《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 14 豊竹藤太夫(文楽太夫)
新國劇で辰巳柳太郎に鍛えられて
新國劇の名優・辰巳柳太郎の書生となった藤太夫さん。誰のもとにつくかは事務所に決められたという。
「梅田コマ劇場での美空ひばりさんの公演に特別出演される辰巳先生の楽屋に『今度、先生の書生にしていただきました林洋と申します』とご挨拶し、『玉川大学で演劇を勉強しています』と言ったら、『そんなもの、へのつっぱりにもならんわ』。まさにその通りでしたね。舞台袖で辰巳先生がひばりさんに『今度私の書生になった林です』と言ったらひばりさんが一言、『辰巳先生のところに来る人はみんないい男なのね』。ひばりさんの大ファンだったうちの母にそのことを話したら大喜びで、反対も何もなくなって(笑)」
初舞台は4年生の夏休み、中座での北條秀司作『王将』の通行人。
「辰巳先生演じる主役・坂田三吉の奥さんである小春が家を飛び出して、それを探して走る村人の一人です。大学時代には長台詞がある『ヴェニスの商人』のアントニオも演じていたのに、台詞がない走るだけの役で、脚がガタガタ震えて。プロの洗礼を受けました」
辰巳柳太郎はとにかく厳しかったという。
「名鉄ホールの藤田まことさんの公演に辰巳先生が特別出演した時、僕は台詞が少しだけある役をもらいつつ、場面転換で先生が着替える時に手伝う役割を与えられました。あざらしか何かの皮のブーツを履かせる時、右と左がわからず逆に履かせてしまい、『頭出せ!』と言われ、バチンバチンと叩かれて。漫画の通り、本当にチカチカと星が出るんですよ。多い日には1日3回くらい、こういうことがありました」
新國劇『国定忠治』楽屋にて。子分役の藤太夫さん。 提供:豊竹藤太夫
新國劇での初舞台『王将』公演時、辰巳柳太郎(右)と。 提供:豊竹藤太夫
新國劇での日々に突如、終止符が打たれたのも、やはり藤田まことの名鉄ホールでの公演中のこと。
「大門という昔の遊郭だったところが旅館となり、名鉄ホールや中日劇場の出演者の宿泊先になっていたんです。朝、食堂に行ったら、みんなが新聞を見ながら『えー!』と言っている。新聞全部がトップニュースで、『株式会社新國劇、倒産』『負債1億7000万円』。真っ青になりました。入団3年目のことです。つまり僕は、大友柳太朗、大山克巳、緒形拳、石橋正次など錚々たる顔ぶれが揃う辰巳柳太郎の新國劇の弟子の最後になりますね。ただし、辰巳先生は売れっ子でしたからいろんな劇団に出演し、僕らもそれについていって。実のところ、辞めないようにと出演料と付き人料が別で支給され、劇団時代の倍くらいもらえるようになったんです」
倒産が1979年10月。翌年1月の新歌舞伎座で杉良太郎の公演に出演していた時、藤太夫さんは忘れられない経験をした。
「杉良太郎さん演じる遠山の金さんのお白州の場面で『この桜吹雪が目に入らぬか』となさる時、横で棒を持って立っている役が僕でした。午前と午後の2回公演で、午前の部に出ながら『今日のお昼は何食べようかな』『2軒あるラーメン屋のどっちにしよう』と考えながら前を見た瞬間、新歌舞伎座の何千人ものお客さんが僕を睨んでいる気がしたんです。実際には誰も見ていなかったのですが。役者は向かないのではないかと思いながら東京に戻りました」
翌朝、赤坂のTBSの裏にあった常磐津の文字増師匠の家へ稽古に行った藤太夫さんを待っていたのが、文字増師匠からの運命の一言だった。
「文字増師匠から『これからどうするの』『私が男だったら文楽の太夫になるわよ!』と言われて。師匠は常磐津では一流の、コロムビアからレコードを沢山出している方でしたが、多分、文楽の太夫になりたかったんだと思います。先生は『美増会』という、文楽の人形遣いの(初世)吉田玉男師匠の後援会をされていて、2年に1回だったか、三越劇場で文字増師匠とお弟子さんたちが床を勤め、玉男師匠や吉田文雀師匠が人形を遣うという公演をなさっていました。文楽公演は僕も一度だけを買って国立劇場に観に行ったことがあったのですが、床がくるっと回って(四世竹本)越路太夫師匠が出た瞬間、『このおじいちゃん、絶対すごい人だな』と思い、そのまま爆睡。学生時代には今尾先生から『寝てもいいから、歌舞伎座の3階で日本の音楽に浸りなさい』と言われていましたから、無駄ではなかったはずなんですけれども(笑)」
文字増師匠の家を出て渋谷のレコード店に入り、買ったのが、八世竹本綱太夫の全集の、バラ売りしていた1枚。その中の『仮名手本忠臣蔵』大序を聴いて、「歌舞伎だ!」と思い、2月の文楽東京公演も見た上で国立劇場の文楽研修生に応募、3月には試験を迎えた。
「面接には歌舞伎の先生もいて、『君は歌舞伎が好きなのに何故、歌舞伎を受けないの』と聞かれ、『世襲制度ですから』と答えると、文楽側の越路太夫師匠、玉男師匠、(九世竹本)文字太夫(のちの住太夫)師匠がニヤリ。めでたく合格し、7期生となりました。弟子入りを考えていたのは、最初から文字太夫師匠のみ。文字増師匠のもとで常磐津をやっていたら僕も『文字』がついていたはずなので親近感がありましたし、何より一番面白かったんですよ、主役は勿論、端役に至るまでみんな生き生きとしていて。弟子入り先の師匠を第一希望、第二希望、第三希望と書くのですが、僕は第一希望のみに『竹本文字太夫師匠』と書いて、取っていただきました」
文字増師匠が喜んだのは言うまでもない。
「芸名の候補を師匠から5つほどいただき、『文字増師匠に決めてもらえ』と言われたんです。それで先生のお宅に伺おうとお電話したら『今言ってみて』と言われ、僕自身も一番良いなと思っていた『文字久太夫』に決まりました」
≫住太夫の熱血指導を受けながら