《新連載》もっと文楽! 〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol.1 吉田和生(文楽人形遣い・人間国宝)

インタビュー
舞台
2022.9.17

ひょんなことから文楽へ

和生さんは1947年7月、愛媛県生まれ。文楽を見たことのない若者がこの世界に入ったのは、ひょんな経緯からだった。

「僕は高校の時、1年休学しているんです。それがなければこの仕事に入らなかったと思います。一応、大学に進学するつもりだったのだけれど、高校3年の1学期の中間テストの時、夜になると熱が出るので病院に行ったら、『肺に影があるから1年間休学するか通学しながら治療するか』と言われて、担任の先生に相談したら、『今の1年は大きいかも知れないけど、50歳と55歳は変わらへんで』と。『なるほど、じゃあ休みます』ということで、その間に勉強でもしようと思いつつ、本が好きだったから昼夜逆転で滅多矢鱈に乱読した中に、松田権六の『漆のはなし』という本があって、作家は無理でも職人ならいけるかな、などと考えて。担任の先生も『大学は、大学を出ないと就けない職業になりたい人間と、大学4年間かけて何をしようか考える人間が行くものだ』。僕はどちらでもないなと考えたんです」

以来、伝統工芸関係の仕事を色々当たっていた和生さんに転機が訪れたのは、高校を卒業した3月のこと。

「京都へ博物館の国宝修理所を見学に行く時、文楽人形のかしらを彫る大江巳之助さんに「帰りに寄ってもいいですか」とお手紙を書いて許可をもらって。僕は『どんなもんか見てみようかな?』くらいの感覚でしたが、大江さんからは『文楽のかしらは90%わしが作っているから、今来ても舞台で使うかしらは彫られへんぞ』と言われました。それで家に帰って10日くらい経った頃だったか、大江さんからお手紙が来て大阪にかつてあった朝日座という劇場の文楽の4月公演に誘われたんです。こちらはふらふら遊んでいたからちょうどいいと思って大阪に行き、そこで、文楽の中でかしらの担当をしていた師匠を紹介されました。文楽のことは知っていたけれど生で観たのはその時が初めて。でも、実は特別に感動したというほどでもなかった(笑)」

さらに奮っているのは、その後の展開だ。

「師匠に『夜、泊まるところは?』と聞かれて決めていないと言ったら『うち来るか』と一晩泊めてもらい、翌日、朝ごはんを食べながら『どないする?』と聞かれ、『やります』。一宿一飯の恩義を感じたわけでもないんだけど、何故かそう答えて、その日から楽屋に行って黒衣として手伝いを始めたんです。幕を開けるなどの仕事をしながら一ヶ月ほどしたら、師匠が『お前、家に知らせた?』『いや何も』『こりゃ1回帰らな、あかんな』。あとで田舎の親戚に聞いたら、捜索願を出そうかという話になっていたそうです(笑)」

師匠と一緒に紅テントを観た!

そんなつもりもなく文楽に入ったことを「間違えて入った」と称する和生さん。以来50年以上、文楽の世界で修業を続けてきたことになる。そんな和生さんが、この道でやっていく真の覚悟がついたのは、1996年12月の『仮名手本忠臣蔵』四段目の塩冶判官を遣った時。判官とは浅野内匠頭のことだが、この四段目で切腹する場面は“通さん場”と呼ばれ、客席の出入りも許されず、静寂の中、厳粛な雰囲気で進行する。

「うちの師匠には『(切腹する時の)判官は、太夫の語りもなくなって自分一人で間を持たなあかんから、絶対早くなる。そうすると急いで切腹しているようだし、かと言ってゆっくりやると切腹を引き伸ばしているように見えるから、よく考えてつくらなあかん』と言われていたのですが、2日目くらいかな、大星由良之助(大石内蔵助のこと)役を遣っていた(初代)吉田玉男さんから『ちょっと長くないか』と言われて。とはいえどこを削ったらいいかもわからないまま自分なりにやっていたのですが、その後は何も言われなかったので、まあまあ、それなりになんとかなったのかな、と。うちの師匠は何も言わなかったけれど」

改めて、文雀師匠との思い出を聞いてみた。

「うちの師匠は引き出しを沢山持っていないと、ということで演劇に限らず色々なものを観ていて、僕も一緒になって楽しんでいました。唐十郎さんの紅テントを二人で観に行ったことも。何かの用事で東京に行って1日休みができたら、師匠が『和生、明日どないすんねん』『紅テント行きます』『わしも行くわ』。暑かったけど、師匠と一緒にテントの周りの行列に並んで。終わってから師匠は『人間のすることは今も昔も変わらへんなあ』と言っていましたね。『子午線の祀り』を観た時は、知盛役の嵐圭史さんがずば抜けて良い、ということで師匠と意見が一致しました。僕一人でもミュージカルから、新劇、踊りまで、色々と観てきましたし、今でも時々観に行きます。師匠は随分変わった人でしたが、僕も変わっていたので、師匠のウンチクが面白くて、ちっとも苦にならずついていきました。うまく育ててもらいましたね。生き字引みたいな人で、何を聞いても『あれは何年』とすぐ出てくる。だから、僕は舞台の出来事を書いておこうと思ったこともあったけれど『いや、おやじさんに聞けばすぐ出てくるから、いいや』と、結局、書かずじまいで(笑)」

そんな和生さんは、今、師匠がしてくれたのと同じように、折りに触れて弟子に様々な話をしているという。

「今も、弟子に“孔明”というかしらの由来として三国志の諸葛孔明の話をしていたんです。『碁太平記白石噺』にしても由比正雪の事件などの史実とフィクションがないまぜになっている。具体的にどうこうということでなくても、そういう作品の裏のことを知っていないと本当には理解できないんです。今は稽古にも録画や録音を使うことができて、それはそれで便利ですけど、昔は人に習いに行けば、『今はこのやり方だけれど誰それさんはこういうやり方をしていたよ』『昔はこうやってたね』なんて話を2つ3つ聞くことができた。だから僕は、どこまで理解しているかわからないけど、なるべく色々なことを喋るようにしています」

≫「技芸員への3つの質問」

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