【ACIDMAN 20th特別企画】唯一無二の3ピースバンド、その歴史と思想とは ~大木伸夫・前篇~

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2017.2.16
ACIDMAN・大木伸夫 撮影=西槇太一

ACIDMAN・大木伸夫 撮影=西槇太一

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ACIDMANにとって2017年は、結成20周年のアニバーサリーにあたる。1年を盛り上げる様々な企画が進行する中で、SPICEでは記念すべき年をさらに盛り上げるべく、メンバー3人の連続ソロ・インタビューを敢行する。その第一回に登場してくれた大木伸夫のために用意したテーマは“出会い”。どんな人、物、事件、音楽、思想との出会いが、大木伸夫を作ってきたのか? ニューシングル「愛を両手に」のリリース・インタビューからスタートし、彼の個人史からバンドの知られざるヒストリーまで、大河ドラマのごとく流れる壮大な物語を紐解く。

――今日は長い話になりますので、よろしくお願いします。まずは(最新シングルの)「愛を両手に」の話から始めますけども、大木さんをめぐる“出会い”というキーワードで言うと、この曲のプロデュースを手掛けた小林武史さんは、一番新しい出会いの一つということになりますか。

うん、そうですね。小林武史さんという方は、もちろん存じ上げていたし、楽曲としての素晴らしさを感じていたけれど、以前はまったく違う畑の人だと思っていて。たぶんハモらないだろうなと勝手に思っていたんですけど、あるタイミングで、小林さんが自分をボーカリストとしてイベントに呼んでくれた。そこが初めての出会いだったんですけど、最初の打ち合わせの日から、小林さんの印象がガラッと変わったんですよ。

――それはどんなふうに?

思っていたのと全然違う人でした。気さくで面白いし、宇宙人と話してるみたいな感じで、俺はわかるけど、周りは誰もわかんないみたいな(笑)。で、「なんで俺に声をかけてくれたんですか?」って聞いたら、“大木くんには宇宙を感じた”って。小林さんもすごく宇宙が好きで、そこから一気に仲良くなったんです。そういうふうに一緒に出るイベントが三つぐらい重なって、“あの人と仕事をしたい”と思い始めた頃に、ちょうどこの曲のリリースを決めたから、初めての試みだけど、小林さんだったら何をされてもいいやと思って、覚悟を持ってプロデュースを頼んだんですよ。そしたら、楽曲に手を入れることもなく、原曲のまま、すごく良くしていただいたという印象ですね。

――それは、意外にも、というか。

そう。もっといろんなアレンジをやってくる方なのかな?と思ってたんですけどね。でも、最初に電話で話した時に、言ってもらったことがあって、“大木くん、この曲はHOLYだよね”と。HOLYだから、僕はそこを大事にするよって。

――HOLY=聖なる、ですか。

俺からは何も伝えてなかったんですけど、すぐに読み解いてくれて、俺が求めていることをすぐにわかってくれた。

――この曲は、去年のアコースティック・ライブの時に初めて聴いて、1月のZepp Tokyoでも聴きましたけど、MCで言ってましたよね。大木さんのお祖母さまが亡くなった時のことが、曲のきっかけになっていると。その話、あらためてしてもらってもいいですか。

サビ以外のコード進行やメロディは、けっこう前からあったんです。でもなかなかうまくつながらないなと思っていた時、3年前に、自分の祖母が亡くなる時に……正確に言うと亡くなるもっと前からホスピスに入っていて、最初の頃はお見舞いに行ったら挨拶もしてくれてたんだけど、ある日急に俺のことをまったく認識できなくなったんですよ。“あっ”と思って、“ということは、この間会った時が最後だったんだ”と。体は生きているし、しゃべってはいるんだけど、もうあの瞬間から、ばあちゃんと俺はもう全然違う存在になってしまったんだなと。ずっと一緒に住んでいたから、やっぱりすごく悲しくて。

――それは……そうでしょう。

40年も生きていると、いろんな人の死に巡り合ってはいるし、バンド仲間が自殺したこともあったし。もちろん身内の祖父や祖母も、全部の死が悲しいと思っていたけれど、何度向き合ってもやっぱり死というものには慣れないなと。で、“なぜ死は悲しいんだろう?”って、自問自答を繰り返したんですけど、単純に会えなくなることが悲しいのならば、それは自分本位であって、自分が死ぬまで誰も死なないでほしいというのか?といったら、そんなことはおかしいわけで。とにかく一番知りたいことは、死を受け入れて、お葬式の時にちゃんと思いを込めるためには、その方が幸せだったかどうか?が、一番大事だなと思ったんですね。もしもできるのではあれば、最後の日を1日だけ伸ばしてもらって、「幸せでしたか?」って聞いて、「幸せだったよ」って答えてくれれば、ああよかったって言える。おめでとう、ぐらいの気持ちで「いってらっしゃい」と言えると思ったんですよ。それを思いながら、ホスピスの帰りの車の中で、泣きながら、この曲のメロディができました。

――重い話ではあるけれど。どこか、すがすがしさも感じます。

死を迎えた人に伝えたい言葉は、それに尽きるんじゃないか?と。ありがとう、だけじゃ何か足りないし。とにかく、幸せでしたか?の答えが知りたいと思って、この曲ができた感じです。

――これは、歌う時に相当感情が入るんじゃないですか。

入りますね。初めて歌った時は、かなり。でも今回(Zepp Tokyo)は、泣かずに歌えた。この歌は、きっかけはばあちゃんの話だけど、作品として出す以上、そういう自分本位の感情だけでは歌えない。この歌は俺のものじゃなくて、みんなに届けなきゃいけない歌だから、“泣いてる場合じゃねえや”と思ったんです。だけど、聴いてる人には泣いてほしい。それも、ただ悲しくて泣くというよりは、単純に……人って、泣くと悲しみが少し楽になるじゃないですか。で、最近ずっと自問自答しているのが――20年ずっと自問自答してるんですけど――俺はなんで曲を作り、なんで詞を書き、なんで歌うのかと。ここ数年は、とにかく人の悲しみを少しでも拭うことができるのであれば、おこがましいんだけど、自分にやらせてほしいという気持ちが強いんですよ。

――ああ。なるほど。

だから、涙をこらえている人には、「泣け」と言いたいんですよ。我慢するな。そうすると、少し楽になれるから。俺はあなたの人生に何も関与できないけれど、俺が歌うことで、ちょっとだけあなたの力にならせてくれよ、という思いが強くあって。だから、この間のライブでは、すごくいいふうに歌えたと思いますね。無の心境で歌えたというか。

――こちらも、無の心境で感動できる、本当にいい曲。さあ、ではここから、振り返ってもいいですか。大木さんとACIDMANのヒストリーを。

もちろん。

ACIDMAN・大木伸夫 撮影=西槇太一

ACIDMAN大木伸夫 撮影=西槇太一

――“出会い”ということでいうと、この地球上での最初の出会いは、家族ですよね。川越の、薬局の息子として生まれたことは、大木伸夫という魂にとって、いい出会いでしたか。

いい出会いだったと思います。川越は古い城下町で、本当にいい環境だったとつくづく思いますね。小さい頃は、とにかく兄貴の後ろばかりくっついていってた記憶があります。じいちゃんばあちゃん子だったらしくて、二世帯住宅の、そっちのほうにしょっちゅう遊びに行っていたらしい。そしてはっきり記憶していることとしては、今と変わってないんですけど、この世界の成り立ちを知りたくてしょうがない小学生だったことですね。小学校低学年のときに、5人ぐらいで班を組んで登校するんですけど、“この世界は絶対に、誰かが俺をだまそうとして作っている世界だ”と思い込んで、みんな虚構だと思ってた。俺は実験台にされているんだと思いながら歩いていて、ある日急に振り返ったら世界はそこには無いんだと思って。だからしょっちゅう振り返ってましたね。それで毎回、うしろの子がびっくりする(笑)。

――変な子ですねえ(笑)。

“何か今、あやしい感じがした”とか。ふっと空を見上げると、空のどこかが開いて誰かが見ている気がするとか。そういう子でした。宇宙に興味を持つきっかけも、その頃父親から、“この宇宙には果てがない”って聞いたからなんですよ。果てがないということが想像できなくて、想像ができないことがこの世界にあるのか!と思って、その日はもう眠れなくなった。果てがなく、ずーっと続いている空間があるという概念が理解できなくて、知りたくてたまらなくかった。あと小学校の時に、UFO研究会とかもやってましたね。

――当然そっちに行きますよね(笑)。若干オカルト方向にも。でも科学、オカルト、宗教とかって、相反するもののようで、微妙に重なり合うところがあるじゃないですか。

だから、そのへんはまとめて好きです。

――宇宙との出会いを経て、次に出会うのは音楽ですか。以前に『ロックンロールが降ってきた日』という本の中で、小学校2年生の時に出会って衝撃を受けたという、ホルストの「ジュピター」の話をしていましたよね。

初めて買ったCDですね。学校の授業で、ホルストの『惑星』の中の、「ジュピター」を聴いたんです。その瞬間にぞわぞわして、“これは絶対聴いたことがある”という、懐かしくてたまらないものを感じて、家に帰って「この曲のCDはないか」って聞いたんですよ。そしたら誰も知らないし、そんな曲も知らない。じゃあ買ってきてくれって、『惑星』のCDを買ってきてもらったんだけど、ほかの曲は全然わからないのに、「ジュピター」だけ、しかも後半から出てくる主になるメロディ――平原綾香さんが歌ったあそこのメロディを聴くと、ぞわぞわするんですよ。実は同じような曲はもう1曲あって、それも授業で習ったんですけど、「星の歌」だっけな。<何億光年もむかしのなつかしのメロディーが/いくつもいくつもふってきました>、という歌詞で。今でもそらで歌えるぐらい、ずっと好きなメロディなんですけど。その2曲が自分の中に、原点としてずっとあって。

――何なんですかね? 以前にどこかで耳にしていたとは思うんですけど。

現実的には、母親が胎教で聴かせていたのかもとか、そういう可能性もあるかもしれないんですけど。それをもっとファンタジーにすると、もともと我々は全員、違う星で生まれているので。さらに言うと、木星の周りにある四つの衛星、特にガニメデは過去に人間が住めたかもしれない環境をもった星で、ガニメデ星人が地球にやってきたかもしれないという、ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』という小説もあって。そういう可能性もあとで知って“あっ!”と思った。だから俺、「ジュピター」に反応したのかな?って。

――偶然の一致とは思えないという。

大人になっていくにつれて、そういう答え合わせができてきて。そっちのほうが、夢があるじゃないですか。そんなことありえないよって、普通の人はそう言うんですけど、逆にそういう人に出会うと必ず言うんですよ。「ありえないのはあなたのほうですよ」って。いま僕らの体に流れている血を構成している鉄はすべて、核融合でできた、最後の星の超新星爆発でしか生まれない。Fe=鉄は、星の最後の名残でできたもので、それを今僕たちは体の中に持って、体の中を流れ、それで生きているんですよ、という話をするんです。ということは、生まれる前の宇宙のどこかの記憶の方が、俺にとっては現実的なんですよね。

――面白い。大木さんって、ロマンチストっぽいんだけど、実はサイエンティストじゃないですか。浪漫の部分も、論理的に突き詰める。そこがすごく面白いと、いつも思ってますけどね。

知りたいんです、とにかく。特に小学校低学年とか無垢な頃なので、リアルだったんですよね。だから、未だに信じてるんです。

――その頃は、音楽家を目指すというイメージはあった?

まったくなかった。絵が好きだったんで絵描きになりたくて、コンクールとかによく出していました。小学校6年間で、絵の賞状が20枚ぐらいあります。たぶん僕の小学校の同級生は、“絵と言えば大木”というイメージだと思う。ちなみにその才能は、中1になった4月にぱたりと消えました(笑)。

――天才肌で、努力しなかったのかな(笑)。で、その次の重要な出会いというと、ギターということになりますか。

そうですね。中2の時です。ちょっと前から、兄貴の部屋からギターの音が聴こえてきていて、今思えばローリング・ストーンズのリフだったんですけど、毎日同じフレーズが流れてきて、うるさいんだけどなぜか気になった。こっそり部屋に忍び込んで、触ったりしていて。で、自分も中2の時に一番安いギターのセットを3万円ぐらいで買って、その時の感覚が、ものすごい武器を手に入れた感じだったんですよ。これで俺は一生食っていくんだ!という思いがありました。

――それはまさに天啓のように。

そう。こんなおもちゃがあったんだ!という感じ。それまでも大好きなおもちゃはいっぱいあったし、ラジコン、ミニ四駆、エアーガンとかいろいろやったけど、これに勝てるものは永遠にないだろうというぐらい、すごいおもちゃだ!という感覚でしたね。全然弾けない時に。

――そこがさらにすごい。弾けないのに。

だから、箱を開けた瞬間ですよね。ビリビリって紙を破って、箱を開けて、持った瞬間に、“ハッ!”という感じでしたね。すごい!って。

――それはつまり、モノとして?

モノとして。このフォルム、このカーブ、この重さ、この複雑さ。俺は絶対、一生ギターで食っていくと思いました。

――何だったんでしょうね、今思うと。なぜそこまで、ギターが輝いて見えたのか。

俺はずっと、友達もいたけれどいじめられたりもしたし、ハブかれもしたし、逆にいじめたりもしたし。みんなそうだったと思うけど、不安定な年代だったんですよ。友達と遊んでいても、ずっと心を許せていなかったし、いつ裏切られるかわからないとか、すごく傷つきやすかったので。それがきっと、ギターに出会った時に初めて、“裏切らない奴がいた”という気持ちになった瞬間だったと思うんですよ。それはすごく覚えてます。

――なるほど。

その瞬間から、友達に媚びへつらうのをやめました。それまでは、人の顔色ばかり見てたんですよ。前日までみんなで楽しくやってたのに、次の日からいきなりクラス全員に無視される地獄のような日々が始まったりとか、そういうことを小学校の頃から繰り返してきていたから。でも、そこでギターを手にした時……いま話してて思い出したんですけど、そこでまったくそういうことが気にならなくなった。こいつがあれば一人でもいいや、と思うようになって、気持ちがまとまっていきましたね。

ACIDMAN・大木伸夫 撮影=西槇太一

ACIDMAN大木伸夫 撮影=西槇太一

――最高の出会いですね。その後はもう、ずっとギターと一緒。

ずーっと弾いてて、絶対バンドやろうと思って、中学校の友達に声をかけて。家に集まってやったりするんですけど、やっぱり誰も本気じゃないんですよ。だから、高校に行ったら絶対本気でやろうと思って、そういう部活のある高校をリサーチして、入学初日から“バンド組まない?”ってみんなに言って回って。入学式で、隣にいる奴と前にいる奴と、全員に声かけてましたね。ちょっと悪そうな奴に。入学式の途中に、「(小声で)ねえ、バンドやらない?」。で、「俺は野球部だよ!」って返されたりして(笑)。

――(笑)。

それでフォークソング部というバンド活動もできる部活に入るんですけど。全校集会の時に、茶髪でロン毛の奴の後ろ姿がパッと見えたんですよ。結構真面目な高校だったから、そういう奴はあんまりいないんだけど、うちの学年っぽいなと思って追いかけて行って。その時はつかまえられなかったんだけど、フォークソング部の仮入部の時にそいつがいたから“見つけた!”って、すぐ隣に座って、「バンドやらない?」って言った。そいつが椎橋武史という奴で、ACIDMANというバンド名をつけた、最初のボーカルです。

――それにしても、茶パツでロン毛なだけでつかまえようとしたって、よく考えなくても変でしょう。歌えるかどうかもわからないのに。

見た目がかっこいい奴を探してたんです(笑)。歌えそうだな、ボーカルっぽいなって。そしたら案の定、ボーカルやりたいって言うから、よし!って。それもすごい出会いですね。その時のドラムは、俺のクラスの右隣に座っていた奴です。そうやってメンバーを集めていきましたね。

――やりたい音楽性というのは。

曲は、高1から作り始めてました。武史が詞を書いて、それに曲をつけて。実は、一番最初に作ったのはバラードなんです。すごくシンプルなバラード。で、同時にへヴィメタルのコピーバンドをやってました。モトリー・クルーとか、ラウドネス。俺、速弾きギタリストだったんですよ。

――噂はかねがね聞いてますよ。見たことないけど(笑)。

今はまったく弾けないです。でも当時は、隣の高校まで噂が流れていたみたいです。すごい速い奴がいるって(笑)。……それが無駄な努力であることに、卒業する時に気づくんですけど、高校3年間は気づかないまま猛進してましたね。絶対これでメシ食うんだ!って、速弾きで(笑)。

――高校時代というと、そろそろ佐藤雅俊、浦山一悟も登場してきますよね。

彼らもフォークソング部にいて、それぞれ違うバンドをやってたんです。佐藤くんは最初、自分がボーカルのバンドを組んでいたんですけど、それがとんでもない音痴で(笑)。誰か教えてあげなきゃいけないんじゃないか?というぐらい、突き進んでたんですよ。

――あはは。ひどいなあ。

どこかで、本人が気づいたんでしょうね。急にベースをやりだして、ちょうどその時に、最初に俺が組んだバンドのベースが抜けると言ったから、佐藤くんを引き入れた。それが高1の時。一悟くんは、違うバンドでドラムをやってたんだけど、友達ではなかったんですよ。俺、高校ではチャラチャラだったんで。

――チャラチャラって?

とにかく薄っぺらい感じ。ザ・高校生みたいな生き方してたんで。腰パン履いて。

――だって進学校でしょう。

進学校だから、いつも怒られてた。学校始まって以来のワルだみたいなことを言われて、不良じゃないのに先生から誤解されるようなタイプ。でも一悟くんは真逆で、真面目なタイプだったので全く接点がなかったんですけど、武史と一悟が同じクラスになって仲良くなって、椎橋くんが高校卒業と同時にドラムとして一悟くんを入れたいと。俺は猛反対しました。「暗いから嫌だ」って(笑)。でもバンドの多数決で、ボーカルがそう言うなら仕方ないということになって、俺がリーダーだから、高1から一緒にやってたドラムに、「ごめんな、おまえとはここまでだ」って泣きながら、みんなに囲まれながら電話した。で、不本意ながら一悟くんに電話して、「おまえにやってもらうわ」と……いや、違うな。前のドラムに電話した時、一悟はその場にいたかもしれない。悪い奴でしょ、あいつ。卑怯なんですよ。今もそうですけど(笑)。

――半分ジョークとして聞いときます(笑)。最初の頃の二人の印象としては、たとえばどんな感じだったんですか。

佐藤くんは基本的に今と変わらない。少年のようで、人がよさそうでニコニコしてて、すごくナルシスト。自分のことばっかり考えてる。……音痴にも気づかないようなナルシストなんで。

――そこはもういいです(笑)。

そういう感じで、今もずっと変わらない印象ですね。一悟くんも根は変わらなくて、朴訥としている、言ってしまえば地味な人でした。

――性格的には、大木さんと二人とはかなり違うと思うんですよ。どっちかというと、受け身だと思うし。

二人ともめちゃくちゃ受け身ですね。今振り返ると、彼らが受け身じゃなかったら、たぶんこのバンドは続いてなかったと思う。究極の受け身だから、いい意味で芯がない。「大木が言うならそれでやるよ」と二人が言ってくれてなかったら、どこかで衝突していただろうなと思う。でも彼らが我を出さずにいてくれるので、俺に任せてもらえているところがすごくでかい。当時からそうでしたね。

――なるほど。

佐藤くんとは当時、よく二人で買い物に行ってたんですけど、彼からどこかへ行こうと言われたことは一度もない。「明日あいてる?」「あいてるよ」「どっか行かない?」「いいよ」っていう人だったから。

――一悟くんが、MCで時々言うでしょう。「大木についていけば一生食いっぱぐれはないと思った」って。それも半分ジョークだろうけど。

それはね、高校の時から絶対思ってたと思う。バンドに入る前にもちょいちょい話はしてたんだけど、とにかく“大木のところに入りたい”と思ってたらしくて。これはどこかで言ったかもしれない話ですけど、教室で俺のバンドで打ち合わせをしている時に、部屋の隅っこで一悟くんが、俺が作ったオリジナル曲のドラムを叩いてるんですよ。聴こえるように。……要は“俺を入れろ”というアピールなんだけど、俺はそういう奴が大嫌いなんで(笑)。なんていうか、もう、サイコじゃないですか。

――気持ち悪いですね(笑)。大変申し訳ないけど。

なんでそんなことするの?って。あいつ怖えーと思ってた。まあ彼なりに、僕に才能を感じてくれてたみたいで、その後、うまいこと武史と仲良くなって、それから武史が俺を説得するんですよ。してやられたという感じです。

――そのへん、今度一悟くんのソロ・インタビューの時に深く聞いときますよ。

未だにずっと、呪いをかけられ続けているような気がする(笑)。

>>後篇へ続く


取材・文=宮本英夫 撮影=西槇太一

リリース情報
ACIDMAN ニューシングル「愛を両手に」
発売中
「愛を両手に」

「愛を両手に」

初回限定盤(CD+DVD)
TYCT-39049
¥1,800+税
<初回限定盤バンドルDVD>
ACIDMAN初ワンマンLIVE@下北沢ガレージ(2002年 5月25日)+活動最初期のLIVEシーンをダイジェストで編集 した超レア映像を20th Anniversaryの記念すべきこのタイミングに満を持して お蔵出し!
ファン垂涎のアイテムを付属DVDとしてリリース
(レーベル)VIRGIN
 
<収録曲>
M1. 愛を両手に
M2. snow light
M3. 水の夜に
M4. Live Track From 2014.10.23 Zepp Tokyo
(『世界が終わる夜』リリース記念プレミアム・ワンマンライヴ)
風、冴ゆる/波、白く/スロウレイン

iTunes: http://po.st/itaiwo
レコチョク: http://po.st/recoaiwo

 

ライブ情報
ACIDMAN 20th Anniversary 2man tour
02月18日(土) 広島:広島クラブクアトロ w / toe
02月26日(日) 福岡:drum logos w / SiM
03月03日(金) 石川:金沢EIGHTHALL w / The BONEZ
03月05日(日) 岡山:岡山CRAZYMAMA KINGDOM w / LOW IQ 01 & THE RHYTHM MAKERS
03月11日(土) 福島:いわき市文化センター w / THE BACK HORN
05月14日(日) 北海道:Zepp Sapporo
05月19日(金) 愛知:Zepp Nagoya
05月21日(日) 大阪:Zepp Osaka Bayside
05月27日(土) 東京:Zepp Tokyo
06月03日(土) 沖縄:桜坂セントラル
 
ACIDMAN主催『SAITAMA ROCK FESTIVAL “SAI”』
2017/11/23(木・祝)
故郷・埼玉県、さいたまスーパーアリーナにACIDMAN主催『 SAITAMA ROCK FESTIVAL “SAI”』開催決定!
 
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