20周年を迎えたガガガ前田x神戸音楽シーンの最重要人物であるパインフィールズ松原氏が今だから語ること
――前田くんは「このブームが長く続くわけない」と、冷静に見ている部分もあった?
前田:思ってましたけど、「だったら、次に何をしたら良いのか」は分かってなかったですね。その辺はいまの子の方がクレバーやと思うし、いろいろ考えてるんじゃないですか?
松原:ガガガなんて「周りのバンドと一緒にすな!」みたいな感じをわざと出したり、しばらくしたら「青春パンクや」って言い出したり、すごい面白いなと思って見てたけどね。『オラぁいちぬけた』(3rdアルバム)なんて、すごい衝撃的なタイトルやったし。面白いことをし続けてきたから、今があると思ってますからね。
前田:みんなが「青春パンクを守ろう!」って空気の中で、僕は守れないと思ったんです。だったら横槍入れてやった方が、盛り上がるやろうなと思って(笑)。
――そしてガガガSPは2003年、人気も最高潮の頃、神戸で「震災復興完了フリーライブ」を開催。全国の人に神戸に目を向けさせて復興完了を宣言するという意味を持つライブは、いま振り返ってもあのタイミングしか無かったと思います。
前田:いや、ホンマにそうやと思います。その後も色々やってるんですけど、やっぱり一番大きなものにはなりましたよね。あの頃、どこに行っても震災のことを聞かれるわけですよね? だったら一回フリーライブをやって、復興完了を宣言して、自分が関わるのはこれで終わりにしようみたいな気持ちもあったんですけどね。
――松原さんはあのフリーライブにすごい感銘を受けたんですよね?
松原:そうですね。僕が「震災に関わる何かやりたいな」と漠然と思っていた時だったのですごい衝撃を受けたし、同い年でここまで考えてるのか!? って驚いたし。
――そこにあったのは、「COMIN'KOBE」で掲げてる、「阪神淡路大震災を風化させず語り継ぎ、神戸から恩返しがしたい」という、現在と変わらない気持ちだったんですか?
松原:もちろん変わらないです。ただ根本的に言うと95年、中3の時、震災が起きた時に何も出来なかったので、神戸に住んでる人間としてアカンなという気持ちがずっとあって。
前田:でもね、それは仕方がないところもあって。松ちゃんの住んでたところって山の方で、被害の少ないところやったんです。ウチの学校でも被害の少ない地域の人は、その日も学校があると思って、制服着て学校行ってたくらいでしたからね。
松原:僕もそうですよ! 「何が起きてるか分からないけど、学校に行かなあかん」と思って慌てて行ったら「何しとんねん、はよ帰れ!」って先生に怒られて。「やった! 学校休める」くらいの気持ちしか無かったですからね。
――そのエピソードは当事者だからこそ語れる話だし、すごいリアルですよね。
松原:そもそも地震を体験したことなかったから、「これは地震なのか?」って思ったくらいで。ちょうど宇宙人に解剖されてる夢見てたから、ドーンとなって起きた時も「最悪や、これは宇宙人や!」って本気で思いましたから(笑)。
前田:その年に地下鉄サリン事件があったり、その2年後には酒鬼薔薇事件があって。79~81年生まれの神戸の人って、思春期に色んなことがありすぎて精神が不安定な人が多いらしいんですよ。99年には地球が滅亡するって言われてて、滅亡に向かってる感じはすごいあって。「もうちょっとなんかしたいなぁ」みたいな気持ちはあったかも知れない。
松原:俺、「ノストラダムスの大予言」に背中押されて、好きな子に告白したもん。「どうせ滅亡するから、恥ずかしい思いしてもええわ!」って(笑)。……話が逸れましたけど、そうやって震災を経験したけど、自分は何も出来ていないという思いがずっとあって。「阪神淡路大震災を風化させず語り継ぎ、神戸から恩返しがしたい」というのは事業計画を提出する時にも書いたし、実際その通りなんですけど。最近になってより明確になったのは、“自分の罪滅ぼし”が一番の目的だったんやろうなって。だから外に向けてというよりは、自分に向けての気持ちがイベントを立ち上げた時の初期衝動やったと思います。
――罪滅ぼしと言っても、松原さんには何の罪もないんですけどね。
松原:ただ僕は20歳くらいの頃、バンドで全国ツアーに行った時、どこに行っても「神戸から来た」っていうだけですごく優しくしてもらったり、優遇してもらったりしていて。その時は「ラッキー!」と思ってたんですけど、そこにだんだん罪悪感が生まれてきて。そこに対する罪滅ぼしとか、恩返しって気持ちがすごくあるんです。
前田:そういう気持ちが持てたのはホンマに偉いよね。そこで05年に始まった「GOING KOBE」の頃はまだそんなに規模も大きくなかったけど、いまや日本最大の無料フェスになっていて。ひとつのライブハウスが抱える規模のイベントじゃなくなってきてるんですよ。一昨年、松ちゃんが癌になって仕事を引き継いだスタッフが、「ここまで一人でやってたんだ!」って驚いたって聞いて、とんでもないエネルギーを遣ってたんなと思いました。
――最初だって、何かをゼロから立ち上げるのってすごいエネルギーがいりますしね。
松原:そうですね。そこで最初、協賛を探してる時に「ガガガSPは出ないのか?」って、よう言われたんですけど。僕は同い年で同じくバンドをやってたので、ガガガSPに勝手なライバル心も持っていて、「ガガガを頼らずにやろう」と思ってたんです。でもある時、「そんなちっちゃいプライドを持ったヤツが、そんなでっかいイベント出来るわけないわ!」と思って、勢いで前ちゃんに電話して、焼肉に誘って。「出てくれへんか?」って、直接お願いしたんです。立ち上げの時から、ガガガにはすごい助けてもらってますね。
前田:ただその頃、僕はパニック障害を患っていて、ガガガの活動も休止してて。バンドとしてステージに立つことが出来る保証が無いので、すぐには答えられないって話をしたんです。ただ、何かのキッカケでバンドをやらないと、一生やらないまま終わってしまうんじゃないか? っていうのもあったんで、今となってはあの時に運命の決断があったんやなと思いますね。それから13年、誰もこんなに続くイベントになると思ってませんでしたけど、ずっとトリをやらせてもらって。そのお陰でガガガSPというバンドに箔が付いたというのは事実やし、ブームが終わってからも「COMIN'KOBE」でトリをやってるってことで世間に知ってもらったこともあったし。最初は自分らが一番デカいバンドやったんですけど、どんどん名前のあるバンドも出るようになって。そんな中でも自分たちがトリを務めなきゃいけないってところで糧にもなりましたし、すごい感謝もしています。