視点から苦言を呈している、のかもしれない。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

その岩山/滑走路に、ヴォータンの怒りを逃れて現れるブリュンヒルデとジークリンデはワルキューレたちに助けを請うけれど、父の怒りを恐れる彼女たちは何も決められず、ジークリンデをなんとか逃がすことくらいしかできない。過去の過酷な経験を思い出し、さらにジークムントを失って自棄的になる彼女を未来への希望が、まだ見ぬ我が子だけが支えることになり、そしてその子ジークフリートが次作の主人公となるが、それはまた別の話、来年の6月を待とう。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

心を許したブリュンヒルデへの偏愛はそのまま激昂へと変わり、ヴォータンは妹たちの懇願も受け入れず、ブリュンヒルデは神々の世界から放擲され、眠らせた上で人間の女として岩山に放置されると決められる。もちろん起こるだろう事態は想定した上の、非常な通告だ。しかし最終的にはヴォータンがブリュンヒルデの懇願を受け容れ、自身の心情も吐露して彼女をローゲの炎で守り、彼の槍もこの炎をも恐れぬ自由な存在へと希望を託して『ワルキューレ』は終わる。第三幕でも照明は印象的な役目を果たしたし、「魔の炎」における神秘的な映像演出は大いに目を楽しませるものだった。大団円のようでもあり、問題は解消されず先送りされただけのようにも感じられる両義的な幕切れは我々に何を問うのだろう。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

タイトルが指し示す役であるブリュンヒルデを歌い演じたイレーネ・テオリンをどう賞賛すればいいだろうか。第二幕冒頭では妹たちとそう変わらない幼さと強さを、そしてジークムントとの接触で変化し柔らかさと愛情を兼ねそなえた理想的ヒロインへと変わるさまを歌と演技で存分に示してくれた。その強い声はもちろんだが、第三幕で彼女が聴かせた弱音の美しさが、そこに伺えた祈りがこの舞台を次作へと繋いでくれることだろう。

次作へと繋げる存在としてはジークリンデが欠かせないことは上述したとおりだ。ジョゼフィーネ・ウェーバーは第一幕ではストレスで強ばった心理を映し出すように、フラッシュバック的な表現が連続する第二幕では感情のままに、そして第三幕では絶望の底で希望を見出して、と多面的なキャラクターを見事に歌い上げた。

彼女と愛し合うジークムントとして、ステファン・グールドは理想的な歌唱だった。迷いも曇りもない英雄として、運命に殉じる役どころを第一声から第二幕の終わりまで、美しく強い声を保って歌いきったことはそれだけでも賞賛に値するし、第二幕後半のブリュンヒルデとの対話は特にも強く印象に残る。

明確に”悪党”として示されるフンディングは役としてはあまりいい印象を持てないところだが、アルベルト・ペーゼンドルファーの巨大な体躯から響く低音の力強さは魅力的なものだった。ハンス・ザックス(「ニュルンベルクのマイスタージンガー」)やハーゲン(「神々の黄昏」)も得意としているとのことなので、機会があればぜひまた違った役どころで聴いてみたいものだ。

そしてヴォータン役、グリア・グリムスレイには最大の拍手を送りたい。3月に『サロメ』でヨハナーン役を演じた際にも強い印象を残した彼が、得意とするワーグナー作品で成功を収めることは誰もが期待していたことだが、この日のヴォータンは期待以上だ。時に冷静に策を練り、時に感情むき出しで暴力に訴えるこの舞台のヴォータンは、ただ強いだけでは務まらない。行動の表面的な強さによって隠される弱さを表現できなければ、全曲の終わりのブリュンヒルデとの対話であれほどの感動を生むことはできないだろう。力強い声、堂々たる体躯、多面的な演技で見事にヴォータンとして見事に舞台を支えきった。彼が次作『ジークフリート』でも同役(さすらい人)として登場してくれることの喜ばしさは言い表しようがない。

だが、第二幕の問答においてエレナ・ツィトコーワのフリッカは負ける要素がまったく感じられなかった。ヴォータンの詐術抜きでも、神の正式な妻として美しく装った魅力的なフリッカの前に、男性のその場しのぎの言い逃れが通用するはずもないのだ。普段なら延々と続く夫婦喧嘩とも感じられる第二幕を楽しませてくれた、その成果は大きいものだった。

そして日本人キャストが集まったブリュンヒルデの妹たちは、少女らしく無邪気に(時にやりすぎるほどに)舞台を駆け回り踊り歌い、短い出演時間ながらインパクトのあるワルキューレたちであった。キッチュというよりはいささか悪意もにじむ演出上の描写ではあったが、第三幕冒頭の照明の乱舞と相まって印象的な場面が生まれた。

そして飯守泰次郎指揮する東京フィルハーモニー交響楽団は、昨シーズンの『ローエングリン』に続いてのコンビネーションによるワーグナー作品で充実のサウンドを聴かせた。明るいサウンドの印象が強い東京フィルから、重心低く力強いサウンドを引き出したマエストロの実力の程を存分に見せてもらったように感じている。長大な作品を大人数で支えきった東京フィルの底力も賞賛に値するし、ピットと歌手との連携も見事なものだ。上演を重ねてさらなる表現の深みへと至ることだろう。

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

新国立劇場『ワルキューレ』ゲネプロ(撮影:安藤光夫)

世界を布置した『ラインの黄金』、そして男性キャラクターの野望がことごとく潰え未来(子どもたち)へと一縷の希望を託す『ワルキューレ』と続いたことで、やっと新国立劇場の「指環」の方向が見えてきたように感じられるのは私だけではないだろう。ゲッツ・フリードリヒ最後の「指環」では男性性の嗜虐性が批判的に現れ、そんな彼らは何もなし得ない。こうしてみてくると、ここに派手さや挑発的な仕掛けはないけれど、鬼才最後の「指環」は作品の本質のひとつである女性原理の優越を、できるだけそのままに示す洗練を重視している、そんな風に私には感じられている。

新国立劇場「ワルキューレ」は、この後五回の公演を予定している。長年この大作に取り組んだ演出家の本質へと踏み込んだ読み、最高のキャスト、経験に裏打ちされたマエストロの指揮に応えるオーケストラによる「ワルキューレ」、ぜひ体験して来年の残り二作の上演に備えていただきたい。

(取材・文:千葉さとし)

公演情報
新国立劇場オペラ 
リヒャルト・ワーグナー 楽劇『ニーベルングの指環』第1日<新制作>『ワルキューレ』

(全3幕/ドイツ語上演/字幕付)

 
【会場】新国立劇場 オペラパレス (東京都)
【公演日時】
2016年10月02日(日)14:00
2016年10月05日(水)17:00
2016年10月08日(土)14:00
2016年10月12日(水)14:00
2016年10月15日(土)14:00
2016年10月18日(火)17:00

 
【指揮】飯守泰次郎 
【演出】ゲッツ・フリードリヒ 
【美術・衣裳】ゴットフリート・ピルツ 
【照明】キンモ・ルスケラ 

 
【ジークムント】ステファン・グールド 
【フンディング】アルベルト・ペーゼンドルファー 
【ヴォータン】グリア・グリムスレイ 
【ジークリンデ】ジョゼフィーネ・ウェーバー 
【ブリュンヒルデ】イレーネ・テオリン 
【フリッカ】エレナ・ツィトコーワ 
【ゲルヒルデ】佐藤 路子 
【オルトリンデ】増田 のり子 
【ヴァルトラウテ】増田 弥生 
【シュヴェルトライテ】小野美咲 
【ヘルムヴィーゲ】日比野 幸 
【ジークルーネ】松浦 麗 
【グリムゲルデ】金子 美香 
【ロスヴァイセ】田村由貴絵

 
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

本公演は、フィンランド国立歌劇場(ヘルシンキ)の協力により上演されます

■公式サイト:http://www.nntt.jac.go.jp/opera/walkure/index.html


※「ニーベルングの指環」要約コンクールの結果が発表されました↓
http://eplus.jp/sys/web/s/opera_ring_concours/index.html​
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